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由衣の冒険2  作者: 和瀬井藤
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 静かな音楽の流れる昼の喫茶店で、由衣は長井の目をじっと見つめて言った。

「あの、実は……」

「……いや、言わなくてもわかるよ。もう顔出てる」

 長井は少しくたびれた表情を綻ばせて、そう呟いた。

「そこは早川さんにふさわしい職場かい?」

「ええ、やっていけそうです」

「そうかい。それならば本当によかった」

 長居は由衣に微笑んだ。

「長井さんには、色々とお世話になって申し訳ないのですが……」

「いや、早川さんの人生だ。どこで働くも自由だし、そもそもこんな会社だしね。早川さんが新しい職場で活躍することを心から祈っているよ」

 長井は笑った。少し疲れた笑いだった。


「じゃあ、家まで送るよ」

「いや、このまま歩いて駅まで行って、電車で帰ります。駅も近いし、ちょっと寄り道するので……」

 由衣は笑顔を見せるも、どこかぎこちない。

「そうかい」

 由衣と長井は立ち上がった。送ってもらうのは断ってしまった。家まで何を話せばいいのか、居心地の悪い時間が続くだろうと思った。

「また退職の手続きで会社に来てもらわないといけないし、それから一応引き継ぎしてもらうのに近日中に一度来て欲しいんだ。日にちは都合のいい日で構わないよ」

「わかりました。じゃあまた……」


 由衣はあれから随分と考えた。藤井工業は従業員八名のかなり小さな会社だ。そんな小さな会社で大丈夫?、将来性は? など心配するのが一般的だと思うが、由衣はあまりその辺りは気にしなかった。それよりもどの程度自由にやらせて貰えるか、それが重要だった。給料にしても、由衣は<若返り>の患者である為、いわゆる年金がある。通称『老化・若返り年金』と言って、障害年金と同じようなものである。これだけではさすがに厳しいが、正直な所コンビニのバイト程度をそれなにりにやっていれば、なんとか生活は出来るのだ。

 藤井はどうだろうか……。言葉ではいい事を言うが、実際はどうだろう。

 この判断がつかず優柔不断な性格もあって、三日間考えた。そして……由衣は藤井工業へ転職する事を選んだ。


 梅雨時の今時分はいつも空模様が怪しい。昨日も雨が降って、今日も午前中には止んだが、朝のうちは結構降っていた。気分はどうも浮かないが、行かねばならない。とりあえず引き継ぎ等で一度会社に行く事になっているのだ。


 倉岡工業には電車で西大寺駅まで行って、そこからバスで向かう。

 昼過ぎて午後一時頃、とうとう倉岡工業の前にやってきた。相変わらずのボロい建物は、いつまで経っても変わらない。ここは時間が止まったままなのか、と疑問が湧いてくる程だ。

 敷地に入って、右側に工場がある。中から音がしている。午前中に電話したところ、今日は大越の班だけが工場いると聞いていたので、ちょっと覗きに行ってみた。

 工場の中も相変わらずで、由衣の居なかった二年以上の時間を感じさせない。

 入り口の開け放たれたシャッターの前に立っていると、中にいた大越が気がついた。

「あ……えっと、早川さん、早川さんですよね!」

 大越が近寄ってきた。大越は時々見舞いに訪れていた為、今の姿を覚えていた様だ。

「久しぶりだね。変わりなさそうで何より」

 由衣は左手を少し上げて微笑んだ。

「早川さんこそ……って早川さんは変わり過ぎですよ。でも元気そうで何よりです」

 大越は嬉しそうだった。しかしすぐに少し表情が曇った。

「早川さん、辞めるんですよね……」

「ああ、そうなんだ。大越君には悪いけどね。この体じゃあもう無理だし」

「まあ、そうですよね。でも俺、まだ早川さんに教えてもらわないといけない事、いっぱいあったし……」

「残念だけどね。でも、わたしもどっちか言うと、殆ど我流でやってきたと言っていい。色々と自分なりにこうした方がいいだとか、これはダメだとか試行錯誤していた。大越君もそうした方がいい」

 由衣は当然仕事をやっていく上で、指導役の親方がいて、その人から色々と学んだ。しかし、こう言った職人仕事は、それぞれのやり方にも向き不向きや好みがあって、一概に言うとおりにやっても上手く出来ない事も多い。由衣は上手くやれない部分は、自分流に様々アレンジして技術を高めてきた。

「はい……でも難しいですね」

「それを乗り越えなきゃ、やっていけないだろうと思う」

「そうでしょうか……いや、そうでしょうね。とにかく頑張ってみます」

「うん、その意気だよ」

 由衣は微笑んだ。


「大越君、この子は?」

 いつの間にか、工場の奥からやってきたのは川口だ。川口は倉岡工業の下請け会社「飯田工業」の下請けでここに派遣されてきている。自身も「川口興業」という会社を作って独立して仕事をしているのだ。忙しい時や、人手が必要な時などにはよく派遣されてきていたので、由衣はよく知っていた。

「ああ、川口さん。この人が早川さんですよ。この間に言った……」

「どうも、川口さん。お久しぶり」

 由衣は愛想笑いした。

「こりゃあ、驚いた。本当に?」

 由衣のあまりの違いに、川口はその厳つい顔を崩した。

「テレビなんかでも見たけど<若返り>って凄いもんだねえ。目の前にすると、やっぱり信じられん……でも早川さん、元気そうで何よりです」

「あはは……迷惑かけます」

「いやいや、迷惑だなんて。常駐で使って貰えるんでむしろ……ってこんな事言ったら悪いな」

「いや、いいんだよ。そういうものだし」

「はは……」

 川口は苦笑した。——川口は独立しているので、仕事がある時だけしか収入が無い。その為、常駐(仕事の有る無しに関わらず常時、取引先に駐在する)して使って貰えると、安定した収入がある。その為美味しいのだ。

「まあとりあえず後でね。事務所に行ってくる」

「はい」

 由衣は事務所の方に向かった。——みんな元気そうで何よりだ。


「やあ、早川さん。来たね」

 事務所の中は長井ひとりだけだった。所長と事務員のおばさんがいるはずだが、今は不在の様だ。

「来ましたよ。どうしたらいいです?」

「まあ、とりあえずは私物とか持って帰ってもらうのと、必要な事を大越君に伝えておいてもらいたいんだ」

「なるほど……でも荷物はちょっと全部は持って帰れないかも」

 由衣が持ってきていたバッグは、以前買った容量二五リットルのザックだった。大分入るが、全て持って帰る事が出来るかは分からない。

「まあ、それは後日でいいよ。確か来週だったね。手続きの関係で後で来た際にでも、持って帰ってくれたら」

「ああ、なるほど」


 由衣は更衣室に入った。自分のロッカーを開けると色々と入っている。替えの作業服だのTシャツだの、それに仕事中ポケットに入れて持っていた、様々な道具類。スケール(巻尺の事)、シャープペン、メモ帳……これら全て、由衣が最初に入院する前に置いて帰っていたままだ。こういったものは家に持って帰ってもしょうがないので、毎日会社に置いて帰るのだ。

 由衣は、使い込まれたこれらの道具を手に取って眺めた。もう大分くたびれたボロだ。でもどこか懐かしい。少しだけ感傷的な気分になった。

 替えの作業服を手に取る。こちらもボロい。これ以上綻びや汚れが酷くなると捨てる事になるだろう。もう着る事はないだろうが……三年以上もここで待ってたんだ。

 足元には安全靴もある。大分ボロくなってもう一年待たずに買い換える予定だったはずだ。それがまだここにあったんだな……。

 どのくらい更衣室にいただろうか、時計を見ると三十分程度だ。だが由衣は、もっと長い間ここにいた様な気がしていた。

 入れられるだけザックに詰めた。もう少しあるが、とりあえず置いていく事にした。では作業場の方に行こうか。


「これはあげるよ」

 由衣は革手袋の束を大越に渡した。革手袋はよく使う上に使い捨てなので、時々十組の束を買ってきていた。困った事に、会社はこういう消耗品を支給してくれない。見るとまだ八組程残っているので、全部大越にあげる事にした。

「それから、これらも……」

 由衣は私物の工具箱の蓋を開けて中を見た。中にはたくさんの工具が入っている。全て会社の道具ではない。由衣が自分で好みのものを選んで、自腹で買い揃えた道具だ。

「もう使う事はないだろうから」

「でも……いいんですか? これだけ揃えるのに結構お金かかってるんじゃ」

「使わないものを持っててもしょうがないし。今度は設計みたいな仕事だしね」

「しかし……いや、早川さん。ありがとうございます。大事にします」

 大越は嬉しそうに言った。

「この中のも使えるなら使って欲しい。もうすでに使っているのかもしれないけどね」

「ははは……ありがとうございます」

 この中とは、作業場にある事務机の事だ。由衣は班長なので、ある程度の書き物仕事もする事があった。図面とまで行かなくても、大越達に指示したりするのに、図面とは別に紙に書いて渡したりしていた。それ用に文房具類などが割合沢山あったのだ。まだ使っていないファイルなどもある。

 その後、仕事の事について、色々と質問を受けた。由衣は答えられる限りなるべく丁寧に、詳しく伝えた。また、この日の為に仕事用の事を書き留めてファイルしたものを大越に渡した。

「じゃあ、頑張ってほしい。大越君。君ならきっとやれる」

「早川さん……」

「川口さんもいるし。完璧じゃないか」

 由衣は笑顔で大越の肩を叩いた。

「は、早川さん!」

 大越は感極まったのか、半泣きのまま由衣の両手を握った。

「大越君……」

 由衣もちょっと照れた顔になっていた。

「こりゃあ、大越君。どさくさ紛れに手を握るとは」

 川口がニヤニヤしながら言った。

「ああ、いや! 別にそういう訳じゃ」

 顔を真っ赤にして由衣の手を離す大越。

「どういう訳かな?」

 そう言って姿を現したのは長井だった。

「ああ、長井さんまで! 勘弁してくださいよ」

「まあまあ、照れるな。照れるな」

「やるねえ、大越君」

 冗談ごとをみんなで笑って、その後も話し込んで、気がついたらもう二時間くらい居た様だ。

「あんまり仕事の邪魔しちゃ悪いね。そろそろ帰らないと……」

「早川さん。新しい仕事、頑張って下さい」

「うん、君達もね」


 由衣は帰りの電車の中で、昼間の倉岡工業での事を思い出していた。そうしているうちにウトウトしてきた様だ。

 由衣の寝顔は少しだけ嬉しそうで、少しだけ寂しそうだった。

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