3節 約束をしたんだ
慌てて戸無瀬高等学校へ登校をした世槞は、双子の弟のクラスである1年特進クラスへ真っ先に向かっていた。
「紫遠、お弁当まだ残ってる? 昼ご飯食べ損ねてしまってさぁ」
期待に満ちた表情で覗き込むも、すでに食事を終えていた弟の冷ややかな視線があるだけだ。
「世槞、メロンパンなら残ってるぞ」
弟の前の席に座る相模七叉が、手にしたメロンパンをひらひらと翳す。
「助かる! さすが七叉!」
世槞はメロンパンを受け取り、さっそく袋を破いてかぶりつく。
「いいのかい? 七叉」
「ああ。今日は食欲ないからな……俺」
弟の紫遠は姉の代わりに七叉に礼を言った。
「姉さん。あと1分で午後の授業始まるから、さっさと自分のクラスに戻りなよ」
「わーってるわよ。ったく、いちいち小煩い弟だこと」
世槞は頬を膨らませ、自分のクラスである1年普通科Aクラスへ走る。
「皆、席に着いてね。5限目の現代文の担当である唯石先生がお休みなので今日は自習よ。今から配布する文章をよく読み、自分で課題を見つけ、それに対する解決策を述べなさい」
世槞が入室した直後に扉を開いたのは、葉山陽子先生だ。1年生の授業は担当していない為、世槞はこの先生についてはあまり知らなかった。ただ、嫌でも目が行くのは葉山先生の腹部――。
「先生ぇ、働いてていいの? お腹、かなり大きいけど」
クラスの1人が当然の疑問を投げかける。
「今月が臨月なのよ。だから、あと1週間働いたら休むつもり」
「えーっ、もっと前から休んどいた方がいいって」
「私もお腹の赤ちゃんも丈夫だから、平気なのよ」
自然と、両手の握る拳に力が入る。悪夢が鮮やかに蘇り、叫びたくなる衝動を抑えることで必死だ。くわえていたメロンパンも、半分以上を残して床に落としてしまっている。
「赤ちゃんは男の子? 女の子?」
「名前は決まってるー?」
悪意の無い質問が辛い。それに答える、我が子の誕生を楽しみにしている葉山先生の笑顔が辛い。
沓名先生は、全ての幸福を握り潰されるどころか、赤ちゃんだけが未だ逃亡中だ。
「梨椎さん?」
思わず席を立った時、葉山先生が世槞の名を呼んだ。集中するクラスの視線。
「世槞? どうしたの」
心配顔の友達。
「あの……気分が、優れないので保健室で休んできます」
喉が肥大化したかのように詰まり、言葉を絞り出すことで精一杯だ。空気が薄いわけでもないのに呼吸困難になり、誰が見ても世槞の様態は普通ではないと分かった。
「早く行ってきなさい」
許可が下りる。世槞は逃げるように教室を飛び出し、保健室のベッドに突っ伏した。
保健室には、カーテンで区切られたエリアがある。そこは生徒曰わく『相談室』であり、精神科の先生が親身になって話を聞いてくれる。今もそこには相談を持ち込んでいる生徒が1人いるようだが、世槞は構わず寝返りをうった。
「こら、世槞。午後からの登校は許したが、サボりまで許可した覚えは無いぞ」
呆れたようにベッドを覗き込むのは、赤髪の保健医。精神科の先生でもあり、胸に付けられた名札の文字は『梨椎』。
「うん。ちょっと、気分悪い。休ませてくれ……」
うつ伏せに倒れたままうわごとのように「気分が悪い」を繰り返す妹を見て、兄の梨椎愁は溜め息混じりに言う。
「遊びすぎだ」
愁はカウンセリングが終了した生徒を部屋から出し、回転椅子に腰掛けて仕事の続きを始める。世槞は少しだけ顔を動かし、兄の後ろ姿を眺めた。
兄の梨椎愁は双子とは11歳の歳が離れている。10年前に両親を亡くし、双子の親代わりとなって梨椎家を守ってきた逞しい兄。精神関係の仕事に就いたのも、妹と弟の心のケアをする目的があったらしい。
世槞も紫遠も、口には出さないが感謝している。
(それに、あんなに白衣の似合う男はそういない)
すらりと伸びた身長に整った顔立ち、赤い髪色は奇抜だが、しかし白衣によく似合っている。今年、戸無瀬高等学校に赴任してきたばかりだというのに、すでに幾人もの教師や生徒に告白をされているという。カウンセリングを受けたいという名目の元、大して悩みも無いのに愁に近づこうとする輩が未だ増殖中。
(もちろん、全て丁重にお断り。愁に見合うレベルの女性なんて、そうそう見つからないよな)
世槞はベッドの上で苦笑した。
「世槞、元気そうだな。教室へ戻ってもらおうか」
愁はこちらを振り返ることなく、世槞の様子を察知していた。
「あっ、頭が痛い……ズキズキする」
「……。まったく……」
自分にも他人にも厳しい兄ではあるが、極たまに、甘い部分も見せる。その“極たまに”のタイミングが今で良かった、と世槞は胸を撫で下ろしていた。
「旅行はどうだった。沓名先生は元気そうだったか?」
何も知らない愁は、旅行を楽しんで来たであろう妹に土産話を期待する。
「……うん。臨月だから、あまり騒ぐことは出来なかったけど」
「無事に生まれたのか?」
「生まれた……と言えば、生まれたかな……」
(怪物が)
「?」
沓名先生のことを考えると、やはり黙っていることが堪えられないほど胸が騒ぎ出す。何かを破壊しないと、叫び回らないと、正気が保てないくらいに。
世槞は布団をギュッと握り締め、心の中で暴れまわる狂気と必死に戦った。
結局、放課後になるまでベッドに突っ伏していた世槞は、愁に「家へ帰れ」と追い出されることにより仕方なく帰路についていた。
西へと真っ直ぐに伸びる道を歩いていると、夕日がとても眩しくて自然と目を細める。
世槞は夕空が好きだ。爽やかな朝空よりも、元気の出そうな昼空よりも、ロマンチックな夜空よりも。薄くグラデーションのかかったオレンジ色は、どこか哀愁を誘う。この切ない感じが、たまらなく懐かしいのだ。
「って、懐かしいとか感じるほど長く生きてないけど」
独り言にしては少々大きな声を出す。周囲には誰もいない。ここは閑静な住宅街だ。
“お身体は大丈夫なのですか”
低く、おどろおどろしい声が世槞の独り言に反応を示す。
「まぁな。葉山先生が妊娠してる事実如きで精神を乱されるなんて、私もまだまだだわ」
世槞は悔しさを誤魔化すようにフンと鼻を鳴らす。
“しかし、もし本当に例のクイーンが月の都を次なる巣としているならば、妊娠している女性は要注意ですよ”
「そんなことにならないよう、クイーンを……いや、沓名珠里を見つけて始末する! それが、沓名先生との約束だしな」
“悲しき約束ですね……”
世槞のシャドウは、世槞が生まれたその瞬間から全てを零すことなく記憶している。世槞が受けた嬉しさ、怒り、悲しみ、憎しみ、全てを共有している。ゆえにシャドウ・コンダクターの一番の理解者は、シャドウなのである。