言葉食
初めて言葉を食べるところをみた時は、それは驚いた。
ウェイターが、蓋がのった皿の中に出来立てほやほやの言葉をのせてきて、ほれ食えとテーブルに置きやがる。男は蓋を開けると、その嫌嫌しいヒゲでそれをペロッっと平らげる。その言葉というのがジュテームだったり、イヒリーベディヒだったり、到底平常じゃありつけない言葉なのだ。まさにエキゾチックな異国料理である。
私も羨ましくなって、百人一首やもののあはれなんていう好きモノに手を出したが、言葉食ビギナーには純和風過ぎて、口慣れず消化不良になってしまった。
またある時は、太宰や三島の言葉を食ってみたが、これもたまらず、直ぐにはばかりでゲーゲーやるハメになった。強烈な美しさは時に毒になり得るのだが、調理人がその扱いを誤ったのである。
世に散らばる詩を食べてはさめざめととめどなく零れる涙を抑え、映画の名シーンを制覇した頃には、私はすっかり言葉の美食家だった。
最近では少し飽食ぎみで、自分1人だけの楽しみにしておくのはやめて、彼女を連れてくることにした。お楽しみの料理が運ばれてきて、彼女は目を輝かせた。今となっては彼女が何という言葉を食べたのか覚えていないが、私はその日世界一の料理を口にした。
今までに、妻の旧姓ほど美味いものはなかった。