DAYS2 -AnotherSide4- 『それだけが僕の望み』
『DAYS2-AnotherSide1-』にて
大型ノッカーにノックされた部屋の中で起きていた出来事。
【ノックされた部屋の中で目覚めた女性視点】
『DAYS2-AnotherSide1-』にて、大型ノッカーにノックされていた部屋の中で起きていた出来事。
【ノックされた部屋の中で目覚めた女性視点】
目が覚めた時の私の眠り方は、まるで学生が机に突っ伏して寝ているかのような姿勢だった。はしたない事をしてしまったなんて思いながら涎を拭って顔をあげると、そこは見慣れた広い図書館、まるで受験勉強中に寝落ちした学生のようだ。どちらにせよはしたない事には変わりがないが、誰にも見られていないようで安心する。
そんなボウっとした頭を叩きつけられたように違和感がすぐにやって来る、私の衣類は勿論学生服なんかじゃなかったし、しかもなんだか体中がヌルっとしている。
「えぇ……ほぼ裸……」
簡素な肌着に、ゼリー状の液体がこれでもかという程に付着している。
まるで私自身を、まるごと果実入りゼリーの中の果実にでもしようとしていたのかとすら思う程、身体の何処かしこに付着しているゼリー状の液体。
「私入りのゼリーでも作る気だったんでしょうか……」
一人呟き、もしや甘いのでは無いかとゼリーの匂いを嗅いだが、無臭だった。舐めるのは、流石にやめた。
「此処は……」
頭はぼんやりしていたが、記憶を辿ると此処が"人間退化学"実験施設であるところの『ディジェネ』の中にある大図書館である事が分かった。私は、この施設で行われていた退化学実験の被験者の一人だ。
"人間退化学"
文字にすると何やら随分と後ろ向きな学問のように思えるけれど、むしろこれはその逆で、人間が人間として生きる為、これ以上進化してしまうのを止める為に出来た前向きでいて、急速に成長させざるを得なくなった学問だ。
「そっか、そういえば私には起きる場所、選ばせてくれたんでしたっけ」
本を読むのが好きだった。物語が生きているような気がして、いつも胸を躍らせていた。そんな私が選んだのがこの図書館。貯蔵量はそれ程多くなくても、居場所にするには十分すぎる大好きな場所だった。部屋だと思えば広いけれど、図書館と思えば狭い程度の数階建ての図書館で、私は眠りについたのだ。
『ディジェネ』での最終実験、進化抑制薬を投与して数週間の睡眠の元、観察によって進化抑制薬はほぼ完成に近づくと所長は言っていた。ただ、被験者に選ばれた人間の中でも私はとても特殊な例で"強制進化"への完全耐性を持っている人間だ。
私は絶対に進化出来ない、強くなれない。けれどその代わりに、死ぬまで人間で居続ける事が出来る、稀有な例だ。
"強制進化"
何の気配も無しに始まった全人類の急激な体組織の進化、それに伴う理性の喪失。
『エボル現象』と呼ばれたそれは、人類全体が理性を失った生物の集まりになる危険性の伴う、全世界を巻き込んだ病のような物だった。
その『エボル現象』を食い止める為に急遽発足した『ディジェネ』と呼ばれる機関の被験者に選ばれた人達は、その殆どが進化速度が遅い、いわば進化に対する落ちこぼれ達だった。尤も、その進化が遅いという事が幸せな事だというのは、その後周知の事実となっていく。
身体進化は基本的には緩やかに進むが、進化する部位は人によって違い、最初は奇跡だと喜ぶ人達もいた。けれど、私が強制進化への耐性を持っているなら、その逆で強制進化のスピードが物凄く早く、あっという間に理性を失う段階まで進化する人間もいた。その人間の、もう人間とは呼べなくなったおぞましい姿を見ればこのままでは世界には化け物しかいなくなることは明白だった。
選ばれた被験者達はこの施設で完全隔離され、ゆくゆくはエボル現象を止める新薬への開発や、進化抑制薬の研究に協力してくれていた人達だった。
その協力への報奨金は一個人で考えると相当な物で、まだ理性を失った状態の人間が世間に知られるまでは、多くの人が我が先にと研究協力に飛びついていた記憶がある。ただ、その飛びつく目的が、報奨金では無く生存の為になるまでは、あっという間だった。
多くの人間が飛びついたと言っても、実際に飛びつけた人間は極少数。結局の所、例外を除けば全世界で行われた進化耐性検査にパスした人間しかこの施設には入れなかった。
私を懇意にしてくれていたこの施設の所長に、進化が末期に近付いた人達の暴動の映像を見せてもらった事がある。身体の節々が異常に発達して、理性を失っている人間達の暴動。
確かその映像を見せてくれている時に彼が「あれが成れの果てだよ」と苦々しい顔をして、続けて「このままじゃ世界そのものが朽ち果ててしまう」と呟いていたのを覚えている。その映像に音はついていなかったが、もう人間と化け物の戦争かと思われる程の、悲惨な絵面だった記憶がある。
寝起き早々、嫌なことを思い出してしまった。私は頬を少し叩いて、部屋の時計を探す。けれど、時計には時刻表示しかされていなかった。
――そうだ、この施設の時計に日付は無い。
少なくとも私達が知る事の出来る範囲で日付を知る事は出来なかった。職員は把握していただろうけれど、どうしてか教えてもらう事は出来ず、そういう物なのだと当時の私は納得していた。
「確か、眠るにしても二週間くらいだったはずだけれど……」
立ち上がって大きく伸びをすると、ドン、ドンと強いノックの音が聞こえる。記憶が正しければスリープ状態の解除は施設職員がやっているはずだから、おそらく状況説明のために施設職員の誰かが迎えに来てくれたのだろう。
それにしたってもう少し静かに叩いてくれても気付くのに。でも、ここは図書館だからドアとの距離が遠いと気付けないのかもしれない。
「はぁい」
そう返事をしながら、一歩踏み出した瞬間、何かに躓いて思い切り転んでしまった。
「いったったぁ……」
転んだ痛みと同時に、頭を打ったわけでもないのに頭が引っ張られるように痛む。こんな所に一体何が、と思い下を見るとそれは自分の髪の毛だった。
「え………?」
長いどころじゃない。百六十センチ程の私の身長を軽く越える長さ。その長い髪を見た瞬間、私が眠っている時に流れた時間の量を悟り、顔が青ざめるのが分かった。おそらく、私が眠りに落ちてから、もう既に年単位で時間が経過している可能性がある。それは単なる勘のようでもあったが、なにかの手違いであってほしいとも願っていた。
「姿がそのままだって言うなら、髪の毛が伸びるのも止めてくれたら良かったのに……」
自分が歳を重ねたという感覚は無い。ゼリー状の薬液に移る私の顔も、私の身体も眠った日のままだ。私は後ろに髪をまとめ、薬液を吸って何キロにもなっているであろう自分の髪の毛を引き摺りながら、急いで覗き穴を覗く。
そうして覗き穴を覗き込んだ途端、私はこのディジェネで行われていた研究の失敗までもを悟ってしまった。
「あいつらだ……」
赤い右目が覗き穴の向こうで笑っている。その化け物には見覚えがあった。確かあの姿は、身体能力が全体的に向上し、片一方の視力がほぼ無くなった人の末路のはず。けれど、その巨大な目玉は見たことが無い。
「あの時から、更に進化してる……?」
私は覗き穴からじっと外にいる人間の成れの果てを観察していると、急に視界に刀を持った女性が現れ、その成れの果てと戦闘を始めた。
「あの人は確か……」
刀を持ち、化け物と戦う彼女を私は見たことがある。進化耐性検査には不合格だったにも関わらず、お金持ちのご両親が研究の支援金を大量に渡す事で、被験者という扱いながらも、実験段階の退化薬を投与してもらっていた人だったはずだ。相当大事に育てられていたのだろう、彼女の為にディジェネに支払われた金額は、被験者に与えられる報奨金の全てを賄っても余る程だったと、あの人が言っていた記憶がある。
それに、あまりに綺麗な人だったので施設内では目立っていた。口ぶりはやや粗暴だったから近寄りがたかったし、話した事も無いからよく覚えている。
ともかく、あの化け物がこの施設内をうろついていて、被験者がそれと対峙しているということは、想像以上にこの状況はまずい気がする。
「とにかく、今の状況を把握しなきゃ……」
覗き穴から顔を離し、図書館の中を見回すと、煌々と光を放つ物体を長机の上に見つけた。それを確認しようと歩き出した途端、ドアの向こうで大きな破裂音が鳴り響き、ビクッと体が跳ねる。
おそらく、これは銃声だ。もう既にこの施設の中は、銃声が飛び交う程の状況なのだ。あの刀を見た時に薄々勘付いてはいたが、この施設ももう既に、いつかあの人に見せてもらった暴動の映像のように、人間同士の殺し合いに発展している。片方は未だ人間の姿と理性を保っていて、片方はもう既に人間の姿も理性をほぼ捨てているのだから、人間同士というのは少しだけ違和感はある。人間同士と元人間同士と言えば正しいだろうか。
そんな事をグダグダと考え、銃声で跳ねた自分の心臓を落ち着かせている間に、二発目、三発目の銃声が聞こえ、落ち着く暇もなく、体が震える。当たったかどうか分からないにせよ、成れの果て達はもう、重火器や刃物で対抗しなければいけない程の存在になっているのだ。それに、躊躇なく殺すべき存在になっている。だからきっと、ここにいる元人間達の多くは、もう既にきっと皆が私が知る以上に進化している成れの果てだ。
硬直した体を前に進め、光る物体を手にすると、それは少し大きめの銀色のタブレット端末だった。あたかも『重ねろ』と言わんばかりに、両掌を開いた表示が出ていたので、その上に両手を重ねると、両掌の下からゆっくりと熱を感じ、その熱が指先に辿り着いた瞬間「認証完了」という機械音声が聞こえた。
おそるおそる手を離した途端、テーブルに置かれたままのタブレット端末は瞬きも出来ないくらいのスピードでカシャっという音と共に強い光を私に向けて放ち、再度「認証完了」という機械音声を流した後、電源が落ちた。
不思議に思いタブレット端末を裏返すと、そこには油性マーカーで殴りが書かれたような私宛のメッセージがあった。
『これで全部使えるから、頼むぞ。耐性ちゃん』
耐性ちゃん……、私をこう呼ぶのはあの人、所長だけだ。彼はいつもおどけた素振りをして、私には、ちゃんとした名前があるのに耐性ちゃんと気安く呼んでいた。
私には、ちゃんとした名前が、あるはずなのに。あるはず、あったはず、あったはず?そう思った瞬間、冷や汗が吹き出るような感覚を覚える。
――ああ、目が覚めてからこんな気持ちになりっぱなしだ。
「名前、私にはやらないって言ってたのに……」
被験者達は元々持っている進化耐性に加えて、これ以上進化の影響を受けないように、まずは記憶に関する手術を受けさせられていた。研究の結果から、一時的に記憶を混濁させる事で強制進化に関する影響を抑えられるという事らしかった。これは私が所長と長い時間を共にしていたからこそ知り得た情報だ。進化を停滞させる為には、どうやらエピソード記憶が邪魔になるという研究結果が出ていたらしい。特に成れの果てに関する記憶は忘れるべきだという事が分かっていた。
他の被験者達にはおそらく詳しく知らされていない。そうして、おそらくスリープ状態に入った被験者達には記憶の混濁が起きており、多くが自分についての記憶を失っていただろう。進化を止める対価として、記憶を支払うというような内容の薬物を投与されていた事を記憶しているが、その副作用として、殆どの被験者には更に記憶の混乱や喪失が起きるのが予想されていた。だけれど本来はその記憶も投薬によって何とか出来るという手筈だったはずだ。
けれど私は完全耐性持ちだったはずだから、記憶に関しての処置は受けていない。大規模スリープ時に被験者達に投与された薬も私は投与された記憶が無い。だが一応という事で私も大規模スリープには参加させられたのだ。今思えばそれがおかしいと気付くべきだった。
――手術も投薬も受けずにスリープに入った私が、どうして……。
私には物を考える時に私は首筋を触る癖がある。だからこそ、自然と首筋に手が触れた時に理由が分かった。首筋の違和感、傷もまた治癒すらせずにそのままだったのだろう。おそらくは注射痕、長い年月を眠っていたとしても、その注射痕を触るとチクリと痛んだ。
「私も……、何か打たれてるんだな……」
眠っている間に起きている事が何だったのかはわからないけれど、明らかに異常事態が起きたのだろう。ドアの外で新たに二発銃声が聞こえたのが、その何よりの証拠だ。
「さっきのタブレット、全て使えるっていうことは」
私が目覚めたこの『ディジェネ』の図書館は吹き抜けの四階層になっていて、確か四階のフロアの奥には施設職員しか入れない資料室があったはず。そこのドア、というよりこの施設のドアは基本的に指紋認証で動いていた。全てが使えるということは、もしかすると何か重要な資料か何かで今の状況が分かるかもしれない。
私は電源が消えたタブレット端末を起き、入り口横の階段を登ろうとする。
すると、不意に外から声をかけられた。
「そこにいる!? この声が聞こえてたら、良いって言うまで開けちゃダメだからね!!」
綺麗で透き通った、それでいて芯のある強い声。
あんな化け物と化した存在と対峙しているというのに、これ程に力に満ちた声が出るものなのだろうか。
「は、はい!」
思わずその声に釣られて語尾を強めたつもりが、緊張の余り裏返った声が出てしまったことに少し心が落ち込む。覗き穴をそっと覗くと、外にはもう既に人間の成れの果ての成れの果てが二体分転がっているのが見えた。とにかく、外は彼女と、もう一人の銃を撃っている人に任せて良さそうだ。そもそも、私が飛び出した所で足手まといにしかならないだろう。
私は階段を登り、階段を登り、階段を……、登るのをやめて四階の階段の前で座りこんだ。明らかに体力が減っている気がする。階段を登る途中で、何度も自分の髪の毛を踏みつけてしまい転びそうになりながらも、四階の施設職員専用部屋の前についた。基本的にこの施設のドアは、そのドアに対する指紋認証さえ通っていればドアノブを少し触ってから回すだけでいい。
おそるおそるドアノブを掴むと、カチャっという音と共に解錠の音が聞こえた。
「ってことは、管理者権限か……」
このドアが開くという事は私はこの施設のほぼ全てのドアを開けられるという事になる。なんてものを託されたのだと何とも言えない気持ちになる。耐性があったとはいえ、所長から沢山の話を聞いていたとはいえ、私なんかにこんな重荷を背負わすなんて、所長はやはり意地悪だ。
部屋を開けると、そこは真っ暗だったが、部屋の中に一歩踏み込んだだけで電気が付く。図書館が明るかったので心配はしていなかったが、電気系統は生きているみたいでホッとした。
そして、その年毎にまとめられたファイルが並べられた棚を見つけた時に、ゆっくりと涙が溜まっていく感覚を覚えた。衝撃は、それほどまでに大きかった。
「予定じゃ、数週間って……」
私達が眠った年が書かれたファイルが一番右に並べられている。その左には、一つずつ年の数が増えているファイルがあった。
「そりゃ、髪も……、伸び、ますよね……」
涙混じりの声でも言わずにはいられなかった。それ以上に、黙ってなんていられなかった。
――だってそのファイルは、少なく見積もって三十冊はあったのだから。
つまり私は、三十年間この施設で眠り続けていた事になる。
「所長の、嘘つき……」
思わず心の声が漏れる。私は茫然自失のまま、私達が眠った年のファイルとは真逆にある、最新のファイルを手に取り、目を通す。
すると、そのファイルは最早コンピュータで作成され印刷された文書ではなく、手書きのノートをファイリングした物だった。
一ページには、またあの人から私への私信。それも、小さい文字で、びっしりと書かれている。彼らしくないなと思いながら、文章に目を通す。
『耐性ちゃんへ。
あの後の研究で、進化への完全耐性のあるキミでも多少の記憶を切除しないと進化ルートに乗っちゃう事が分かった。だから結果的に完全耐性ってのは、嘘になってしまった。名前を取ってしまってすまない。
けれど、キミから取ったのは名前だけ、これから出会う皆は名前も含めて覚えていない事が沢山あると思う。出来るのならば力になってあげてほしい』
断れない私の性格を、彼は知っている。けれど、助けるなんて私には難しい事だって知っているはずだ。三十年歳を取った彼を思いながら、次の文章に目を落とす。
『起こす順番は僕が決めた。耐性ちゃんの後は、キミと一番仲の良かったあの子。 キミが起きた二日後に部屋が開くようになってるから、迎えに行ってあげて。 だけどあの子は最後の薬でキミの事も多分忘れているから、ショックは受けないように。
でも、名前を思い出させないようにして欲しい。記憶が進化に繋がってしまうかもしれない』
自分の名前は分からないのに、あの子と書かれた人の名前はハッキリと思い出せる。けれど、考えるのはやめた。これから出会うであろうあの子は、私と初対面なのだ。ならば私も、初めて会ったと思っていた方がまだ気が楽だ。大好きだった名前も、こんな状況になっているのなら忘れてしまいたい。
『眠りと投薬によって限界まで抑制はさせたけれど、そろそろ高い番号の被験者の進化が始まってしまう頃だ。なんとか、進化抑制薬を医療フロアで見つけてきてくれたら嬉しい。キミが目覚めるタイミングをこのタイミングにしたのは、それを頼みたいからでもある。
この施設は、多分もうダメだ。進化の予防薬も出来たし、ある程度の治療は出来るようになったけれど、本当に色んな事があった。だから、元々耐性の無い僕らは理性を失う前に自害するか、理性のギリギリまで抗うかを選ぶしかない。そして僕は、後者を選ぶつもりだ。だからもし、理性を失って成れの果てになった僕らを見つけたら、容赦無く殺して欲しい』
「殺すだなんて、そんな事……」
彼は、戦いの日々で生死について慣れてしまっていたのかもしれない。私達が眠ってから何十年も経っていて、沢山の成れの果てや、成れの果てに殺される人間を見てきたのだろう。もしかすると、彼自身の手で大事な人を殺した事すらあるのかもしれないとまで思った。
けれど私にとっては、彼が笑っていたのは、昨日の事なのだ。
『それと、三十年も眠らせてしまったことも謝る。結局、正確には進化じゃなくて、病みたいな物だったんだ、それも空気感染のね。薬自体はほぼ完成していても、この施設自体がもう地獄になっていて、簡単には抜け出せない。だから投薬量によって個人差はあれどスリープの限度時間まで眠ってもらう事にした、状況が変わる事を信じて』
空気感染、その可能性は私が眠りにつく前の段階で、話されていたことだった。まだ確証は得られていなかったが、急に空気中の成分が変化したことによって、人間の身体に影響を与えているという説だ。
それが正しかったとするなら、その空気中の成分が元に戻れば人間の進化も止まるという事なのだろう。ならばこの施設の外は、もう平和なのだろうか。考えても知る事なんて出来やしない。
『なんとか、生き延びたいよな。だから被験者全員の部屋に、現在人類が得ている全ての技術を詰め込んだその部屋の人専用の固有武器を一つずつ置いておいた。
キミの場合は、この施設の全ての認証を通すその手が固有武器だけれど、それだけじゃ心配だから、この部屋に幾つか使えそうな物を置いておいたから確認して欲しい。
一つは被験者の目を見る事によってその相手の身体情報が記載される本型のデバイス。
もう一つは、君には似合わないかもしれないけれど、ギミック付きの短刀を置いておくよ。
普段は短いけれど、手元のスイッチを押すと刃先が伸びる。
注意:切れ味も良いから自分の手を切らないように!』
『切らないように!』のビックリマークが彼らしくて、思わず苦笑してしまった。
文章から目を離し部屋を見渡すと、机の上にその本型のデバイスと短刀が置かれているのが見える。
『ああ、言いたいことは付きない、付きないけれど、僕にもあんまり時間が無い。だから研究に戻るよ。
三十年後、もし状況が悪化していたとしたら、その時に生きている人間に絶望しか残らないなんてことがないように、何度心が折れかけても頑張ろうと思う。
だからキミも、頑張って。名前で呼んであげたいけど、万が一ってことがあるから、忘れたままでいてほしい。なんとか、生き伸びて欲しい』
自分勝手な事ばかり書いたその私宛ての手紙はこんな言葉で締めくくられていた。
『それだけが僕の望みだ』
そうして、おそらく所長は一旦そこで文章を書き終えたのだろう。
けれど、その下に明らかに違う時間に書き足したのであろう文章が付け足されていた。
『キミの前の日に部屋が開いた男がいる。キミも良く知っている僕と仲の悪かった僕の息子だ。知っての通り、彼には無理やり僕の事も忘れさせているから、特に記憶の喪失が激しいと思う。彼にしたことは、僕のエゴで、親としてのせめてもの希望で、所長としての最低な依怙贔屓だ。僕は結局彼とは上手くやれず終いだったけれど、もしちゃんと僕の息子が生きていたら……。もしよければあいつの事もよろしく頼む』
長い、手記のような私への私信は、ここで終わっていた。
「相変わらず、話が長い人……です…ね…っ」
涙は簡単には止まらなかった。何があったかは分からない。ただ事実として、あの人はもう死んでしまったという事は分かる。
家庭環境に恵まれなかった私にとって、所長は父のような人だった。文章の最後に書かれていた通り、あの人には実際に子供もいたし、生き残っているかは分からないけれど、確かそこそこの高耐性だったからこの施設にもいたはずだ。息子さんと不仲だったからか、所長は私を実の娘のように可愛がってくれた。その人がこれだけ言うんだ。私は、生きなければいけない。
ファイルの次のページを捲ると、この施設全体の地図や、施設の仕組み等がプリントアウトされていた。これはおそらく、ファイル一つを持ち歩けば良いように、色んな物に使われていたページを切り取ってまとめてくれたのだろう。
時間をかけて全体に目を通すと、ある程度の施設の情報は把握出来た。とりあえず、この施設は完全隔離はされていない、出口はある。
――出られるかは、別として
私は最初の一ページ目にファイリングされていた私への私信だけを取り外し、先程私用の固有武器と呼ばれる物を確認した部屋の隅の上のテーブルに目を移した。
そこには本型デバイスやケースに入った短刀以外にも、私の為に置かれているであろう肩掛けカバンのような物が見える。私は読みかけのファイルを一旦閉じ、それを手に持ったままテーブルに近付くと、そこにはケースに入った短刀と本型デバイスに、動きやすそうな衣類と、髪留め用のシュシュまで、そしてタオル。
シュシュがあった時点で吹き出してしまったが、大きなタオルを見て、所長は一体何処まで想定して用意をしていたんだと笑ってしまった。
まずは本とファイルをカバンにしまう。
私宛の一ページ目は、丁寧に折り畳んでカバンについていた小さなポケットの中へと入れた。
そして用意された衣服に腕を通す前に、タオルで丁寧に体を拭き、やっと生きた心地がした。最後にその短刀で、邪魔な髪をバッサリと切り落としてシュシュで一本にまとめて、完璧だ。しかし流石に時間がかかってしまった。
身体にまとわりついている髪の毛を軽く払い落としてから、用意してあった衣服に袖を通す。
上下揃いの簡素な下着まで用意されていたのは、本当に何とも言えない気持ちだったが、身体情報も登録済みなのだからと割り切ることにした。
もしこれが、柄物の下着だったら何とも言えない気持ちは爆発していたかもしれないが。
「うん……、これで動きやすい……はず」
改めて短刀を握り直し、試しに持ち手のボタンを押しこむと、さっき覗き穴から見た女性が使っていたくらいのサイズの刀くらいまで刃先が勢い良く伸び、壁に突き刺さった。
「えっ?」
その勢いは目にも留まらぬ程で、私は思わず声を上げてしまう。そして、抜こうとしても、簡単に抜けない程深く突き刺さっている。これは、斬るというよりも、刺す武器なのだと思いながら、伸び切った元短刀を引き抜こうとするが、抜けない。
「ん…っ、んーっ!!」
思い切り引っ張っても抜けない。
「んーっ!!!! あっ、っとっと」
渾身の力を込めながら、指がスイッチに触れ押し込んでしまった瞬間、勢いよく刃先が元の短刀のサイズまで戻り、その反動で思わず私は転びかけてしまった。少し扱いが難しそうだけれど、確かにこの伸縮性は便利だし、軽くて切れ味も良さそうだと思い、私は短刀をケースにしまい腰のベルトにくくりつけ終わったところで、この部屋で随分な時間を過ごした事に気付く。
防音設備があるこの部屋では外の音も何一つ聞こえないだろう。私は外の様子を確認する為に、慌てて職員専用部屋を飛び出す。階段を急いで降り、覗き穴からドアの先を覗くと先程までビリビリと感じる程の戦闘の気配が無く、人がいるような気配も無かった。
そして、そこにあったはずの成れの果ての死体も消えていた。
私はドアに耳を当て、外で音がしないことを確認してから緊張しつつドアを開ける。すると右手には長い通路、左手には大きめのホールがすぐ近くにある。これは記憶通りの光景で、よく被験者達がホールで談笑していた記憶もあった。
誰かいたら、と思いカバンから本を取り出し、ホールの方へと歩を進める。この施設は基本的に目や指で制御されている施設だ。だからこの本を持ったまま誰かの目を見れば、私に与えられた管理者権限によって、この本に相手の情報が浮かび上がるという認識で間違い無いだろう。
本を抱えながら少しずつホールに歩みを進めると、所長と良く似た見覚えのある男性がこちらを見ているのに驚き、体が跳ねた。その勢いで後ろに倒れそうになるが、それはあまりにも格好悪い。なんとか数歩下がっただけで耐えきり、彼の顔がハッキリと見える位置まで、何を言えばいいか分からずに無言で歩を進めた。
すると彼が眠そうな顔のまま口を開いた。
「お、おはよう」
この状態になった施設で初めて会って言う言葉がそれでいいのだろうかと一瞬思ったが、挨拶は確かに大事だ。だが、あの人の面影が重なってしまい、どうにも上手く言葉を紡げない。
「おはよう……ございます……。えと……、あの……」
目があったから、彼の情報がこの本の何処かに載っているはず、急いでパラパラとページを捲ると、彼のページを見つけた。そこには彼の部屋番号と、目覚めた年月日、倒したノッカーの数、固有武器等が表示されていた。とはいっても彼が誰かという事は顔を見た瞬間に分かっていた。けれどちゃんとこの本型デバイスが機能した事が嬉しく、小さい声で思わず「良しっ」と呟いてしまう。
思わず本に集中してしまっており、彼の事を一瞬忘れていたので、今のを聞かれてしまっていたら恥ずかしい。聞かせるべきはこんな言葉ではないのだ。私は意を決して彼に向き直り、私に与えられた使命の為に、全ての被験者達に伝えるべき第一声を、絞りだした。
「あの……っ! ここから、出ませんか?」
もうきっと外での惨事は終わっているのだから、私達はこの場所から出る権利がある。それがどれだけの月日を要したとしても、だ。だから私は、彼の目をハッキリと見てそう告げていた。




