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なぜ私のもとに月が現れたのか。それを解明するための調査を明朝に行うため、今日は施設内で一泊してもらえないかとお願いされた。必要な消耗品は適宜職員が用意するし、拘束時間に応じた謝礼金も支払われる。明日の稽古は昼過ぎからだったし、わざわざ自宅に帰る気もしなかったので、私は流されるままその提案を受け入れた。
世話役として部屋に女性職員が現れ、一人の職員を残してみんなで部屋を出ていく。残された職員はこの部屋で月の見張りと、やり残した仕事を行うつもりらしい。玄関で棚原と車で出迎えてくれた男性職員と別れ、私と女性職員は少しだけ離れているらしい宿泊用の建物へと歩いて行く。
小動物のように愛嬌のある小林と名乗った女性職員と世間話をしながらも、私はずっとケージの中に閉じ込められた月のことについて考えていた。確かにまるで心があるかのような動きを時折見せてはいたものの、あれは動物ですらない浮遊物体だった。仮に狭いケージの中に閉じ込められていたとしても、それ自体月にとってはなんでもないことだ。心が弱っている時に現れたものだから、私が勝手に愛着やら何やらを感じているだけなのかもしれない。
建物の中に入り、宿泊するための部屋に案内される。研究機関だからと粗末な部屋を想像していたものの、思っていたよりはずっと小奇麗な部屋で、少しだけ拍子抜けしてしまう。小林さんは私に簡単な部屋の説明をした後で、下の部屋にいるのでアメニティグッズなど必要なものがあったら遠慮なく言ってくださいと述べた後、部屋の外へと出ていったしまった。
階下へ向かう小林さんの足音が徐々に聞こえなくなってくると、張りつめたような静寂が訪れた。見知らぬ土地の見知らぬ部屋で一人ぼっちになった私は、とりあえず洗面台で化粧を落とし、その後で部屋の中央にでんと置かれたベッドにうつぶせに倒れ込んだ。枕に鼻をうずめると、ほのかに合成洗剤特有のにおいがした。息もつかせぬ出来事の連続だったため、こうしてゆっくりと呼吸をするのも数時間ぶりだ。しかし、国立天文台職員の来訪からようやくひと段落したその時、二、三時間前のあの出来事の記憶が頭に思い浮かんできた。
私は電話越しに聞いた演出家の声を思い出し、胸のあたりが苦しくなる。まるで胃の中に液体状の鉛を流し込まれているような感じがした。私は無意識的に仰向けになり、そこにあるはずのない黄色い浮遊物体の姿を探した。しかし、そこには白色の蛍光灯とオフホワイトの天井があるだけ。むしろそれが当たり前の風景であるにもかかわらず、私は今まで自分が住んでいた世界とは別の世界へと放り投げこまれたような錯覚に陥った。月が自分の頭上に浮かんでさえいれば、この苦しみが和らぐというわけでもない。月がそこにあるだけで私は一人じゃないと強く思えるというわけでもない。
再び、吐き気を催すような倦怠感が身体にまとわりついてくる。私はすべてを忘れたくなり、ぎゅっと両目を強く閉じた。目蓋の裏に、オーディション会場で見かけた演出家の姿が映る。反射的に足の指先に力が入る。何か別のことを考えなければ。私はそう自分に言い聞かせる。そうだ、あの月はどうしているのだろう。今頃、あのお粗末なケージの中でふるふると小刻みに震えているのだろうか。
そして、ふと私は一つの疑問に行き当たる。あれが棚原の言う通り、本物の月であるとするならば、どうして日本という国の、それも私のようなちっぽけな人間のもとに現れたのだろうかということだった。心当たりなど一つもない。別に月に特別な思い出があるとか、天体観測が趣味だというわけでもない。月が自分の下に現れて欲しいという気持ちの強さなら、それこそ棚原や小林さんと言ったここの職員の誰かのもとに現れるべきではないだろうか。いくら考えたところで、納得のいく答えなど思いつきそうもなかった。
突発的にあの演出家の顔と声がフラッシュバックする。声にならないうめき声が口からこぼれ出る。私は寝返りをうち、右手の甲で私の目を強く押さえる。目をつぶっている以上、何の意味もなさない行為だったけれど、それでも何もしないよりは幾分気持ちが和らぐ気がした。そして、その時、ふと先ほどの研究室での光景を思い出した。職員がかかえたディスプレイに映った地球の映像。そして、吸い込まれるように、近づいていく月。それを網で捕まえる職員。
まるで私みたいだ。
美しい地球に引き寄せられながらも、それに触れることもできず、周りをぐるぐると回り続けることしかできない哀れな衛星。目の前にあるのに、手が届きそうな場所にあるのに、同じ距離を保ったまま、同じ場所をぐるぐると回っている。なんで今まで気が付かなかったんだろう。別にそのような人間など腐るほどいる以上、なぜその中でも私なのかという問いはまだ残っている。それでも、なぜ月が私のもとに現れたのか、その一端だけはほんの少しだけつかめたような気がした。これを明日棚原に言ったらどんな反応が返ってくるだろう。非科学的なことだと笑われるだろうか。だけど、それでもよかった。これは私だけの答えだった。誰のものでもない、私だけに当てはまる、荒唐無稽な答えだった。
*
強い衝撃が背中に走る。目を開けると、私はいつの間にかベットの横にみっともなく転がっていた。ベッドのスーツが私に引っ張られて乱れて切っている。部屋の照明はつきっぱなしであることから、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。壁に掛けられた時計を見ると、午前二時を回ったところだった。
私はいっぺんに目が覚め、打った腰に手を当てながら立ち上がった。深夜だと言うのに、不思議と気持ちは穏やかだった。そして、ふと、泉から水が湧き出るように、私の頭に一つの考えが思い浮かぶ。私は逡巡することなく、外履きの靴に履き替えると、物音を立てないようにゆっくりと部屋のドアを開け、外に出た。照明が落ちた廊下をを通り、建物の外に出て、まっすぐに最初に案内された施設へと歩いていく。オレンジ色の外灯の明かりを頼りに私は黙々と歩き続けた。誰かに見つかるかもしれない。しかし、その時はその時だ。不思議と罪悪感とか背徳感というものは感じられない。私は施設の玄関にたどり着き、忍び足で目的の部屋へと向かう。廊下の照明は消され、辺りは真っ暗だったが、突当りにある部屋の扉の隙間から照明の明かりがこぼれだしており、方向を間違うということはなかった。
私は扉の前に立ち、静かに深呼吸を行う。息を殺して、部屋の扉をそっと開け、中を確認する。当直をしていたはずの職員は椅子にだらしなくもたれかかり、口を大きく開けて眠りこけていた。思いがけない幸運ぬ胸を躍らせつつも、私は細心の注意を払って、部屋の中へと忍び込む。職員を起こさないよう、足音一つ立てずに、月が閉じ込められているケージの前へと歩み寄る。ケージの中には部屋の照明の光を反射して輝く月がいた。普段のようにふわふわと浮遊することもなく、ケージの床面に転がっている。こうしてみると、それはまるで一風変わったサッカーボールと見間違えてしまいそうだった。
私はゆっくりと、音を立てないように錠を外し、ケージの扉を開ける。
「おいで」
私がそう言葉をかけると、月は地面から離れ、ふわりと数センチほど浮上した。その際、がちゃりとケージの格子とぶつかる音がし、私はびくっと肩を震わせた。私は恐る恐る背後にいる職員の方へと振り返ったが、ケージの音に気が付くことなく、まだぐっすりと眠ったままだった。私はほっと胸を撫で下ろし、月に向かって人差し指を立て、静かにするようにと小声で注意する。私がゆっくりと後ろ歩きでケージから離れていくと、月はケージの格子にぶつからないようにうまく調整しながら静かにカゴの外へと出ることができた。私は入ってきた時と同じだけの慎重さで男の横を通り抜け、外へと通じる扉を開ける。
私が扉を開けておき、部屋の外へ出るようにと月に合図を送る。月が真っ暗な廊下へと出たことを見届けた後で、私は音を立てないように、ゆっくりと扉を閉めた。




