一
九月に入って間もない頃、由衣に少し懐かしい人から電話があった。倉岡工業の長井である。
「やあ、仕事の方はどう? 順調かい?」
お決まりの社交辞令だ。由衣も期待通りの言葉を返答する。
「ええ、順調ですよ。そろそろ馴染んできている様に思います」
「それは良かった。こっちも何とかやってるよ。まだまだ大変だけどね」
「そうですか。それにしても……何かあったんですか?」
「いや、そういう訳じゃあないんだよ。実はね、黒田君なんだけど」
黒田は由衣の同級生で、倉岡工業では由衣とは別の班で仕事をしていた。
「黒田がどうかしたんですか?」
「黒田君ねえ、<若返り>なのを憶えているかい? それでね、早川さんに会ってみたいと言ってるんだよ」
「黒田が……」
黒田はちょうど由衣が入院していた時期に<若返り>を発病したと聞く。由衣よりも早くに退院して、職場復帰もしている。同じ会社の同僚とはいえ、由衣があまり知った人と会うのを避けていた事もあり、未だに会っていない。
由衣は考えた。今まで<若返り>の患者には話をした事はおろか、ろくに会った事も無かったのだ。いい機会だからいちど話をしてみるのもいいだろうか、思った。
「どうする? 嫌ならそれでも構わないよ」
「うーん、いや。いいですよ、会いましょう」
「会うかい?」
「ええ。<若返り>の人とはあまり会う機会ないから、良い機会かもしれない」
「そうかい、じゃあ……いつがいい? 休みの日……土日がいいよね」
「ええ、こっちの都合でよければ今度の日曜でいいですよ」
「分かったよ。黒田君にはそう伝えておくよ。もし黒田君の方で都合が悪かったら、また連絡するね」
「わかりました。では……」
それから三十分程経ってから、また長井から「黒田は今度の日曜で問題無い、と言っている」と連絡があった。そういう訳で日曜日に会う事になった。
場所は最近オープンしたらしい、西大寺駅前のカフェだ。由衣はまだ教習所に通っているので電車通勤をしており、西大寺駅は通り過ぎるだけの駅だ。倉岡工業に退職の手続き等に行く際に何度か降りたが、特に周辺の施設には興味が向いていなかった。今目の前にあるカフェも前に通りがかっているはずだが、こんな店があるのに気がつかなかった。
「わりと洒落た店ですね」
「うん、結構人気があるみたいだよ」
由衣と長井は店内に入る。
「いらっしゃいませー」
店員の若い女性の声が聞こえた。店内はそれほど大きくは無いが、客は六人から七人くらいいる。長井は店内を見渡した。
「えーっと……あ、あそこだ」
そう言って窓際のテーブルの所にいる男のもとに歩いていく。由衣もその後をついて行った。
「やあやあ。待ったかい?」
「長井さん、どうもお疲れ様っす」
男は立ち上がって長井に挨拶をした。
「早かったね、黒田君」
「あ、もしかして……その子が?」
「そう、早川さんだよ」
「やあ。……久しぶりだね」
由衣は黒田と思われる男に声をかけた。
「うわー、本当に? いや、まあ聞いていたけど……まさかね。ここまでとは」
その男は由衣を見て、驚きと好奇心で頭がいっぱいという感じだ。
「会った人って、みんな信じられないっていうね」
「まあ、この姿じゃしょうがないけどね」
由衣は苦笑した。
「紹介するよ、早川さん。この人が黒田君だよ。大分顔が変わってしまってて、信じられないかもしれないけど……それから黒田君、この人が早川さんだ。早川さんだとはとても信じられないと思うけど、正真正銘の早川さんなんだ」
長井は由衣と黒田に、それぞれお互いを紹介した。テーブルを挟んで向き合うふたり。由衣の表情には少し緊張が見られた。黒田はとてもリラックスしている様子だ。
――それにしても黒田も変わった。<若返り>とは本当に不思議だ。由衣は黒田の顔を見て、改めて思った。目の前にいる黒田の顔は、由衣の記憶の顔とは違う。
――こんなにイケメンだっただろうか……いや、そんなはずはない。別段普通の顔だったはずだ。それに、そもそも顔立ち自体が違う様に思う。
「大分、顔が変わったね。最初わからなかった」
若干遠慮気味に、由衣は口を開いた。
「だろうね。僕もさ、鏡で自分の顔を見ていつも思うし。こいつ誰? ってね」
黒田は両手を上げて、困った様な表情をした。
「二人とも、なんでこんなに変わるんだろうね。本当、不思議だよ」
長井も言う。
「その辺りって、なかなか解明しないね。まあ、予防や治療に比べたら二の次なんだろうけど……」
「直接は命の危険にある様な事じゃないからね」
「でもさ、早川って……僕よりもさ、早川の変わり具合が凄すぎるんだけど」
黒田は由衣の姿をまじまじと見て言った。
「そう?」
「そうだよ。だってさあ、その姿ってホント美少女だよね。それも凄い。アイドルか女優かってくらい」
笑顔の黒田は、身を乗り出す様に前に乗り出して言った。
「そ、そうかな」
顔を近づけてきた黒田に、少し慌てつつ背中を反らす由衣。
「デビューとかしないの?」
「——しないよ。って、する訳ないだろ」
由衣は、――なんのデビューだよ、と心の中で思った。
「えー、もったいないな……スカウトとか来ない?」
「ふふん、政府からはスカウト来たけどね」
由衣はニヤリとした。
実は七月の終わり頃、由衣の元に政府からスカウトがあった。この頃、世界各国で<老化>や<若返り>の優秀な頭脳を活用すべく、様々な組織に登用されている。由衣も知能テストの結果を受けて、役職は不明だが日本政府が新設する、いわゆる参謀的な役割で迎えたいとの話があった。
「へえ、凄いね! それはどうして?」
黒田は興味津々の様だ。
「知能テストしなかった? あれの結果が良かったから」
「ああ……あれか。そんなに良かったの? 僕なんて一六一だったかな……確か」
「それって高いの?」
長井は黒田に聞いた。
「いや、並だと思うね。高いって言うなら、一八〇くらいないと。ちなみに私は一九三だけどね」
由衣はニヤニヤしながら言った。
「早川さんはそれ以上かい? そりゃあ凄いね。さすが早川さんってとこだ」
長井は感心している。
「やるねえ、やっぱ僕じゃあ厳しいなあ。という事は、もしかして政府関係者かぁ……」
「……ま、話は断ったけどね」
由衣はきっぱり言った。
「え? どうして? いい話じゃん。給料良さそうだし」
「確かに良いのかもしれないけど。わたしには合わないから」
「ふーん、でも惜しいなあ。僕なら絶対引き受けるのに」
「黒田君じゃあ、こないんじゃないの?」
長井は黒田の顔を見て笑った。
「あーそれ、ヒドイっすね。傷つくなー。まあ、事実だけど。あっはっは!」
黒田も笑った。
「え? 結婚したの?」
「そうだよ。去年の今頃。ちょうど一年くらいだね」
「ふぅん、それはおめでとう」
「ありがとう。もうさ、毎日がハッピーでねえ。楽しくてさあ……」
黒田は、のろけ話が楽しくてしょうがないという具合に、終始喋り続けていた。当然だが、由衣には面白くなかった。由衣は結婚したくても出来ないのだ。妥協して男と……というのも今の時点では無理だった。
「でも<若返り>は子供を作れないし、そういうの辛くないの?」
由衣は割合思い切った事を聞いてみた。本来ならあまり触れてほしくない事だろうが。
「まあね。欲しいかどうかっていうとそりゃあ欲しいけど、はじめっから納得してだから。問題ないよ」
「そうなんだ」
「それでさあ、今度うちに遊びに来る? ウチの嫁、紹介するよ」
「――断る」
由衣は即断した。
「そんなにキッパリ言わなくてもいいじゃん……」
由衣は正直なところ、黒田の事が羨ましかった。<若返り>を発症するも僅か三ヶ月程度の入院で症状が治まり、その後一ヶ月程度で早くも職場復帰しているのだ。変化の際の痛みも大した事はなかった。容姿も以前より明らかに良くなっている。背が高くなり、顔も端正になって、まあ一般的にはハンサムな部類に入る顔だ。挙句に去年結婚までしたという。黒田は、今が楽しくてしょうがないのだろう。
――どうしてこうなったのか? わたしはなんで、あれだけ苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いてこの姿だ。せめて男だったら、どうにでもなったかもしれないのに。本当に理不尽な話だ。どうも納得のいかない由衣だった。
とはいえ、こうなった以上はどうにもならない。それに由衣にだって、実は黒田より良かった事も色々とあったかもしれない。
「でもさあ、由衣ちゃんって本当カワイイね。――ねえ、由衣ちゃんって呼んでいい?」
黒田は笑顔で言った。
「断る。ていうか呼んでから聞くな」
由衣はきっぱり断った。
「えー、そうなの。残念だなあ。由衣ちゃん、なんか怒ってる?」
「別に怒ってないし。それに話聞いてないな」
「なんか声色がトゲトゲしいんだけどな。カワイイ顔が台無しだよ」
「いや、関係無いし」
「前から気になってたんだけどさ。トイレとかどうしてるの?」
黒田は終始笑顔である。由衣には、その笑顔が爽やか過ぎて余計に癪だ。
「オマエ……それセクハラだし」
「えー、そうかな。でもさ。実際どうしてるの?」
「どうしたも、こうしたも……普通にしてるよ」
「普通って? どういう感じ?」
「それ以上聞くと、警察呼ぶからな」
由衣は黒田を睨んだ。黒田は少し怯んだ。
「まあまあ。冗談だよ。冗談」
それからしばらく他愛ない雑談を続けた。結局二時間くらい居たのだろうか、そろそろお開きにしようという事になって、店を出た。黒田は、今買い物に行っている妻に電話して、ここまで迎えに来てもらう事になっていた。長井は駅の有料パーキングに車を止めているので駅へ向かい、電車で来ていた由衣と一緒に駅へ向かった。
「まったく……黒田があんなチャラい性格になっているとは思わなかったなあ……」
「ははは、確かに前はもっと真面目な感じだったねえ」
「あの調子で浮かれまくって、浮気して奥さんに三下り半つきつけられなきゃいいけどね」
由衣は少し意地悪そうな顔で言った。
「まあ、いくら何でも分別はあると信じているけど……黒田君も<若返り>の他の人ってどうなんだろう、って言ってたし、嬉しかったんだよ。早川さんと話せて」
「そうなのかねえ……」
駅の入り口まで来て、由衣と長井は向き合った。
「じゃあ、長井さん。頑張ってね」
「ああ、早川さんも。活躍を祈っているよ」
そう言って別れた。
よく晴れた九月の空。今は午後三時、まだ暑い。由衣はリュックからタオルを取り出すと、少し汗ばんだ顔を拭いて、ホームに入って行った。