一
二◯一七年十月十八日、早川由衣は退院した。
——お世話になった先生や看護師に見送られながら、病院を出発する時は流石に泣きそうになった。
体の痛みに耐え、変わり果てた姿で必死にリハビリに取り組んだあの辛かった日々が、今ではとても素敵な思い出となり、わたしの胸にいつまでも残っている。本当に心から感謝したいと思う。
早川文彦——いや、早川由衣は約二年半前に世界中で患者が増えている<若返り>を発病し、更に<性転換>まで発症して現在に至る。かつて普通の中年男性だったが、今は十代半ばくらいの容姿をした少女になっている。顔立ちも、体つきも全くの別人だ。その為、今の姿に合わせて「文彦」から「由衣」に改名した。
急速に老人になっていく<老化>や、逆に若返ってしまう<若返り>は、治療する担当医が検査結果から判断して『容姿年齢』というものを認定している。
由衣の公式な容姿年齢は十五歳とされた。これは実年齢との差が二十歳以上であり、かなり大きな変化とされる。特に未成年に見られる程に若返った場合は、かなり重い症状とされていた。
そういう事で、由衣は患者の中では重症患者という事なる。同時に<性転換>という他に例の無い症状があり、最も重い患者に認定された。その為、治療費の補助や今後の医療関連費用の免除など、様々な恩恵を受けられる。
おかげで現在、会社を休職中だが治療に関連する費用などは特に問題無かった。ただ、由衣には自由に出来るお金が無い。これは困った事だが、収入が無いのでどうしようもなかった。
——家に近づくにつれて、よく知った景色が目の前に広がっている。十年だとか長い間見てなかった訳じゃないのに、とても懐かしい気持ちになった。
家の前に到着すると、相変わらずの実家である。庭も狭いし、もう古い家だ。
「変わらないなあ……」
窓の向こうに見える家をぼんやり眺めていた由衣は不意に呟いた。
「そうねえ、本当にそのまんまねえ」
「懐かしいだろう」
両親がそれぞれ言った。
「そうだね」
由衣は窓の外を眺めたままだ。
庭にバックで車を入れた。庭に車を止めると、宣子が由衣の座っている右の後部座席のドアを開けてくれた。そして由衣が車から降りるのを補助した。
由衣は少し手間取りながら、ゆっくり車から降りて松葉杖を使い、再び自宅に降り立った。
車から降りて庭から家を見た。相変わらずの懐かしい家だ。本当に変わっていない。玄関の前にいつも置いていた、由衣が通勤に使っていたクロスバイクもまだそこにあった。
宣子は玄関の戸を開けた。由衣は中に入って見渡してみる。やはり変わっていない。真正面には由衣のロードバイクがある。そして左手側には由衣のシューズラックがある。
ラックの上の靴も同じだ。プーマにアディダス、ニューバランス……本当に変わってない。ただ、これらのスニーカーは全て履けなくなっていた。サイズが大きすぎた。これらは大体は二十七センチだが、今は二十三から四センチくらいでないと合わない。
「さ、上がって」
宣子は由衣の前にスリッパを置いた。まだ新品の水色のスリッパだった。玄関に腰を下ろして靴を脱いだ。そして松葉杖を使って起き上がると、スリッパに足を入れた。
玄関から上がって、廊下を右に曲がると階段が見える。その手前の右側にドアがあり、この中は応接間だった。
「——さあ、由衣ちゃん。ここよ」
と、宣子は応接間のドアを開けて由衣を中に招く。
「……あ、ベッドがある」
部屋の中にはベッドなどが置いてあり、ソファは隅に寄せられていた。あまり広くない応接間だが、以前に置いてあったと思われるものなどが無くなっている。別の部屋に移した様だった。
後で分かったが、フロアを這うコードとか不要物が沢山あると、足を引っ掛けて怪我をすると、病院からアドバイスされて大分片付けたらしい。
「多分二階だと大変だろうからねえ。ここをとりあえず由衣ちゃんの部屋にしたのよ」
宣子は由衣の髪を優しく撫でながら、笑顔で語りかける。
——なるほど、まだ松葉杖が必要な体だし、確かに階段は辛いからこれはありがたいな。
——またそのうち、二階の部屋にある必要なものを下ろしたらいいや。
「そうなんだ……ありがとう」
由衣はちょっと微笑んで言った。
「由衣ちゃんの為だもの。折角退院出来たのに、また怪我したりしたらいけないでしょ」
「……うん」
由衣は松葉杖でベッドまで移動した。
「よいしょ……」
由衣はベッドに腰をかけて一息ついた。
「どう? 帰ってきた気分は」
「いいよ。やっぱり落ち着く」
「そう! よかった」
宣子は笑顔になった。
「ゆっくりくつろいでね。久しぶりに戻ってこれたんだかから」
「そうだね」
由衣は部屋の中をぐるりと見渡した。模様替えしているけど、やっぱり応接間だなあ……などと考えて、ひと息ついた。
「ちょっとひとりにしておいて。のんびりしたいし」
と母に言うと、
「うん、私も家に居るから何かあったら声を掛けてね」
そういって応接間を出て行った。
由衣はポケットからiPhone5Sを取り出した。WiーFiに繋ぐ設定をしてみる。
「——あった。ちゃんと光の回線維持しててくれていたんだ」
入院前にこの家で使っていたWiーFiの設定が、そのままアクセス出来たのだ。このあたりの事は入院中に両親に伝えていたが、本当にちゃんとやってくれているか分からなかった。二人ともこういう事に疎いからだ。
それにしても、このiPhone5Sはバッテリーの残量が厳しい。今日も朝に病室でフル充電したはずだし、その後たいして使っていないにもかかわらず残量が四十八パーセントと表示されている。先月新型iPhoneが発表され、二、三週間前に発売されている。近日中に買い換えたいと思っていた。
iPhone5Sを枕元に置いて、ベッドに寝転ぶ。白い天井を見て今後の事を考えた。
——わたしは今後、どうやって生きていこう。今はしょうがないとしても、いつかは一人で生きてゆかねばならない。今は未成年にしか見えないが、五年、十年もしたら私も大人の女性になっているのだろう。仕事さえちゃんとやれたら、何とかなるだろうか。いや、何とかやっていかないとダメだ。その為にも自分に何が出来るか、よく考えていかないと……。
入院していた頃から、同じ事を時折繰り返し考えていた。いつまで同じ事を考えているのだろう……きっと心の奥底では不安で埋もれて積もっているのだろう。それが時々姿をあらわすのだ。
それから由衣はいつの間にか意識が薄れていった。どうやら寝てしまった様だ。
「由衣ちゃんは?」
由衣の叔母である晶子は、玄関で宣子と会話していた。今日の夕食の材料を買ってきて貰っていた。由衣を残して買い物に行くのは良くないと思い、義姉の晶子に頼んでいたのだった。宣子と晶子は若い頃から親しいらしく、同じ市内に住んでいる事もあって良く会っている様だ。お互い、あっちゃん、のんちゃんと呼ぶらしい。
「今寝てるのよ。見ていく?」
宣子は義姉にスリッパを出す。
「そうね、ひと目見て行こうかしら」
晶子は出されたスリッパを履いて家に上がっていった。
「ホント綺麗な顔してるわねえ。まさか文くんがこんな事に……それにしても<若返り>って、この姿でうちの景子と近い歳だとは、いつ見ても信じられないわね」
由衣の寝顔を眺めてしみじみ言った。
「そうよねえ。<若返り>ってホント不思議」
「それにしても、顔は子供だけど背は私より高いのよねえ」
晶子は自分の頭の上に手を持っていって言った。由衣の身長は一六二センチで、見た目の割には背が高い方だ。晶子も宣子も一五◯センチ前後であり、由衣よりも大分低い。
晶子は由衣の頬を人差し指で軽く触ってみる。そして少しクリクリしてみる。由衣は少しくすぐったそうな顔をした。
「うふふ、ホント可愛いわねえ。でも今後どうするの?」
「うん、とりあえずは普通に歩ける様にならないと。その後は……どうなるのかしらねえ、まあ数年したらもっと大人になるだろうし、それからでもいいのかなって思ったりしてね」
宣子は由衣の髪を撫でながら言った。
「今はまだ子供だしね」
「そうよねえ」
宣子と晶子はしばらく由衣の寝顔を眺めつつ、世間話に花を咲かせた。
「じゃあ、また何でも言ってよ。のんちゃん無理しないでね」
「ええ、ありがとう。あっちゃん」
結局、由衣は夕食の準備が出来た、午後六時頃まで寝ていた。