一
最近は本当に暑くなってきた。しかし部屋の壁に取り付けてある温度計を見ると、二十五度である。空調の効いた室内だから当然だ。窓の外を見ると、そこはとても暑そうで、外にずっといると溶けてしまうのではないか、と冗談まじりに思った。
そして由衣は壁のカレンダーを見た。六月十日、もう夏なのだ。どうりで暑いわけである。
そして……この夏、由衣は新たなる決断と共に新しい舞台に進んで行く事になる。
「早川さん……どうしてもダメ?」
「悪いけど、やっぱりもう無理でしょう」
「……でも、どうにか」
「ダメですね……」
しばらく沈黙が顔を出した。
「……はあ、また電話するよ……」
「……ええ、何度電話しても一緒ですが」
由衣はiPhoneを机に置くと、ため息をついた。
――やれやれ、しつこいなあ……。
先ほどの電話は、倉岡工業の長井からである。用件は言うまでもなく、職場復帰してくれという事だ。由衣の替わりが務まる職人が居らず、職場は苦労しているという。ハローワークに募集は出しているが全く来てくれない。それもその筈だった。倉岡工業は数年前から、次第に業績が落ちている。当然高いとは言えない給料で、腕の良い職人が来る訳がなかった。優秀な職人は他にもっと条件のいい会社があるのだ。ボーナスにしても寸志と言った方が正確な程度の金額なのだ。
由衣は仕事に関して、この病気から大分変わった。今までは不満はあっても惰性で続けていた部分があった。いわゆる「社畜」などとネット等で言われている類である。しかし、病気で長い間苦しんでこの姿になった今、姿だけでなく仕事に関する考えも変わった。
――とりあえず、現状をバッサリいかないとダメだろう。それが出来なかったから、今まではこんなダメな状態だったんだ。
――これからは変わらなくてはいけない。そう、変わるんだ。
由衣は決意を新たに職探しをする事に決めた。
現在<老化>及び<若返り>患者の就業が問題になっている。
今までいた職場で体の変化が原因で、同じ仕事が出来ない患者が多くいた。そのせいで職を失うという問題が出てきたのだ。特に中高年層で<老化>を発症した場合、やはり体力面で厳しかったり、容姿面で厳しかったり……それらを理由に解雇される場合がでてきている。そして、それをさせない為に<老化><若返り>を理由に解雇は出来ないという法律になったのだが、今度は企業側の不満が噴出した。そのまま復帰出来る人は良いが、特に余裕の無い中小企業は今まで通りの仕事が出来ない場合、代わりの人を雇わねばならず、負担の増大になったのだ。それに職場内で、患者に対しての中傷もあったりと別の問題があって、ああすればこうなるという困った事態になった。その為、国は<老化><若返り>の患者を雇用している企業に対して補助金を出す事で解決する事になった。一人に対して半分の金額を国が負担するという事になった。これによって、企業は患者を雇用した方が良い場合も多くなった。人件費が半分になるからである。それで企業によってはむしろ患者を募集している事がある。
倉岡工業も同じで、由衣を通常の半分の給料で雇用できるとなると、知識経験が活かせるだけあって、得だと考えていた。
由衣は寝転んで、天井を見た。
これまで何度か電話もあって、長井さんが家にやってきた事も何度かある。由衣にとって――やっぱり、ここはもう居場所ではない――そう感じていた。
「こんにちは、島崎さん」
「こんにちは。うふふ」
島崎はついクスクスと笑みがこぼれた。
「どうしたんですか? あれ、なんかおかしいかな……」
「ごめんなさい、違うの。早川さん、なんていうのかしら――会う度に生き生きしてるというか、明るくなっている様に見えてね。ちょっと嬉しくなったんですよ」
「そ、そうですか……あはは」
由衣は少し照れていた。
「そういえば会社と色々揉めているって、前に行ってましたけど、何か進展ありました?」
「いや、別にそういう訳でもないのだけど……まあ、もう決心したんだ」
「何を決心したんですか?」
「――会社は辞める、そう決心したんです。そして就職活動をする」
由衣は窓の向こうの景色を見て微笑んだ。
「そう、早川さんは変わりましたね。何だか、とても積極的になったみたい」
島崎はそう言って微笑んだ。
「きっといい道があるはず。わたしはそう信じてますから」
由衣は笑った。島崎もそれに応えるように笑った。
「さあ、脱いだ脱いだ」
由衣の服を嬉々として脱がせようとしているのは原田である。由衣を更衣室に連れて入った途端、すぐに行動に移った。
「ちょ、ちょっと。原田さん!」
「どれどれ、検査の前にアタシがまず身体検査しなきゃ」
原田はニヤニヤしながら由衣の服を脱がしていく。
「あ、あの、原田さん! 自分で脱げますから!」
「何言ってんの。あたしが脱がすからいいんでしょうが」
「どういいのかさっぱり分かりません!」
由衣も脱がされまいと抵抗する。しかし、いつの間にかパンツ一枚にされる由衣。
「どれどれ、どのくらい育ってるのかねえ」
原田は容赦なく由衣をセクハラする。
「いや、それって全然関係ないし!」
「どれどれ……」
由衣は原田に抱きつかれて、あちこち触られながらも抵抗していた。
そんな時、更衣室のドアが開いた。
「あ……」
ドアの向こうから姿を現したのは柴田だった。目の前の光景に硬直する柴田。顔は真っ赤だ。
「し、失礼しました!」
柴田はすぐに我に返って、ドアを閉めた。
「なにやってんのかねえ、まったく」
「いや、それ……わたしのセリフですよ……」
更衣室を出て行く原田。由衣は、やれやれとひと安心した。
少しして二人は帰ってきた。由衣はもう検査着に着替え終わっていた。
「まったく……原田さんは……」
「だから、ちょっとしたスキンシップって言ってるじゃん。ホントよ、スキンシップ」
「あんなの、もし師長に見られたりなんかしたら冗談では済まないですよ」
「そんときゃ柴田に命令されたって言っとくわ」
「私を巻き込まないでください!」
「そう怒るな、怒るな。まあいいじゃん。由衣の身体はチェック出来たわ!」
「それをチェックして何するんですか……」
柴田は呆れ返っていた。
「さ、行きましょ。由衣こっちよ」
「……」
由衣も同じように呆れ返っているようだった。
今日の定期検査が始まる。由衣は次々と検査をこなしていった。毎度おなじみの検査ばかりだ。そして最後の検査を終えると、後は診察室で岡本から話を聞いて終わりのはず……が、しかし、
「早川さん、次は第二予備検査室に行きますよ」
「え? 第二予備……まだ何かあるんですか?」
由衣は聞きなれない言葉に聞き返した。
「ええ、二週間程前だったかな。新しい検査項目ができて……それで<老化>も<若返り>の患者さんも、みんなそれ以降受けてもらっているんです」
柴田は相変わらずの淡々とした口調である。
「ふぅん、そんなものが……」
由衣は何をするのだろうと思った。ひとつ心当たりがあるが……どうだろうか。
「さあ、ここです。どうぞ」
柴田は第二予備検査室と書かれたプレートの付けられたドアを開いて、由衣を中に招いた。