二
「今日の晩御飯はカレーよ。由衣ちゃんが食べたいって言ってたから」
由衣は帰りの車の中で晩は何が食べたいか聞かれ、「カレーライス」と答えていた。
その為、家に戻って食べる最初の料理はカレーになった。
台所のテーブルに席を用意してくれていた。由衣は久しぶりに両親と弟の善彦の四人で食べた。特にどうこういう様な感情は無いが、宣子の作ったカレーは美味しかった。
「どう? 美味しい?」
ニコニコしながら由衣に聞いた。
「うん、美味しいよ」
「そう、良かった!」
宣子は嬉しそうだった。光男も、「病院のと比べてどんなだ?」と聞くので、
「病院より美味しいね。かなり」
と答えた。実際、病院の料理は薄味の料理が多く、不味い訳ではないけど美味しいという程ではなかった。病院なんだから濃い、または刺激の強い料理はやはり無いのだろう。
——久しぶりに美味しい料理を食べたので、ちょっと気分が良かった。が、ただ……側で食べている善彦の汚い食べ方は変わって無いみたいで、非常に不快だった。もう四十歳手前のオジさんなんだけど……善彦の方は見ないようにした。
由衣は最初は普通に食べていたが、半分も食べるとお腹がいっぱいになってきた様で、スプーンを置くと父が、
「どうしたんだ? もう食べんのか?」
と由衣を見て言った。
「もうお腹いっぱいだし……」
「それだけでか? もっと食べたらどうだ」
「もう、由衣はあんまり食べられないんだからしょうがないでしょ。まだ病み上がりだし……由衣ちゃん、無理しなくてもいいからね」
「……でも美味しかったよ」
ちょっと申し訳なさそうに言う。母もかなり気合入れて作っただろうに、それを思うとちょっと申し訳ない気がした。
食事が終わると、また応接間に戻った。
由衣はテレビを付けた。夕方のニュースが画面に映る。
中国における内紛問題が取り上げられていた。中国は今年に入って、中国共産党の影響力が落ちつつある。由衣も病室のテレビで見ていたが、夏頃から時々ニュースなどで言われる様になってきていた。それで民主主義を掲げる勢力が少しづつ大きくなっているという。
アメリカが裏で暗躍しているだとか、ネットでは噂されてたりする。まあ今後どうなるのやら、有事が起これば日本も他人事では済まないだろう事が予想されていた。
二年くらい前に中東方面で緊張が高まっていたが、現在ではそんなに大事にはなっていない。相変わらず物騒な地域であるのだけど。アメリカは相変わらずだが、今年……いや去年くらいからだろうか、ロシアが強大化しつつあるとニュースやネットでは言われている。
それから中国である。中国は今、とても厳しい状態に突入しつつある。中国共産党の弱体化と景気の悪化が原因だろう。北部に『魏』、南部に『秦』と名乗る、ふたつの組織が力をつけてきている。先の民主主義を掲げる勢力というのがこれである。『魏』は日米に裏で支援されているという。『秦』は欧州からの支援が噂されている。
その後、コマーシャルを挟んで<老化>関係のニュースがあった。内容は、どうして<老化>が発病してしまうのか、という事だ。悪性腫瘍、要するに癌細胞の突然変異がトリガーになって発病する可能性があると、ドイツの研究チームが発表した。しかし本当に癌がきっかけなのか、それがどうして<老化>になってしまうのか、まだはっきりしている訳ではなさそうだ。
由衣はテレビを見ながら、様々に考えを巡らせていた。
傍に置いていたiPhoneを手にとってネットを閲覧した。有名な掲示板などを見てみると、さっきのニュースの事などの話題が書き込まれて、いろんな意見が投稿されている。由衣はしばらくそれらを読んでいた。
「由衣ちゃん、お風呂入ろう」
日も暮れた午後八時くらいに、いきなり宣子が来て風呂に入ろうと言った。
その時、由衣はベッドに寝転んで小説を読んでいた。気がついて、宣子の方を向いた時にうっかり本を落としてしまった。どこまで読んだか分からなくなってしまったが、まあまた後で読み直せばいいと思って、落とした本を拾って枕元に置いた。
宣子は由衣の下着とパジャマを用意していて、由衣がベッドから起き上がるのを手伝った。そして松葉杖を使って風呂場に向かう。宣子は慎重に、由衣が歩くのを補助していた。
風呂場は家の北側面にトイレと併設されている。狭い家なので、応接間からは数歩しか離れていない。宣子が脱衣所の引き戸を開けて、由衣を中に入れる。入ると戸を閉めて由衣の服を脱がす作業に入った。
「さあ、服を脱ごうね」
由衣ひとりでも脱ぐ事は出来るが、宣子がやる気満々で手伝うので言いにくいみたいだ。しかし、この脱衣所は人が二人入ると狭い。
由衣が着ていたカーディガンを脱ぐと、宣子はその下のシャツを脱ぐのを手伝った。それからスカートを脱いで下着姿になった。ソックスを脱いで、今度はブラジャーを外す。後ろのホックがまだ外し辛いので、宣子が外した。続いてパンツを脱いだ。足首まで下ろして、片足づつ脱いでしまえばパンツは難しくない。
全裸になると、宣子は風呂場の戸を開けて中に入れた。風呂場に入るとバスチェアに由衣を座らせて、宣子はシャワーを出した。適度と思われる温度になると、由衣の手に少しシャワーを当てた。
「どう? 熱くない?」
「いいよ。このくらいでいい」
そう言うと、少しずつ腕や足を流していく。
「本当に綺麗な肌ねえ……いつまでもこんな肌でいられる様に、綺麗にしておかなくちゃねえ」
宣子は由衣の体をシャワーで流しながら呟いた。
「じゃあ体洗うね」
宣子はスポンジにボディソープを垂らして泡立てる。由衣はいつも髪をまず洗っていたが、洗ってもらってるので黙っている。
少しづつ由衣の肌をスポンジで撫でていく。腕から始まって、肩から胸、足を磨いたら腰回へ……身体中泡だらけになった。
「由衣ちゃんが家に帰ってこれて本当に良かったのよ。それまでどことなく何か暗くてね。女の子がいるとやっぱり違うと思う。華やかだし」
宣子はしみじみ語った。
——女の子がいると華やかになるのは、まあそうなのだろうけど……。
「そうなんだ」
何て答えたらいいか迷う。由衣はいつもあまり多く話さないのだ。
「流すわね」
「うん」
シャワーが由衣の体の泡を流していく。あっという間に泡が流れる。再び由衣の透きとおる様な白い肌が露わになっていく。
「今度は頭洗うね」
「うん」
宣子は由衣の頭にシャワーを浴びせた。由衣の瑞々しい頭髪が湯に濡れていく。
「由衣ちゃんは本当に可愛いわねえ。私も若い時には女の子が欲しかった事もあってねえ。世の中分からないわ」
——女の子が欲しかった……か。
宣子は由衣の身に起きた事を結果的に喜んでいるのだろうか。それとも予期せぬ出来事を前向きに受け入れて、悲しみを喜びに変えようとしているのだろうか。それは由衣には分からなかった。
宣子は由衣の頭にシャンプーを付けてワシワシ洗う。
「流すわよ」
そう言ってシャワーでシャンプーを流していく。
「さあ、立てる? よいしょ……」
宣子は由衣を湯船に入れる為に立たせる。
「由衣ちゃんは背が高いねえ。私より高いわ。何センチあったっけ?」
「確か一六二センチだったと思う」
「私は確か一四九センチだし、そりゃ高く感じるわねえ……あっ、大丈夫? 転ばない様にね」
由衣が湯船に浸かろうと、足を上げようとしていると宣子が心配している。ゆっくり片足づつ入れていけば、特に問題なく湯船に浸かれた。
由衣は「ふうっ……」とひと息ついた。
宣子は由衣の髪を撫でて、
「肌も綺麗だけど、髪もとっても綺麗ねえ。私にとっては天使の様だわ。いつまでも可愛い由衣ちゃんでいてね」
そう言って由衣の髪を撫でた。
若返り後、宣子は由衣を目の中に入れても痛くないくらい可愛がるが、いつまでもとはいかない。何もかもは無常なのだ。
由衣はふと湯が緑色をしている事に気がついた。入浴剤が入っているみたいだ。宣子が言うには美容に良いらしい。
「そろそろ出ようかな」
入って十分程して言った。
「そうね、のぼせてたら困るしねえ」
出ると宣子がバスタオルで体を拭き始めた。
「いいよ。ひとりで拭けるし」
「手とか足は良くても背中とか難しいでしょ。もうちょっと体が良くなるまで拭いてあげるわ」
「うーん……」
——一から十まで母にやってもらうのは何か嫌だ。早くこの要介護生活から脱却しなくては。
風呂から出ると、また部屋に戻ってベッドに寝転んだ。テレビをつける。よく分からないバラエティ番組が画面に映っている。しばらく見ていたが、面白くないのでチャンネルを変えた。やはりつまらない番組しかやっていない。
テレビを消すと、iPhoneを手にとって、ネットを閲覧した。なんとなく流し見しているといつの間にか眠ってしまった。朝起きると布団の中に入っていた。どうやら宣子が寝ている由衣を布団に入れてくれていた様だ。