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歌う太陽、踊る月  作者: 村崎羯諦
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「何それ」


 待ち合わせ場所の喫茶店に遅れてやってきた香里菜は、私の頭上にぷかぷかと浮かぶ月を見てそうつぶやいた。喫煙席の薄暗い照明の明かりを反射した月は灰白色にきらめいていて、私の部屋の中以上にその存在感を際立たせていた。店員や隣の席に座る客だけでなく、外の歩道を歩く通行人さえも、物珍し気に私の頭上にある浮遊物体に視線を向けてくる。それでも、それが奇妙な形の風船か何かだと思っているようで、誰も私にそれが何なのかと血相を変えて聞いて来ることは無かった。


 私は向かいの席に座った香里菜に今朝の出来事を逐一説明した。目が覚めた時、すでにこの月が頭上に浮かんでいたこと。カルガモの雛のように私の後ろを追いかけてくること。そして、ちょうどこの浮遊物体が現れた時間に、本物の月が姿を消してしまったこと。香里菜はポケットから取り出した電子タバコを吸いながら、私のしどろもどろな説明にじっと耳を傾けてくれた。時折、彼女は目にかかった明るい金髪の前髪を手で払い、心の中を透視しようとしているかのように私の目をのぞきこんでくる。


「言ってることはわかったけどさ、わけわかんなすぎるわ」


 香里菜が気だるそうに白い煙を吐いた。煙はゆっくりと天井へと上っていき、頭上に浮かんでいた月の端っこをかすめながら排煙口へと吸い込まれていく。電子タバコ特有の砂糖が焦げたにおいだけが私たちの周りに残された。香里菜はお手上げだと言わんばかりに大げさに肩をすくませた後、手慣れた手つきでホルダーからヒートスティックを入れ替え始める。


「まあ、でも害があるわけじゃないんでしょ? だったらそのままでもいいんじゃない? そのうち元いた場所に勝手に帰るでしょ」

「野良犬みたいに言わないでよ……。このまま懐かれたらどうするの?」

「少なくともさ、昨日みたいに何言ってるか聞き取れないくらいに泣いている状態よりはましじゃん?」


 香里菜の茶化すように微笑んだ。いくつもの男を仕留めてきた魔性の笑みに、それ以上何も言えなくなってしまう。それと同時に、昨晩、香里菜に何時間もの長電話に付き合ってもらったことをハッと思い出し、私は深々と頭を下げた。


「昨夜は本当、お騒がせしました。あんな時間に電話をかけちゃって」

「いいのいいの。私だって、オーディションの結果が気になってたんだしさ。ま、正直、あんたが何言ってるのかほとんど聞き取れなかったんだけど」

「ご、ごめん」

「駄目だったってことは伝わってきたんだけどさ、一体、何があったの?」


 単刀直入の質問に私は思わず押し黙ってしまう。昨日の出来事を洗いざらい喋りたい一方で、その時受けた屈辱を思い出すことに抵抗があったからだった。それでも、香里菜に急かさせるようにして、私はぽつりとぽつりと昨日のことの顛末を話すことにした。


「歌と踊りの審査まではよかったんだ。だけどさ、その後の監督と演出家との面接でさ、ちょっとだけ二人の意見に引っかかっちゃったて。思わず私はそう思わないって食って掛かっちゃったわけ」

「まあ、あんたそういうとこ不器用だからね。私は好きだけど」

「……そういうのずるくない?」


 香里菜はからかうように笑いながら、先に進むように促す。頭上にある月は私たち二人に割って入るタイミングをうかがっているかのように、所在なさげに揺れ動き、天井や壁とぶつかって小さな音を立てていた。


「そしたらさ、途端に二人が怒りだしちゃったの。それも尋常じゃないくらいに。歌や演技のことだけじゃなくてさ、私の人格に関係すること全部ひっくるめて罵倒されたんだ……。それもここでは言えないくらいにひどい言葉で。それにさ、あんな風に自分より体の大きい人に怒鳴られてすごく怖かったの。何とか我慢しようと思ってたんだけど、耐え切れなくなって泣き出しちゃって……」


 私は話を続けようとしたが、言葉が喉に引っかかって言葉を続けることができなかった。激昂した二人の大人が、自分に向かって汚い言葉をわめきたてる光景がフラッシュバックし、身体中が恐怖で強張ってしまう。このままでは泣いてしまうと、私は顔を下に向け、反射的に唇を強くかみしめた。香里菜はそんな私の変化を察し、うつむいた私の頭をポンポンと優しくなでてくれた。


「よしよし。怖かったね」


 私は目の端に涙をためながら強くうなづいた。長年追いかけてきた夢に対する強い思いが私にはある。それは誰に何と言われようが決して譲れないものだ。しかし、私は香里菜のように何事にも動じない強い人間ではない。だからこそ、ああして大人二人に罵倒されたら、恐怖で頭がパニックになってしまうし、何も言い返せなくなって泣き出してしまう。私はそんな自分の不甲斐なさがたまらなく悔しかった。


 私は涙をぐっとこらえ、感情が落ち着くのを待った。香里菜はその間ずっと私の頭をなでていてくれた。ようやく気持ちが落ち着いて顔を上げると、目の前には香里菜の穏やかで優し気な表情があった。私が感謝の気持ちを伝えると、香里菜は満足げに微笑み、灰皿に立てかけていた電子タバコを再び手にした。


「少しは楽になったっしょ?」

「うん」


 そこで香里菜はふと私の頭上にある月を見上げた。私も香里菜につられて頭上を見上げる。天井に張り付いていた月は二人に視線を向けられて嬉しいのか、小刻みに震え、こつこつとリズミカルに壁と天井にぶつかっている。私と香里菜はお互いに見つめあい、同じタイミングで微笑む。子供のような月の仕草がとても可愛らしかったからだ。


「そういえば、この月をどうするかって話だったよね」


 香里菜は三本目のヒートスティックをホルダーに装着しながらつぶやいた。彼女なりに気を利かせ、話題を変えようとしているのだろう。私は心の中で彼女の優しさに感謝しつつ、頭上の月をもう一度見上げた。すると、月は天井から離れ、ゆっくりと私の近くまで下降してきた。そして、ちょうど私の頭の少し上の高さまで降りてくると、今朝と同じように、私を中心としてゆっくりと回り始めた。


 私は微笑みながらその月の動きを目で追った。月は私の右側を反時計周りに回っていく。そして、足を組み、私から見て左方向に身体を向けながら電子タバコを吸っていた香里菜に背後から近づいていき、そのまま香里菜の後頭部にぶつかった。ゴンッと小さな音に遅れて、香里菜の「痛っ!」という情けない声をあげる。私は我慢できずに噴き出してしまった。


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