二
今日は定期検査の日ではないが、由衣は山陽医大に向かっていた。両親と共に。
昨日、由衣の元に島崎から電話があった。由衣に伝えておかなくてはならない事がある、という事である。また、できれば家族……両親も一緒に来てもらった方がいいという事だった。
由衣はこの連絡に、嫌な予感を感じていた。
由衣達は准教授用の個室に通された。あまり大きな部屋ではないが、岡本の机とソファもある。診察室ほどではないが、ここも割合良く入った事のある部屋である。
「こちらに座っててください。すぐに来ますから」
そう言って、事務員の女性は岡本を呼びに行った。
しばらく沈黙が続いた。由衣も両親達も何も喋らないまま、ふいにドアの開く音がする。
「どうもこんにちは。すいません、お待たせしてしまって」
岡本が入ってきた。続いて、島崎と柴田も入ってくる。
「――ああ、いえ。そんな事はないですよ、先生」
宣子は恐縮して答えた。岡本は由衣の座るソファの対面に座った。
「今日、来て貰ったのは……<老化>及び<若返り>の事で、重要な事が判明したので、それをおしらせしなくてなりません」
「一体どういう……どういう事なんでしょうか?」
宣子が心配そうな顔をした。
「<老化>及び<若返り>は、世界各国で研究が盛んに行われています。これは昨日、カリフォルニア大学の研究チームが、研究機関向けに事前公開した研究結果です。近日中に発表されますが、現在はまだ公にはなっていません」
岡本は神妙な面持ちになっていた。一時の沈黙が部屋を包んだ。おそらくほんの数秒の事だろう。しかし、それはとても長く感じられた。
「――通常、生物の細胞は分裂を繰り返す度に、細胞が劣化……これが要するに歳をとる――『老い』になるのです。しかし、<老化>及び<若返り>の患者の細胞は、いくら分裂を繰り返しても劣化が認識できないのです。つまり、いくら細胞分裂を繰り返しても、身体はいわゆる『歳をとらない』のです」
由衣は、声が出なかった。岡本の言っている事は理解できた。しかし、それは由衣にとって受け入れられない事だった。
「あの、それは……ど、どういう事でしょうか?」
宣子はよく理解できていない様子だった。
「――わたしの体は……このまま変わらない、五年後も十年後もこの姿のままという事……ですね」
由衣は静かに語った。その目には明らかな動揺の色が見えた。
「……そうです。早川さんの言う通りです。<老化>及び<若返り>の患者は身体的な成長――要するに歳をとりません」
「それは……それは、わたしは今後もずっと、一生この姿、子供の姿で……生きていかなければ……ならないという事……ですか?」
「……そういう事です」
岡本は深刻な表情を崩さない。由衣の表情は硬直したまま、どこか視線を泳がせていた。
「ゆ、由衣ちゃん……?」
宣子は心配そうに由衣の顔を見た。そして肩を抱いた。由衣は空気の抜けた風船のように、フラフラとされるがままである。
「せ、先生……」
柴田が岡本に声をかけた。すぐに後ろから柴田の肩を持たれた。振り向くと島崎だった。島崎は沈痛な表情のまま、柴田の顔を見ていた。柴田は声を失いうつむいた。
「早川さん。この事実はとても辛い事はわかります。しかし、これも乗り越えていかなくてはならない現実なのです」
――これは、これは良くない。とても良くない。わたし……わたしはこのまま大人の身体になれない。大人になれないという事は、様々な面で不利なままだ。頭の中も法律的にも、わたしは完全に大人ではある。しかし、この姿で大人であると他人に納得させるには色々と面倒だ。
由衣は、数年後には成人の容姿と、体力を身につけられると検討をつけて、将来の生活環境を計画してきた。時間の流れと共に成長して大人の体になったら、同時にそろそろ女性である事にも慣れてきて、ごく普通の日常生活を満喫できると思っていた。しかしずっと子供のままでは……ずっとハンデを背負って生きていかなくてはならないのか。
それに十年後、二十年後には両親はどうしているだろうか。もう死んでいるかもしれない。また、まだ死んでいなくて、介護が必要な状態かもしれない。やっと自分が介護無しでなんとかやっていけそうなのに、今度は両親の介護なんて……こんな体でどうしろというのだ。裕福でもないから施設に入れるという選択肢もできない。
弟の善彦は? ダメだ。善彦は無職だし、今後も働く気があるとは思えない。下手をすると、決して多くない由衣の収入に乗っかろうとしているかもしれない。
<若返り>の年金も、働いて収入を得られる様になった今、いつ貰えなくなってもおかしくない。そもそも<老化>と<若返り>の『歳をとらない』特性が判明したのなら、年金は多分見直される。患者が増えていく上に、死ぬまで現状のまま生きていくのだから、それまでずっと払い続けなくてはならないからだ。当てにはできない。
由衣は、この未熟な身体でこの先もずっと生きていかなくてはならない。ずっと……。
由衣はゆっくりと立ち上がり、歩き出した。
「ゆ、由衣ちゃん……?」
宣子は、焦点の定まらない由衣の姿についていく。由衣はフラフラと歩いて行き、部屋のドアを開けて部屋から出て行った。島崎と柴田も後に続いて部屋を出た。
由衣は、山陽医大の廊下をただ歩いていた。ひたすら歩いていた。しばらく歩き続けて、下のフロアに降りる階段の前に来た。由衣は手前で止まり、下を見下ろした。そして何のためらいもなく、ゆっくりと嚙みしめる様に階段を下りていく。下のフロアに降り立つと、後ろから拍手が聞こえた。
「島崎さん……」
「早川さん。もう階段なんて、全然問題ないですね」
島崎の言葉に、由衣は少しだけ笑顔になる。
「……そうなんですよ。去年の今頃なんて、階段をひとりで降りる事なんて出来なかった。退院しても、立ったまま一段降りる事が出来なくて……座ったまま、ゆっくり、ゆっくり……」
由衣はうつむいた。うつむいたまま、少し震えていた。
「わたし……どうしたら……わたし……」
顔を上げた由衣の頬は涙に濡れていた。止まることなく溢れる涙に、ぐしゃぐしゃになったまま立ち尽くしていた。
「早川さん……」
――いつもそうだった。いつも最後は裏切られた。少しまわり道する事になったけど、なんとか軌道修正できたと思ったら、次の瞬間崖から転落だ。こんな事ばっかりだ。
――本当に大切なものはいつも手に入らない。自分の手にあるのは、どうでもいいものばかり。
――本当に嫌になる。どうしようもなく嫌になる。
「早川さん、あなたはまだここで終わったわけじゃない。辛くても前を向かなきゃ。いつもそうして乗り越えてきたじゃないですか。ここまで歩いてこれたじゃないですか」
島崎は由衣の両手を強く握りしめた。由衣は、その手のぬくもりに少しだけ心が落ち着いた。しかし……それで気持ちの整理がつけられるほど、由衣の傷は浅くなかった。
「……島崎さん、いつもありがとうございます……でも、でも今は……まだ……」
「早川さん……」
心配そうな島崎を背に、由衣は歩き出した。
「……帰って――とりえず寝て、ゆっくり考えます……」
「早川さん」
由衣は振り返らずに、階段をゆっくりと降りて行った。島崎はそれをずっと見送っていた。
翌日、由衣はずっと部屋に篭っていた。あれから今まで何も食べていない。麦茶を少し飲んだくらいだ。宣子や光男は食べろと言うが、とてもそんな気分ではなかった。
会社には休みをもらっていた。一応、今はまだ試用期間と言う事で、まだ有給休暇は無いが、有給にしてくれているという。電話で、とても仕事に行ける状態に無いというと、特に詳しく聞かれなかった。察しのいい藤井なので、何か良からぬ事があったと予想したのだ。
その日、由衣は結局一日中寝て過ごした。
「由衣ちゃん、ご飯よ。由衣ちゃん……?」
宣子が部屋に入ると、明かりをつけておらず薄暗かった。そんな中で由衣はベッドに寝転んでそっぽ向いていた。
「由衣ちゃん、ご飯よ。今日は由衣ちゃんの好きなカレーよ」
宣子は笑顔で言った。しかし由衣は何も喋らない。
「由衣ちゃん?」
「――いらない」
「で、でもちょっとでも食べないと……」
「いらない」
感情の篭っていない無機質な声で再び、ひと言だけ声を発した。
「ゆ、由衣ちゃん……」
「いらないって言ってる! 出てって!」
「ご、ごめんなさい」
宣子は慌てて部屋を出ていった。部屋のドアを閉めた後、宣子は困った顔をした。宣子には、ずっとそのままの由衣で何も問題無かったが、子供の容姿で侮られがちな事に、由衣は良い感情を持っていないのは見るからにわかっていた。
しかし、どうしたら……どう接したら良いのか、全くわからない。困り果てた宣子は、早く由衣の機嫌が直る事しか考えなくなっていた。