観覧車
『観覧車』
風はうなり、金属の軋む音がした。
巨大な質量を回転させる膨大な力が、滑らかさに欠いた継ぎ目で渋滞を起こし、あぶれて、振動となりシートを振るわせる。
まるで怪物の腹の中にいるようだ、わたしは思う。
腸の蠕動が、遠くで打たれる心臓の鼓動が、動脈を流れる血潮が、今も耳元でがなり立てているのでは。わたしは消化され、死にゆく一個の敗残者なのではないか。
そんな楽しげな空想も、目を開けてしまえば、窓の外で少しずつ小さくなってゆく周囲の建物が高度を実感させるだけで。いま空にぽつねんと浮かぶ小さな箱のなかにいるのだ、というさして悲劇的でもない孤独な現実に引き戻される。
夕暮れに染まった水平線が、今まさに藍色の帳に覆われようとしている。眼下の光景が斜陽に染まり、建築物はその影を一段と伸ばす。
一人で乗る観覧車というものはどうしてこうそら恐ろしいのだろう。
単に退屈なら本でも読めばいい。こんなところでも電波は通っているだろうし、携帯電話も手元にある。けれどそんな気にまるでならない。警戒心を拭えない。脅威に囲まれる予感がわたしを押しつぶそうとする。おかしな話だ、と思う。だれもいないというのに、喧騒に渦巻く教室で一人うつぶせになっているときと似た気分を味わっている。
『それはこの観覧車という遊びが、実のところ個人にとって遊びなどではなく、これに乗る一個の群れ、それを構成する個々が結びつきの強度を実感する手段に他ならないからだ』
お化けなんてものを信じるつもりはない。だからわたしは、突如として天から降りてきた、正確にはキャビンの天井に据え付けられたスピーカーががなり立てたその薀蓄を、この施設を担当するキャストの悪ふざけと判断した。
「誰だか知らないけど、独り言を聴くなんていい趣味ね」
『……カイヨワは遊びの性質を四つに分けた。「競争」「運」「模擬」そして「めまい」。その分類に従うのなら、この遊具での遊びにあたる最大の性質は間違いなく「めまい」だろう。
遠く離れていく大地。突如として立ち現れる見知らぬ景色。ゆっくりとした変容のなかで得られる世界に対しての具体的な認識。曖昧だった空間の連なりが手触りを伴って迫ってくる感覚。驚きと不安。期待と恐怖。希望と孤独。
世界はこんなにも広く、自分はどこまでも小さい。
けれど彼は「遊びは常に誰かに対して見せるもの」だとも言った』
会話する気がないのなら黙るしかない。わたしは早速この声の主を告発する算段を立てたが、その面倒にすぐ音を上げた。
声は続く。キャビンの鋭角で空気が渦巻き、甲高く鳴り響く。
『得られた感覚は、そのままでは楽しくなく、誰かと共有すること、ないし共有した気になることによってはじめて機能する。その誰かこそがカイヨワの言う遊びを見せる相手なのさ。
この観覧車という遊びも御多分に漏れず、常に見られる相手を必要とする。友人、恋人、家族、なんだっていい。
だが、勘違いしてはいけない、それらがキャビンの中で同じ体験をする必要は全くない。
君が、僕を告発することを止めた理由を教えてあげようか? 』
『それは君がここを出ることができないからだ』
おかしい、と思う。何かが脅かされている。わたしの重要な何かが。
そう、だってわたしは一度だって独り言を言っただろうか。初めは、知らぬうちに口に出していたと思った。だから恥を感じて、同じことはもうすまいと口を引き結んだ。だというのに、舌の根も湿らぬうちにまた同じことを繰り返した?
「あなたはだれ?」
『それは僕の質問だ。君は誰だ? 君は心底、この観覧車を遊んでいない。独り者が卑屈な体験をしようとしているわけでも、単に景色を眺めに来たわけでもない。楽しくないポーズをとっているわけでもない。
よろしいかな少女よ。
あらゆる体験は他者と共有されることによってようやく意味を持つ。遊びなんてものはまさにそうだ。「一人で観覧車に乗る」という体験、それが遊びとして成立するのは他者にその体験を話すからだ。実際に話すことがなくても、話すアテがありそうだからだ。
君にはそれがない、あり得るのか? そんなことが。僕はあり得ないと思う。
後にも先にも遊びとして成立させる予感もないのに観覧車に乗るという事態が』
やめて、と呟く。耳を塞いで、うずくまる。もう一言だって聞きたくなかった。吐き気がした。めまいがした。足元に渦巻く何かがわたしを吸い込んでゆくよう。
「放っておいて。わたしはまともな人間だよ」
シートを通して僅かに感じられていた力の向きが変わる。頂点はいつの間にか過ぎていたらしい。登りから降りへ。上から下へ。
『だから何度も言うように、君は存在しないんだ。最初から最後まで、初めから終わりまで。
いい加減出て行ってくれないかな。でも、出られないんだろうな。だって君は存在しないんだから。本当に、迷惑なことなんだぞ。わかっているのか? みんな毎日、朝から晩まで働いてるんだ。だっていうのに、何にもする気もない君のために、こうしていちいち観覧車を止める時には、話しかけなくちゃいけない。永遠にくるくる回って、それをおぜん立てしてる人の苦労を考えたことがあるのか? まさか一人で何もかも悩んでいるつもりじゃないだろうね。ええ? 』
膝小僧に眼窩を押しつけて、もどれ、と思う。もどれもどれ。明日になれば全部もとに戻るんだ。だれもかれも優しい人になれ、否定なんて失われろ、歓びと愉しみしかない場所にわたしを押し流してくれ。
振動が止まった。世界は終わった。また始まるまで。
「でも、誰か乗ってませんでした? 」
若い警備員が懐中電灯でゴンドラを照らしながら、そう言った。
「幽霊じゃないですかね」圧し消した煙草の始末に迷いながら、俺は操作室から顔を覗かせた。帰りしなに呼び止めたスタッフ一同は、指示に従って搭乗口で待機している。むしろ予想外に大事になったと、言い出した当人が焦っているありさまだった。
「それならいいんだけど」でも、確かに見たんだけどな。そんな言葉が漏れる。それを聞いて、短期のバイトかな、と予想する。この観覧車の噂はここでは有名な方だから。
不意に、勢いよく警備員がこちらに向く。懐中電灯が眩しい。
「え? 今のマジ話ですか?」
「マジだったんじゃないんですか」見たんなら、と言いながら内部照明を点ける。ぱっと見た限り、人影はない。だがこの巨大さだ、見落としだって起こりうる。七面倒くさいが動かしてゴンドラの一つ一つを確認するしかない。
「あ、いいっすよもう。いないっぽいんで」心なし蒼い顔の警備員にため息を吐いて、「そういうわけにもいかないでしょう……」
重い駆動音から数秒して、古臭いつくりの観覧車が回り始める。勤務時間をとっくに超してるというのに、同僚たちは良くやってくれる。つい先ほど済ませたばかりのマニュアルに従って、二度目の最終点検をこなしてゆく。
「女の子だそうです」
え?と警備員。元より彼に話してやるつもりもない。ただ、ゆっくりと登ってゆくゴンドラの1つに、確かに彼女の姿が見えたものだから、目で追いかけるぶん、禊ぐように言わずにはおれなかった。
「それがね、それらしい理由が何もないんですよ。この遊園地、死人が出たことがないのが自慢の一つで。ここ、平成に入ってからの埋め立て地でしょう? 歴史ってものも皆目なくて、なんでいるのか誰もわからないんですよね」
「来られなかった病人の遺恨とか、事故で死んだ人の……」
「ま、なんにせよ何でもかんでも理屈を貼り付けたがるのが俺たちの欠点なのかもしれません」
火口が失せたことも忘れて煙草ごしに不味い空気を吸う。ギリシャの哲学者は円を完全な形と信じていた、と思い出す。だから惑星は円軌道を描き、紐につるした重りをふりまわした時のように、宇宙には不思議な音色が響き、和音となって完全な音楽が奏でられていると確信していた。
彼女は天高く昇ってゆく。下からは見えないほど高くに。そして、また降りてくるのだろう。どうせまた昇るしかないのに。
消し炭となったちびっこい煙草を胸ポケットにねじ込んで、俺はそっと祈った。
彼女に幸あれ、永遠に降りることのない彼女に幸あれ。閉じて、永劫回り続ける悲惨な世界に幸あれ。そして退屈な変化に生きる我らこそ幸いである、と。