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晩鐘

作者: 野狐

「ミレーを知っていますか?」

その声が聞こえたのは、私が三つ目のキャンベル・トマトスープの缶に手を伸ばした時だった。

「ジャン・フランソワ・ミレー。フランスの画家ですよ」

片手を伸ばしたまま固まっていた私に構わず、声は続ける。目張りされた窓から差し込むぼんやりとした光が、宙を舞う埃を照らしていた。

気配は探れど、相手の顔は分からない。そんな薄暗い距離感の中で、私と声の主は対峙する。相手が何を考え、行動しようとしているのか私には分からない。だがそれは相手にとっても同じはずだ。私はポケットに忍ばせた古いリボルバーの幾分ささくれ立った銃握を握り締めながら答える。

「いや、知らないね。……ここは君の家かい?」

ここは私の家では無いし、この缶詰も私のものではない。つまり私は盗人ということになる。可能な限り穏便に済ませたいがそうもいかないだろう。だが私とて黙って殺される程世間知らずではないのだ。

殺しは好きではないし、楽しいとも思わない。しかし殺されるのはもっと好きではない。かちり、と小さな音を立てて撃鉄を起こす。相手は私の質問には答えずに、消え入りそうな声で言った。

「ああ、少し待って下さいね。今から行きますから」

やがて、かげろうのようにふわりとした雰囲気を漂わせた男が顔を出す。

薄い光に照らされた顔色はとても不健康な色。濃い土気色の頬は、この街の至るところにある死体のそれとそう変わらないだろう。だが彼の瞳は、暗闇の中でぎらぎらと光を反射させている死んだ魚のような目をしていた私とは比べものにならない程に、美しい光を宿していた。

「初めまして」

同じ空間にいるはずなのに彼の声はどこか非現実的で、まるで海の底から声を聞いているかのような感覚を抱かせる。窓に打ち付けられた板の間から差し込む光が海面から海底へと延びる光の筋のように彼を照らした。

「ミレーをご存じない、となるとまずは他の画家から話していった方がよろしいでしょう」

 そう言って彼は、くすんだ色合いの椅子を二つ向かい合わせに並べる。

「さて、まずは誰が良いか……そうだ、ホッパー。エドワード・ホッパーがいいでしょう。今なら彼の作品の哀愁が良く分かる」

 彼は立ち上がると暗がりの中へと姿を消し、暫くして埃を舞い散らしながら1メートル大の板を抱えて戻ってきた。

「ナイト・ホークス(夜更かしの人々)。シカゴにあるはずなんですが、何故かメトロポリタンにあった。大方、作品保護の為でしょうが……どうぞ、座って下さい」

 私が勧められるまま腰を下ろすと、彼はその瞳を一層輝かせてさも楽しそうに話しだした。彼は色々なことを話していたが、そのほとんどは私の中を通り過ぎていくだけだ。何より私は、私の中で次々に溢れ出す彼への疑問を抑えるだけで精一杯だった。

 どうして彼は盗人である私を咎めないのだろう?

 彼はここで何をしていたのだろう?

 どうして彼は見ず知らずの相手に芸術を語り始めたのだろう?

 絶え間ない思考の渦の中で、行き場を無くしたリボルバーが私の手の中で小さく踊っていた。

「おっと、少し熱が入りすぎましたね。すみません、無駄な時間を取らせてしまって」

 ふう、と一つ息を吐き出してから彼は言う。

 熱に浮かされたように喋り続けた男と、出口のない思考を続けた男。二人が正気に戻る頃には隙間から差し込む光も透明な薄紅色へと変わっていた。

 絵を担ぎ上げながら彼は言う。

「ああ、そこの缶詰なら好きなだけお持ち下さって結構」

「え?」

「なんなら、いつでも取りに来るといいでしょう。食料には不自由しませんから」

 本当にいいのか、と聞く前に彼は闇の中へと姿を消していた。



◆◆◆



 翌日、私は掠れた白文字が刻まれたガラス戸の前で思案に暮れていた。さて、この扉を開けばどうなるものか。またあの不思議な男の芸術談義に付き合わされるのだろうか。それとも昨日の出来事は白昼夢に過ぎず、誰も居ない室内がただ広がっているだけなのだろうか。

 木と木の擦れ合う軋んだ音を立てながらドアを開けると、やはり昨日と同じ男がそこに居る。男は縦長のカンバスを前にして、腕組みをしながら座っていた。相変わらず非現実的な存在感を漂わせている男は私の姿を認めると、丁寧に会釈する。

「お久し振りですね。どうぞ」

 座り心地の悪い粗末な椅子。今日は缶詰に手を伸ばすよりも先にそこへ腰を下ろす。

「来ると思ってましたよ。さて、今日は……」

 私は絵画、いや芸術そのものに興味を抱いたことなど無かった。いや、私でなくともこの時代を生きる人間なら皆そうであるはずだ。彼の語る哀愁や美意識などは全て無意味なものに過ぎない。そういった人間らしい感情というものが優遇されたのは戦前までの話で、今更そんなものを抱いていてもただ無益なだけである。

 だから私は、この目の前の男がどうしても理解できなかった。無益で、価値の無い感情を後生大事に抱え込んでいるこの男が。

 そうして、ついにその日も彼への疑問は解決できないままだった。



◆◆◆



 私は毎日あの店へと足を運んだ。男は毎日私を迎え、その度に「お久しぶりですね」と言った。

それから毎日別の絵画を飾って、講釈を始める。ルソー、マティス、クールベ。毎日毎日、別人のように表情を変化させて彼は語り続ける。私には彼の話を聞こうとする意志など毛頭無く、ただ彼が何を思っているのかを知るためだけにそこへ通っていた。そうして二週間ほど経ったある時、彼は店の玄関口に腰掛けていた。

「外へ出ませんか?どうにも店の中は埃っぽくていけない」

 放射能と瓦礫の山が広がる風景を目にしながら、彼はまるで物見遊山に出かけるかのようなうきうきとした口調で言った。

 彼に続いて77番街からレキシントン通りへ出ると、ひび割れた煉瓦造りの家の向こうに白い大理石のメトロポリタン美術館が見える。その後ろでは鉄骨だけになったエンパイアステートビルと国連本部が、土に還ろうとしている家々を挟み込むように立ち尽くしていた。私の歩いている世界はどこまで行っても茶色と灰色だけが広がっていて、彼の眺めている絵画の中に広がる色鮮やかな風景とはとても比べられるものではなかった。

「綺麗ですね」

 不意に彼が言う。

 私にはそうは思えない。足元のひび割れたアスファルトも、真っ黒なシミのこびりついた煉瓦も、ここを歩く私も、全ては遺物なのだ。どれだけ美しくとも、全てはやがて失われる。遺物とはそういうものだ。

「空は、何色かご存じですか」

 そんな事を考えていると、いつの間にかセントラルパークに着いていた。彼は私の様子にはとんと頓着せずに告げる。

「空気は透明、光も透明。ならば空も透明であるはずでしょう。ですが、空にだけは色がある」

 彼は空へと手を伸ばした。そうしてそのまま、何かを掴んで手を下ろす。

「でも、それが何色かは分からない。少なくとも私の触れられる所は透明だ。ひょっとすると、空も空気も太陽も本当は色があるのかも知れない。それらが透明なのは私の周りだけなのかも」

 寂しそうに、手を広げる。その中には何も入っていない。缶詰さえも。彼がどうしてそうしたのか、私には相変わらず理解できなかった。でも、彼が今までどんなことを考えていたのかは少しだけ分かったような気がした。

 芸術に執着する理由。それは、このとてつもなく空虚な世界を美しいものであると思う為の彼なりの努力だったのかもしれない。それを理解した瞬間に、私の中に累積していた彼への疑問が決壊していった。溢れ出した疑問は止まる事無く、次々に口を点いて飛び出す。

「……あんたは、一体誰なんだ?どこから来た?何をしていた?これから何をする?」

 滝のように浴びせられる疑問の渦。彼はそれら全てを真正面から受け止めた。ゆっくりと私を見つめて、いつもの声で静かに答える。

「明日、あの店に来て貰えますか?……ミレーの絵の話をしましょう」

 口元に笑みを浮かべながら、哀しい目をしていた。その微妙な表情はアンバランスで複雑なものを抱え込んでいて、きっとどのような画家でもそれを表現することはできなかっただろう。

 私達の間を生温く濁った風が吹きぬける。黒く萎びた木の枝を揺らしたそれは、同時に彼の姿を掻き消してしまった。伸び切った枯草の広がるセントラルパークで、私は溜息を一つ吐いた。細く長く伸びていったそれは透明なまま空へ溶けていった。



◆◆◆



「お久しぶりですね」

 いつもと同じ挨拶。いつもと同じ椅子。そして、いつもと同じように立て掛けられたカンバス。

そのカンバスに描かれていたの荒野で祈りを捧げている二人の農民の姿だった。

「ジャン・フランソワ・ミレー、『晩鐘』。1855年」

 そう言ったきり彼は押し黙ると、ただその絵を眺めていた。いつものように絵画について語ることはなく、ただその美しい光の籠った瞳で眺め続ける。

「もうお気づきでしょう。私は人間ではない」

 彼はカンバスに目を向けたままぽつりと言った。昨日の出来事からそれぐらいは察していたはずなのに、それは新鮮な私に新鮮な驚きを植え付けた。

「いや、それどころかここに存在すらしていない。ならば私は──」

 自嘲気味に発した彼の言葉は答える者のないまま空中へと消える。非現実的な存在感を持ちながらも確固としてそこに存在していた彼そのものを否定する言葉。その言霊はやがて彼自身を蝕み、主を亡き者にさせようと牙を剥く。

「芸術、とは」

 しっかりと宙を見据えて彼は言う。

「ここに存在していないものをここに存在させる行為である──今から数十年前、戦争がありました。何故戦争があったかは誰も覚えてはいませんが」

 そうだ。確かに戦争があった。その当事者が誰であったか、そもそも当事者などいたのか。私には分からないし、誰にも分からないだろう。ただその結果としてニューヨークは放射能と瓦礫の山へ姿を変えた。重要なのはそこだけだ。過去に何があったかなんて誰も知ろうとはしないし、知ったところで役には立たない。もはや訪れることの無い未来のために、何故過去を振り返る必要がある?

「その戦火の中で失われた物はあまりにも多すぎた。人は死に、国家は崩壊し、文化は失われた」

 宙を見据えていた二つの目が私に向けてしっかりと視線を注ぐ。その目には既に元の美しい光はなく、薄く伸びて広がっていく曇り空の下の夕闇のように陰鬱な色をしている。今までそんな目をした人間なんて腐るほど見てきたはずなのに、私にはその陰鬱な瞳がとても恐ろく見えていた。

「空気にも色はある。いや、あったはずです。透明などという色はこの世に存在しないのですから。空気の色は失われただけなのです」

 彼は空気の色をかき混ぜるように手を動かす。

「人類は、消えようとしている。空気の色と同じように、誰にもその存在を認識出来なくなりつつある」

 彼はまた手を伸ばして空気を掴む。そこに色があったのかどうか、私にはわからなかった。

「確固としてその色は存在していたはずなのに、やがて消える。透明になってしまうんです。私にはそれが耐えられなかった。消えていく様をただ見ているだけなんてことはできなかったんです。だから私はこうしてここへ来た」

「お前は……一体何なんだ?」

「なんともお答えしづらい質問ですね…私は空気の色であり、この絵画でもある。人類の始まりであるし、終わりでもある。端的に言えば全てです。ここに存在できなかった全て」

 私は空気が揺れていくのを感じた。その小刻みに視界を揺らしながら広がる景色はあらゆるものの輪郭をぼやけさせていった。

 イーゼルの上のカンバスが腐った窓枠のようにぼろぼろと零れ落ちる。足元の床が震えながら崩れ、確実な立ち位置を失わせる。

 そんな不安定な世界の中で彼は言う。

「人は死ぬ。必ず死ぬ。何時か死ぬ。永遠に存在することなど決して出来はしない。その不安定な存在を確実にするため、何かを遺さずには居られないのです。それなのに、遺したものさえ存在を失ってしまうなんて……あまりに悲しいじゃないですか」

 もう彼の姿はどこにも見えなかった。自分の位置さえわからぬ真っ暗な闇のような世界に声だけが響いていた。

「だから誰かに知って貰わずにはいられなかった。誰も居ない、誰も知らない世界が訪れる前に」

「どの道人類も死に絶える。そんなことをしても無意味だ」

「……でも、貴方は知っているでしょう?これらが存在していたことを。それだけでいい。私にとってはそれだけで充分です」

 きっぱりとした声だった。きっとその瞬間、彼の瞳にはあの美しい光があっただろう。

「私も晩鐘を捧げましょう。ミレーの描いた二人の男女と同じように。消えるものたちのために。……ありがとう、私を存在させてくれて。さようなら」

 そう言って声は消え、後にはなにも聞こえない世界だけが残った。やがて私は現実に戻るだろう。存在する世界へと還るだろう。その世界には一体何が存在しているのだろうか?



◆◆◆



 私が目を覚ましたのは食料品店の古びた椅子の上だった。そこにはカンバスも、もう一つの椅子も無く、ただ薄暗い室内に埃が舞っているだけ。

 そして壁には一枚の絵画。

 立ち上がってそれを壁から外し、手にとって眺める。誰のものとも知れぬ、誰が描いたかも分からぬ絵画。だがそれは誰かの存在の証なのだ。

 絵を抱えたまま外へ出ると、薄曇りの空が広がっていた。歩き出した私を追いかけるように風が吹く。

それと同時に、どこからか鐘の音が響いてきた。アスファルトの割れ目から咲いた野菊を揺らすようにゆっくりと広がっていくそれは誰かを慰めるように、いつまでも鳴り響いていた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] ポストアポカリプスを扱う作品が好きだ。例え戦闘が無くとも、失われた物への哀愁はそれなりに響く物がある。 [気になる点] 私個人はオカルトが好きでも嫌いでもない。だが物語の根幹が寝落ちの様な…
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