こんな手の込んだ方法で僕にラブレターを渡したのは誰か?
最後の句点にまで目を通してしばらく、瞼を閉じて、その余韻に浸る。弱ってゆく母、狂った弟、そして、精神的に追い詰められる主人公……。日常に忍び込んでくる脅威に、僕は思わず顔を歪めてしまった。
ふう、と息をついて目を開け、僕はようやく本を閉じた。閉じたときに生じた風がふんわりと鼻に届き、ずっと開かれていない本特有の臭さを感じる。太宰治の『斜陽』となれば、この臭いは当然である。一番後ろにある紙には、返却日の判が左上から順に並んでいる。一番古いものと一番新しいものを見比べてみると、形も色も異なる。最新でも、『2016.04.11』だ。この記録と同じように人の手に触れられていると考えると、二年弱も開かれていなかったということになる。
だとすると、僕は、この本にとって、空気を吸える環境にしてくれた救世主、と言ったところか。ふむ、悪くない。読書を趣味とする僕からすれば、何も悪いことではない。むしろ、これからもこういう本に出会えるのならば、何度だって救世主になってやろう。
時計に目を向けると、五時四十五分を指していた。六時に図書室が閉まるので、もうそろそろここを出る準備をした方が良さそうだ。司書さんも、帰宅時間が迫ってきてか慌ただしく足を動かしている。新しく入荷した小説を並べているのだ。
このまま帰るのも良いが、一冊か二冊、本を借りていくのも良いか。家に買ったまままだ読んでいない本があるが、それはいつでも読める。だが、図書室の本は、学生の内にしか読めない。できるだけ多くの本に出逢いたい者としては、図書室の本を優先するべきだ。
借りてはいなかったが、図書室に来る度に読んでいた、この斜陽を読み終えた所だ。それにもう一作、文豪の作品を読んでみたいと考えていたところなので、これは良い機会なのではないだろうか。
そうと決まれば、早速。
「あの、佐々木くん」
立ち上がろうと机に手を付いたときだった。左に首を捻ると、そこには三つ編みにぱっつん、そして眼鏡という、文学少女そのもののような女子生徒が立っていた。
「何?」
「これ、佐々木くんのだよね?」
そう言って差し出されたのは、栞だった。文庫を購入した時に挟まっていたもので、当時の友人に落書きをされて世界に一つだけの栞になっている。
「え、あ、うん」そういえば、最近見かけないなと思っていたところだ。「どこかに落ちていた?」
女子生徒は首を振る。「ううん。『さよならドビュッシー』に挟まっていたの。ほら、以前借りていたよね? それに、これを使っているところを見たことがあって」
確かに二、三ヶ月前だっただろうか、ドビュッシーは読んでいた。全身火傷の重傷を負ってもピアノの発表会に向けて練習を励む主人公に心を打たれた一作だ。ジャンルはミステリー。発表会が近づくにつれて増えていく謎、そして、不安……。ドビュッシーの旋律を基づいて描かれた作品として、ずっと前から気になっており、図書室で借りたのだ。
もしかして、挟んだまま返却していたのだろうか。
「そうなんだ。わざわざありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
軽く頭を下げて、彼女はその場から離れた。
渡された栞を見て、僕は思う。これはまるで、「栞が見つかったんだし、本借りたら?」という神からの御告げなのか、と。本を栞無しで読む人はそうそういないだろう。
神からの御告げか、それなら仕方ない。僕は立ち上がると、斜陽を持って本棚に向かった。
そこから本が抜かれたであろう隙間に斜陽を片付け、その周辺の本の背表紙に目を向ける。太宰治、太宰治、太宰治、太宰治……右へ行っても左に行っても太宰治ばかりだ。飛ばして見ると、芥川龍之介や夏目漱石など、文豪の作品が並んでいる。芥川龍之介の『羅生門』と夏目漱石の『こころ』の下の一部は授業で読んだことがある。『羅生門』は、老婆の不思議な行動に誰もが一度は、何者なんだ、と思うだろう。『こころ』は、“私”とKの関係に、まるで自分のことのように心を動かされた。若者ならではの、苦い思い出である。
こころは下しか読んでいないので、いつか上中を読んでみたいと考えている。では、こころを借りてみるとするか――。
そう思い、手を伸ばした時、先に延びてきた何かに触れ、それを軽く握ってしまった。それは、人肌に温かい。
「あ」
「あ」
声を出したのは、ほぼ同時だった。それが延びてきた右へ顔を向けると、僕よりも頭一つ分ほど身長の低い女子生徒が見上げていた。眉よりも上で切り揃えられた前髪のせいか、とても幼く見える。
「あっ、ごっ、ごめんなしゃ……」
慌てて手を引っ込めそう言うが、肝心なところで噛んでしまった。口の前で手を暴れさせ、噛んだことを無かったことにしようとしている。頬を赤く染め、その姿は小動物を思わせた。
「あはは、ごめんね。そんなに慌てなくても、変なことをしたりしないから」
「へっ」声が裏返った。「へんなことっ……!?」
更に頬を赤らめる。まるで林檎のようだ。
いちいち反応してくるところが可愛らしい。最近の女子高生なら、「あ、はぁ」で会話が終わってしまう。
肩上という短い髪で、寝癖を直していないのか気付いていないのか、所々野に生える草のようにぴょんぴょんと跳ねている。胸には本を数冊抱えている所から察するに、休日にバイトが入っていないから読書漬けの二日間にしようと考えているのだろう。今日から手を回すとは、準備万端ではないか。
ちなみに、彼女がバイトをしているということは直接聞いたのではなく、司書さんと話しているところを偶然聞いたのだ。本を買うためにバイトを始めたが、読書をする時間が減ってしまった、と時々不満を漏らしている。そんな中で土日共休みとなった日は、読書漬けを行っていると言う。普段読めない分、その時に取り戻そうという、彼女にとっては至福の時間であろう。
だから別に、彼女をストーキングしてバイトをしていることを知り、更に土日は家に籠って読書をしている所を盗み見している訳ではない。そんなことは決して無い。
「あの、あの、どどど、どうぞ」
彼女は三歩後ずさると、先に僕にこころを読むよう薦めてきた。だが、それほどこころを読みたいわけではないので、ここまでされてはこちらの方が心が痛む。文豪の作品は他にもあるし、こころは名作だ、どこにでもある。
「いいよいいよ。それよりさ、今文豪の作品を読んでみようと思っているんだ。芥川龍之介とか夏目漱石とか。良かったら、お薦めを教えてもらえないかな?」
そう言うと、彼女はぱあぁと表情を明るくした。僕と本棚の間を通り、棚を物色。隅から隅まで見てから、彼女が手に取ったのは、谷崎潤一郎の『痴人の愛』であった。
谷崎潤一郎はマゾヒズムを主題とし、女体の美しさを描いたと聞いたことがある。耽美派として活動し、刺青や春琴抄などの名作を残した作家。
「痴人の愛って、どんな話?」
渡された本の表紙を見つめながら問う。
「しゅ、主人公であり語り手である譲治という人が十歳以上年下のナオミに恋をして、愛の沼に堕ちていく話、です、かね、はい」
流暢に説明するが、語尾が動揺しているようで落ち着かない。そういえば、彼女は放送部だ。こんなに噛む彼女がどうして放送部に入ろうと思ったのか、疑問である。
「そうなんだ、恋愛ものってことか」
「あああもしかして、恋愛もの苦手でしたか」片手を目の前で横に振る。
「ううん。ただ、あまり読んだことのないジャンルだからさ。でも、飯島さんが言うなら、読んでみようかな」
「いえいえそんなそんな。私のお薦めなんて、ただの好みなので」
失礼します、と頭を深々と下げた彼女は、颯爽と静かに去っていった。結局、こころを手にせずに別の本を見に行ってしまった。不思議な子だ。
結局、僕はこころではなく痴人の愛を借りることにした。
「もうすぐ閉めるので、出る準備をしてくださいね」
司書さんが、図書室にいる僕を含めた三人に声をかける。眼鏡をかけている湯木さんとオンザ眉毛の飯島さん、そして僕だ。
図書室を見回したあと、再び痴人の愛の表紙を見る。一部黄色というのか茶色というのか、変色したところは、きっと元は白色だったのだろう。一頁一頁も、汚れていたり折り目がついていたり、沢山の人に読まれてきた形跡がある。ぺらぺらと捲っていると、一枚の紙が左右に揺れながら床に落ちた。
ん?
それは一回折りになっている。百均やコンビニに売っているような茶色の紙で、母が似たようなものをよく使用している。
誰かが栞代わりに使っていたのだろうか。それにしては、紙とは珍しい。紙に紙を挟んでも、栞にはなっても探すときに見つけにくくなる。木を隠すなら森の中状態である。
屈んで紙を掴み、開きながら上半身を上げた。紙に書かれた文字を見て、その動きが止まった。
『二月十四日の午後六時十五分頃、武道場の後ろで待ってます。図書室で本を読んでいる姿をいつも見つめていました。とても素敵ですね。』
紙を見つめて数秒。
僕は理解した、これは、ラブレターに近しいものなのだと。丸みを帯びた字なので、女子だろうか。
ラブレターと言うより、呼び出しと言う方が適しているだろうか。きっとこの時間にいくと、女子生徒がマフラーをして寒そうに手に息を吹き掛けながら……。
「佐々木くん、あの、…………ずっと、好きでした!」
ってな感じのことを言ってくるんだろうな。
これを見て、浮かれない男子がいるだろうか、いや、きっといないだろう。名前が書かれていない手紙なんて、大抵は女の子から、と相場が決まっている。
一体、どんな女子が僕に……。
いやいや、ちょっと待て。
暴走しそうになった脳内にそう呼び掛けた。
別にこれは、僕宛てというわけじゃない。ただ本に挟まっている手紙を僕が見つけただけだ。手紙の差出人は、別の誰かに読んで欲しかったのかもしれない。
それに、字が丸みを帯びているからといっても女子とは限らない。男子でもこんな可愛らしい文字を書くことはある。誰か見ず知らずをからかうために、挟んだだけかもしれない。
それにしても、僕がこの日にこの手紙を見つけたのは、差出人からすれば、うまい話だろう。今日は二月十四日、世の男女がチョコだの告白だのと騒ぐ日だ。仲の良い女子のいない僕からすれば、何でもないただの日になるが。
差出人が僕の姿を見ていれば、しめしめと頬を緩ませていることだろう。これで、武道場の裏で名前も顔も知らない誰かがチョコをくれるんだと、僕が喜んでいると考えているに違いない。現に、僕は手紙を見つめたまま、ずっと固まっている。手紙に動揺していると見られないこともない。
考察により、僕はこの手紙を無視することもできる、という結果に至った。クラスの女子がくれるほど仲良くはないし、他学年の子が一目惚れしてくれるほどイケメンではない。むしろ、ラブレターを僕にくれようとしてくれた女子の顔を拝みたいくらいだ。それほど、珍しい存在。
入学してから一度も女子と話したことがない、という訳ではない。今日のように、落とし物をしたら拾ってくれたり、おすすめの本を話し合ったり、それくらいのことは話す。女性である司書さんとも話すし、女子との関わりが一切無い、ということは断じてない。手元ばかり見つめている男子に比べれば、女子との話し方は上手いと思っている。
さて。
僕には決めなければならないことがある。
この手紙の差出人が待つという武道場裏に行くか、それとも、悪戯であるもしくは僕宛てではないので無視して帰るか。
だが、これが僕宛てでないという証拠がどこにあるだろうか。
例えば。
痴人の愛を薦めてくれた飯島さんならどうだろうか。これを薦めると決めておいて、予め本に挟んでおく。そうして、予定通り僕に薦めれば、僕は手紙を見つけることになる。
だが、これは「僕が飯島さんにお薦めの本を聞いた」らの話であって、今回のように突然起こったことに期待を寄せるのは少し厳しい。まさか、同じタイミングで同じ本に手を伸ばすなど、少女漫画でしかないだろう。
あの出来事が、本当に偶然なら、の話だが。
飯島さんが、この作戦を実行するために、僕とタイミングを合わせて同じ本に手を伸ばしたのなら、どうだろうか。あの状況を作り出すことは簡単だ。僕は最近、太宰治や芥川龍之介など、昔の文豪の作品を読んでいるので、「最近、文豪の作品をよく読んでますよね? お薦めの本があるんですよ」(彼女はこんなにはっきりと話さないが、とりあえずこの台詞でいく)と言って、この本を薦めたら、何ら不自然ではない。飯島さんは一つ年下だが、図書室で度々会うので、僕のことを「いつものあの人」と認識していても可笑しくない。そこから、彼女が僕のことをどう認識するようになったかは、僕には分からない。ただ、彼女は確かに僕を知っている。だから、このような手紙を渡してきても、可笑しくはない。
ただ一つ、問題があるとすれば、飯島さんにこれを実行する勇気があるのか、ということだ。
先程、少し話しただけであの態度だ。きっと、人見知りまたはコミュ症なのだろう。そんな彼女が、わざと手を触れさせるなどという上級技を決めることができるだろうか。
そもそも、これは僕が本棚を見て回る、という条件がないと難しい。普段から放課後にこの場所に来て本を読んでいるが、それだけで終わってしまうことも多々あった。斜陽の残り頁から実行するかしまいか考えたのなら、話は別だが。斜陽は借りずに読んでいたので、家で読み終えるという心配も無かったわけだ。だが、それなら彼女は昨日決行したということになる。あの飯島さんが……と考えると、腑に落ちない。
候補をあげるとすれば、湯木さんもいる。
眼鏡をかけて、ザ・文学少女の湯木さんは、僕と同じクラスの生徒だ。入学して間もない頃の昼休み、図書室に入ると既に湯木さんはいた。司書さんと楽しそうに話していて、僕が入ってきたことに気付かないでいた。
同じクラスなのはすぐに気付いたが、仲良くしようとは思わなかった。何せ異性だし、別に僕は同じ趣味の仲間を見つけるためにここに来るわけではない。本に囲まれたこの空間で、静かに読書をするためだ。六時まで開いているというのは利点で、他の高校には五時までしか開いていない図書室があるそうだ。それでは、七時間目まである日はほとんど利用することができないではないか。
同学年、更に同じクラスである湯木さんとは、何度か話したことがある。図書委員会の役員である、という共通点もあるので、そのことについて話したついでに、新刊について話すこともある。互いに、意図的に仲良くなろうとして話しているわけではないので、むしろ自然に話すことができて僕は楽しい。
仮に、湯木さんが僕のことを好きになったとしても、何故? と疑問に思うことは一切無い。飯島さんと比べれば、湯木さんの方が可能性は高い。だが、長い時間一緒にいるほど好きになる、という方程式は存在しないので、可能性が高いのかは分からないが……。主観的に見てそう思う、ということにしておこう。
だがそれなら、湯木さんはどうやって僕にあの手紙を発見させようと考えていたのだろうか。結果的に手紙は僕の手に渡ったが、飯島さんが僕に本を薦めることが無ければ、見つけることはなかった。飯島さんが偶然、湯木さんが薦めようとしていた痴人の愛を先に薦めてしまった、ということもあるが、可能性はぐんと低い。
それに、湯木さんはこの手紙を見つける前に一度話しかけてきている。もし、湯木さんが僕にこの手紙を挟んだ本を手に取らせようと思っているなら、その時に渡してくるだろう。飯島さんと同じように、「最近文豪の本を読んでいるよね?」と言って、薦めればよい。恋愛ものから推理もの、コメディからシリアスまで読んでいる彼女が、そんな手間のかかるようなことをするだろうか?
もう一人、候補はいる。
この図書館の司書さん、宮澤里恵子さんだ。
某女優と名前が似ているので、すぐに名前を覚えた。
司書さんを先生と呼んでもよいなら、これはまさに禁断の恋となる。この手紙が司書さんからのものならば。
司書さんとは、僕が入学してきた頃からの知り合いだ。知り合いというとあまり仲が佳くないように考えてしまうが、それ以外に僕と司書さんの関係を言い表す言葉が見つからない。
司書さんには、僕が頼んだ本を仕入れてもらったり、お薦めの本を聞いたりと、本に関しては大変感謝している。僕が最近文豪の作品を読み始めたのも、実は司書さんの影響だったりする。
そこで僕は、ふと気付く。
もしこの手紙の主が司書さんなら、僕に文豪の作品を薦めたのは今日のためなのだろうか?
いつから僕のことを気になっていたのかはさておき、もしそうなら司書さんも手の込んだことをする。だが、司書さんならする意味もわかる気がする。
司書とは言っても、学校を職場とする先生だ。先生が生徒に恋心を持ってしまったとなると、問題にされかねない。それが交際に発展までしバレれば、辞めざるを得ないだろう。
だから司書さんは、自らの手から渡すのではなく、僕が自分の手で拾い上げるような状況を作ったのだ。
貸し出しの際に僕のことを学年、組、名簿番号は分かっても、下駄箱の位置を知ることはできない。かといって机の入れるとしても、そこを誰かに見られれば怪しまれることは当然だ。
だから彼女は、「本に挟む」という手を使ったのだ。様々な本を読んでいる彼女なら、推理小説や恋愛小説からヒントを得ることは十分可能だ。
だが、僕が痴人の愛を読みたいと思うかは分からないはずだ。恋愛ものは好みでないと僕が言えば、作戦は失敗してしまう。僕が恋愛小説を借りたことは無いから、確信はない。
……いや、待てよ。
別に痴人の愛でなくても良かったのだ。一度試しに薦めてみて、読まないと言われたら別の本に挟めば良いだけのことだ。本の整理と称して手紙の位置を変えることなんて容易い。
もし僕が恋愛ものは読まないと言ったら、手紙を差し替えて、今度そちらを薦めればよい。
司書であることを利用した、見事な作戦だ。
一応候補は三人。推理小説では定番の容疑者の数だ。
この三人のなかに、僕にこの手紙を渡した乙女がいるのか。僕は三人に順に目を向ける。
とりあえず、閉館時間が迫っているので、痴人の愛は借りていく。
鞄を持ち図書室を出るが、慌てて出るものはいない。六時十五分丁度に現れようと考えているのだろう。なら僕は、その裏をかく。
六時十五分についても、そこには誰もいない。その現状に戸惑う彼女の元へ、颯爽と現れる僕。「お待たせ。待った?」ここでかっこいい台詞を言いたいのだが、「道端で本を見つけちゃって。ついつい読み込んでしまったよ」くらいしか出てこなさそうなので止めておく。
さあ、これでどうだろう。そこからは簡単だ。あとは余裕をもって告白を受けるだけ。
となると、どこで時間を潰そうか。時間まで約二十分。
うっ……こんなときに、腹が痛く……。
ふう、危機一髪。あと数秒遅れていたら、白い下着に染みが付くところだった。
時間を確認すると、既に十五分を一分過ぎていた。なんということだ。恋する乙女を待たせるだなんて。「お待たせ。待った?」なんて言えんぞ、この状況では。
急いで武道場裏に向かう。一言に裏と言っても、案外どちらが裏なのか分からない。校舎から見ればグラウンド側が裏だし、グラウンド側から見れば校舎側が裏だ。
さて、どこにいるんだ……?
十分経ったが、誰かが来る気配もない。自分から呼び出しておいて遅刻だなんて……おそらく彼女は、時間にルーズなのだろうか? あの三人の中で時間にルーズなのは……一体誰だ?
……はっ!
推理していたら、いつの間にか三十分も時間が経過していた。小さな明かりだけが頼りだ。
……これは……さすがに……。
結果、誰も来なかった。
どういうことだ? 自転車小屋に僕の以外の自転車はない。図書室も既に消灯。
……まさか、偽物?
「おかえりー。遅かったねー」
リビングに入ったと同時に聞こえた声。油の弾ける音と共に、回鍋肉の匂いが漂ってくる。僕の好物ではあるが、今はとても喜べない。
「あー……ただいま」
「どうしたの? 元気ない?」
「いや、別に」
「チョコが貰えないであろう武蔵のために、今日は回鍋肉にしたのにー」
「余計なお世話だ」
とりあえず、今は食欲がない。図書室で借りた痴人の愛を読みたいし、晩御飯はあとで食べると告げた。
「なんだー、また本?」
「まあね。谷崎潤一郎の作品」
さっさと去ろうとリビングを出ようとするが、まだ母が声をかけてくる。
「おっ。まさか、痴人の愛!?」急に食い付きだした母の目を見てみると、何故か輝いていた。
「懐かしーい。学生の頃、読んだこともない痴人の愛に、好きな人に渡し損ねたラブレター挟んだことあったなー」