4節 僕と二人で、どこか遠くへ
帰宅すると、家の奥から良い香りが漂ってくる。靴を脱ぎ捨て、キッチンへ向かうと本日の食事当番である紫遠がクリームシチューを作っている最中であった。
「お帰り」
世槞の姿に気付いた紫遠は、調理する手を止めないまま言う。
「美味しそう! 今日は昼ご飯がメロンパンだけだったから、お腹ぺこぺこなのよね」
「またその台詞。午後はずっと保健室で休んでたんでしょ? ろくに頭も身体も使ってないんだから、空腹になるはずがないんだけど」
紫遠の鋭い指摘に世槞はむくれる。
「ほんっと、お前って小煩い!」
「姉さんがしっかりしないからだよ」
涼しい顔をして、世槞の欠点をしれっと言い放つ。こんなことは日常茶飯事だが、その度に世槞は何も言えないまま地団駄を踏む。
「あーっ、そうだ紫遠! 夏休みの課題さぁ、評価が最悪だったんだけど」
言い返す言葉はないかと一生懸命に頭を捻っていた時、はた、と閃く。それは旅行へ出る前に弟に全て任せた課題。押し付けておいて文句を言うのはお門違いかもしれないが、あんなに頭の賢い弟が肩代わりしたにしては、低すぎる評価に世槞は不満を感じていた。
紫遠は世槞の文句に対し、これまた、しれっと言い放つ。
「それが何?」
「……はあ?」
「姉さんって、いつも低評価でしょ。僕は君の肩代わりを、つまり君自身が課題をしたように装っただけなんだよ」
紫遠は更に続ける。
「いつも低評価の姉さんが、いきなり高評価の課題を提出したら、それこそ怪しまれる。適度に手を抜かせてもらった。これは全て君を想う僕の優しさだよ」
世槞はやはり何も言い返せなかった。完敗だ。口を噤んだまま自室へ行き、部屋着に着替える。リビングへ降りる頃には愁も帰宅し、家族3人で食卓を囲う。
家事は兄弟で順にこなし、梨椎家を切り盛りする。これがいつもの風景だ。代わり映えのしない平凡な毎日だが、平凡が一番良いことだと痛感させられた世槞には、絶対に壊したくない日常である。
風呂から上がり、自室に戻った世槞は静かに考える。時刻は23時。明日に備えて寝るには、丁度良い時間だ。しかし世槞はベッドに潜り込むことをせず、家の中をフラつく。
隣りの部屋は弟の部屋だ。僅かに開いた扉からは、机にかじりつき、課題に取り組んでいる弟の姿が見える。まったく、よくあれほどまで勉学に勤しめるものだ、と世槞は感心する。昔から努力家の弟は、全てにおいて世槞に勝っていた。外見は同じだが、中身は正反対。それが気に入らないのではない。素直に凄いなぁと思うし、自慢であり、頼りになる弟だと感じている。
(私も、しっかりしないとな)
せっかく常人離れした能力を手に入れたのだから。
「こら、夜更かしをするな」
暇を持て余し、リビングでテレビを観ていた時だ。コーヒーを淹れに部屋から出てきた愁が世槞を叱りつける。
「眠くないんだよ」
愁は眼鏡をかけ直し、ソファに座る世槞の顔を上からジッと覗き込む。
「な……なによ」
ひとしきり顔を眺めた後、愁は何故か頷く。
「寝ろ。睡眠不足は脳の回転を鈍らせるだけでなく、精神を不安定にする。安定した心は、規則正しい生活を元に築かれるものなのだぞ」
精神科医らしいアドバイスだ。このまま居間にいては、首根っこを掴まれて強制的にベッドに放り込まれる未来が視えた世槞は、そそくさと立ち去る。
“お兄様のおっしゃられる通りです。今は眠りましょう。来るべき日に備え、体力・精神力共に温存しておかねば”
世槞の影も寝ろと言う。わかってはいるのだが。
「寝るの……怖いんだよな」
寝れば、あの悪夢を見ることになる。必ず見るのだ。頭の中の壊れたテープが、狂ったように同じ場面ばかりを繰り返し上映するような。
(多分、それだけ私にとって計り知れないショックだったのだろうな。もはや、トラウマだわ)
“トラウマを克服するには、トラウマの元凶となった悪玉を叩くのみです”
(……おい、こら。人の心を読むな)
“私は貴女です。世槞様が考えておられることは流れる水のように自然と私のナカに侵入してくるのですよ”
(プライバシーもなにもあったもんじゃないわね)
“それがシャドウ・コンダクターです”
世槞はハイハイ、と諦めたようにベッドに潜り込む。
――悪夢を見た。
頭の中の壊れたテープは、やはり壊れたままだった。その場面を流しては巻き戻し、再び流す。一時停止もスロー再生も無い。ただ、起きた過去の事実、有りのままを見せつける。
無言の圧力のように感じた。どうして助けてくれなかったの。貴女にはその力があるのに、第三者を救うことが、貴女の使命なのに――と。
――私が死んだのは、お腹の子があんなことになったのは、全て、貴女のせいなのよ。
恨みの目、恨みの声、恨みの念。全てが鋭い刃となって魂を突き刺す。
自分の悲鳴で目が覚めた。
涙をだらだらと流し、寝汗をたっぷりとかいていた。全身が震えている。悲しみと恐怖と、後悔と罪の意識。ごちゃごちゃになった感情は、世槞の足をキッチンへと向かわせていた。
「……げほっ」
何かが吐き出せそうな気がする。体内に潜む、壊れたテープの正体――トラウマを。しかしいくら吐き出そうにも胃液が逆流する程度で、トラウマは出て行ってくれない。喉が爛れ、虚しさが残るだけ。
“世槞様、水を”
影に言われ、自分が軽い脱水症状を起こしている事実に初めて気がつく。震える手でガラスのコップを掴み、蛇口を捻る。世槞は流れる水をジッと眺め、水と一緒にトラウマも流していってはくれないかなと考える。
“世槞様っ? 何をなさっているのですか!”
気がつくと、世槞は頭をシンクに突っ込み、流れ出る水をいっぱいに浴びていた。
(――――あ)
我に返る。頭をあげると、水分をたっぷりに含んだ赤い髪から水が落ち、顔と寝間着をびしょびしょに濡らす。
“…………”
世槞は苦笑した。
(楽になりたい)
記憶操作の薬を使って全てを忘れられたら、どんなに楽だろう。しかし、クイーンを仕留めない限り、沓名先生のような被害者が出る。それは絶対に止めないといけないことだ。
(だから私は悪夢を記憶し、この手で終わらせないといけない)
可ノ瀬朧の情報では寄生型は月詩市に出現したらしい。まだ発生報告の少ない形態らしいから、クイーンの仲間である可能性が高い。
(明日あたり、月詩市へ調査に行くか……)
また学校をサボってしまうことになる。自分に最低限の教育だけは受けさせたい、と必死に働いている愁の想いを踏みにじることは胸が痛む。
(でも私はシャドウ・コンダクターとして覚醒してしまったよ。シャドウ・コンダクターの使命は影人を始末し、世界の均等を保つこと。私は、世界を、そこに住まう人々を守りたい)
我ながら幼稚な正義感だ、と世槞は自嘲した。
(ふう……まだ午前3時か。このまま寝たら、悪夢の続きでも始まるんだろうなぁ)
シンクを背にずるずると座り込む。寝たいのに寝られない状況が、精神を余計に不安定にさせる。
(まずいな。私はまだ、愁の世話になるわけにはいかないのに)
精神科医としての、兄の。
うなだれ、溜め息を吐いた瞬間にキッチンに接近する気配を感じた。夜の暗がり、キッチンの向こうに広がるリビングから顔を覗かせたのは、もう1人の自分だった。
「…………」
世槞はぽかんと口を開ける。
「悲鳴が聞こえたけど、まさか、君かい?」
悲鳴で飛び起きたのはどうやら世槞だけではなかったらしい。
世槞は恥ずかしそうに濡れた頭を掻き、苦笑いを浮かべることしか出来ない。まさか希翁村で起きた出来事を第三者である弟に話すことが出来るはずもなく。
「……ちょっと」
紫遠は世槞の上半身がびしょびしょに濡れていることに気がつき、棚からタオルを取り出す。
「どうしたのさ、一体」
姉の髪を拭きながら、紫遠は考える。旅行から帰宅してからの様子のおかしさ、顔色の悪さ、悲鳴――それらを総合して考え、ある結論を導き出した。
「希翁村で何かあった……?」
「えっ? 別に? むしろすごい楽しかったけど。いや、さっきはかなり怖い夢を見てしまってさー。自分でもビックリするぐらいの悲鳴を上げてた。ごめんな、驚かせて」
必死に笑顔を取り繕う。作り笑いであることがバレないよう、祈りながら。
「そう。怖い夢、ね。水を頭から被るほどに?」
「ひ、冷やそうと思って……」
髪の水分を拭き取った後、服を替えた方がいいよ、と紫遠は言う。
「わかった。ありがとうね。明日も早いし、着替えたらさっさと寝るわ」
「姉さん」
呼び止められ、振り向いた世槞の視線は紫遠とはぶつからなかった。紫遠は背を向けてシンクに向かったまま、少し俯いている。
「旅行から帰ってきたばかりの君に言うのもなんだけど……また旅行、行く気ない?」
「――へ?」
「今度は僕と2人で、どこか遠くへ」
紫遠はあくまで世槞と視線を合わせようとしない。だが先ほどまでの呆れた物言いではなく、言葉の1つ1つに強い意思を感じる。何を考えているかまではわからないが。
「紫遠と2人で? んまぁそれも面白そうだけど、私、月の都でやらないといけないことがあるんだよな。それが終わってからでも良い?」
「やること? 重要なことなのかい?」
「あー……まぁ、かなり」
「そう。じゃあ、終わったら言って。もう、あまり時間が無いから……」
「? わかった」
キッチンからリビングへ移動し、世槞は首を傾げた。
(紫遠のやつ、何をそんなに焦ってる?)
希翁村から戻って来た時から、この街も友人も弟も、少し変わっていた。
(ちょっとした浦島太郎か)
その夜は結局、眠れないまま次の日の朝を迎えることとなる。