3
喫茶店から出た後は、香里菜と二人でしばらく買い物や食事を楽しみ、家に帰ったのは夜の八時過ぎだった。
ベッドの上に倒れ込み、ごろんとあおむけの状態になる。私の真上には、相変わらずサッカーボールほどの大きさの月がふわふわと浮かんでいた。この浮遊物体が現れてから半日程度しか経っていないにもかかわらず、なぜだかそれは切っても切り離せない私の生活の一部のような存在になっていた。
昼白色の照明の光を反射するその月の表面は、ちょうど私が見ている角度からは女の人の横顔のように見えた。寝ころんだまま月に向かって手を伸ばし、とんがった顎先から突き出た鼻先までを指でなぞってみる。西洋風の女性を思わせるその横顔は、私がこの道に進むきっかけとなったジュリー・アンドリュースを思い出させた。
中学生の時、友達から勧められて観た「メリーポピンズ」。あの時の衝撃は今でもありありと思い出すことができる。澄んだ夏風のように快活に歌って踊る彼女の姿は、一緒に踊るアニメキャラクターたちよりもずっと非現実的で、まるでおとぎ話に出てくるお姫様のようだった。彼女のようなミュージカル女優になりたい。一緒に夢を追う仲間たちからは、なんでそんな古臭い映画にこだわっているの、なんてよく言われる。それでも彼女は私の原点であり、それを忘れることだけはしたくなかった。
だからこそ、昨日のオーディションに賭ける思いはいつになく強かった。この年になっても、未だに端役しか与えられていないことへの焦りもある。しかしそれ以上に、これがジュリー・アンドリュースがかつて出演したブロードウェイ作品、『ボーイフレンド』の日本公演であることに特別な意味があった。これは私への最後のチャンス、神様からの啓示、だなんて仰々しく考えていた時もあった。技術はある程度身に着いた。舞台慣れもした。そのようなタイミングで舞い込んだオーディションの知らせ。いつにない情熱をもって臨んだこのオーディションが、どうしてあのような結末になってしまったのだろう。私は目を閉じ、考えてみた。しかし、納得できる答えなど思いつくはずもなかった。
私はごろんと寝返りを打つ。すると、ちょうどタイミングで、座卓の上に置かれた携帯電話の着信音が鳴り始めた。香里菜からだろうか。私は手を伸ばして携帯をつかみ、何ともなしに画面に表示された発信元の名前を確認する。知らない番号からの着信。私は誰からだろうと不信に思いながらも、通話ボタンを押す。そして、かけてきた相手の第一声を聞いたその瞬間。私の身体全体に緊張が走った。通話先の相手は、まさに昨日のオーディション会場で私に罵倒を浴びせてきた演出家だったからだ。
「昨日のオーディションの結果についてだがね」
私はベッドから起き上がり、両手で携帯電話を握り締めた。胸の鼓動が高まる。絶対にありえない。そのように頭では理解しているつもりでも、もしかしたらという期待が顔をのぞかせる。いくら苦しい思いをさせられた相手であっても、それでもやはりミュージカルに出たいという気持ちは私の中でしぶとく、そして力強く生き残っていた。
「演技や歌も十分に合格点ではあったんだが、、なんというかだね、少しばかり決め手に欠けるんだよ。君みたいな芯の強そうな女性、私は好きなんだけどね」
演出家の言葉を一言一句残さず噛みしめる。文面だけでは不合格をにおわせるものだったが、決め手に欠けるという言葉が、何かもう一押しあれば合格だというニュアンスを漂わせていた。
「あと何が………あと何が足りないんですか!?」
藁にもすがる思いで私は尋ねた。
「そうだね……まあ、オーディションはすでに終わってしまったからね。あとは選考委員の誰かが強く推薦しさえすれば、合格間違いなしなんだけどね」
私は演出家の言わんとしている意図がまったく読み取れなかった。オーディションは終わってしまった。そうであるならば私にできることはない。それならばなぜ私に、それもこんな夜に電話をかけてきたのか。私は真意を図ろうと、恐る恐る演出家に質問をぶつけてみた。すると、返ってきたのは、底知れぬ欲と汚水のような卑しさを彷彿とさせる、そんな笑い声だった。
「君次第では、他の選考委員に口利きしてあげるってことだよ」
「それって、どういう……」
「君もいい大人なんだからわかるだろ?」
演出家の発言の意味を理解したその瞬間、一瞬のうちに頭の中が真っ白になった。吐き気がするほどの下卑た笑い声。獣のような醜い男。そのような陳腐な言葉では到底演出家に対する嫌悪感は言いあらわせなかった。狡猾な大蛇のような男の欲望が私の足元から這い上がり、私の身体全身を強く締め付けていく。胸が苦しい。呼吸が上手くできない。私は携帯を手元から落とさないようにするだけで精いっぱいだった。
しかし、演出家はそんな私の様子など気が付かないかのような平坦な声で続けた。
「君がこの業界に対して、どんな幻想を抱いているかはわからないけどね。そんなお花畑のような場所ではないんだよ。それじゃ、連絡待ってるから」
それだけ言うと、演出家は一方的に電話を切った。携帯からツーツーという無機質な電子音が聞こえてくる。私は携帯を耳に当てたまま状態のまま、しばらく身動きすらできずにいた。手の力が抜け、ベッドの上に携帯が落っこちると同時に、私はゆっくりと後ろに倒れ、安くて硬いベッドに身を任せた。
目の前には先ほどと同じように真ん丸な月が浮かんでいて、まるで人ごとのように私を見下ろしているように見えた。私の内奥からふつふつと言いようのない激情が沸き上がってきて、わけもわからず、そばにあった携帯電話を月に向かって投げつけた。携帯は月のちょうど真ん中にぶつかり、鈍い音が静かな部屋にこだまする。携帯を投げつけられた衝撃で、月の位置は少しだけずれた。しかし、私を励まそうとふるふると揺れ動くこともせず、それっきり何事もなかったかのようにピタリと制止した。
私は枕に顔を当て、みっともない叫び声をあげることしかできなかった、泣くことができたらどれだけ楽だっただろう。それでも悔しさと嫌悪感が打ち勝ち、涙は一滴も流れてくれなかった。
今までさんざんひどいことも言われてきた。へたくそだとか、才能がないだとか。ぼろくそに言われたことなど数え切れないほどあったし、そのたびに夢をあきらめようと本気で考えた。それでも、私が今まで踏ん張ってこれたのは、あの日の瑞々しい感動が、ずっと私の頭の中で励まし続けてくれたからだった。馬鹿にされることも、性的な対象としてじろじろと見られることも構わない。それくらい、唇をかみしめれば、我慢することができる。実際、今までだってそうやって耐え続けてきた。
それでも、私がずっと追いかけ続けてきた夢それ自体を汚されることだけは耐えられなかった。それはまさに、今まで積み重ねてきた私の努力と忍耐など、何の価値もないのだということを宣言されるに等しかった。演出家の言うことが正しいとは限らない。それでも、この業界の内側でしばしば耳にした噂、今までは無意識のうちに耳をふさいでいた業界の噂が、今になって私の意識の上にのぼってくる。
天井に張り付いたままの月がやっと決心がついたのか、ふわりと私の近くまで降りてきて、私の周りを回り出す。テーブルの角にぶつかり、ゴンッという音を立てる。香里菜の声を聞きたい。私は私の周りをまわる月を目で追いながらそう思った。二日連続で迷惑だとか、さっき会ったばかりじゃないかとかいう躊躇いは浮かんでこなかった。というより、そのような配慮をできるだけの余裕が私にはなかった。
私は壁際に転がったままの携帯を拾おうと重たい身体を動かし、立ち上がった。携帯を拾い上げたその時、来客を告げるインターホンが鳴る。こんな時間に誰だろう。正直、玄関まで歩いて行く元気もなかったが、誰かと話したいと言う気持ちが勝った。新聞の勧誘でも、宗教の勧誘でもいい。少しでも気を紛らわしたかった。
私はリビングの入り口近くの壁に設置されたインターホンまで近づいていった。画面には見慣れない、スーツ姿の二人の男性が映っていた。私は通話ボタンを押す。
「夜分に申し訳ありません」
二人の男の内、手前にいる男がインターホンに顔を近づけそう言った。男は痩せ型で、山のように頬骨が浮き出ていた。男は二人とも片手に黒い鞄を持ち、奥に立っている男はもう一方の手で器用にパソコンを操作していた。新聞の勧誘でもなければ、NHKの集金でもない。私がどちら様ですかと尋ねると、男は慇懃な態度でこう答えた。
「私たち、国立天文台のものです。月の消失に関する件でお伺いさせていただきました。こちら、三橋美里さんのお宅で間違いないでしょうか?」




