2節 世界の真実
「おはよう」
おそらく、誰もが驚いてしまうほどの様相をしていたのだろう。少女――梨椎世槞に対し、2人の男性は開いた口が塞がらない。
「おは……よう、と言っても、つい2時間ほど前に帰宅したばっかりだよね。満足に寝れてないでしょ、顔色が酷いよ」
最初に声を発したのは双子の弟だ。名を梨椎紫遠と言い、初見では見分けられないくらいに姉と似ている。
「確かに今日から授業が始まるわけではあるが……いい、俺が許可する。昼くらいまで寝ていろ。登校は午後からでいい」
次に声を発するは、双子と同じく赤い髪をした青年だ。双子とどことなく似た風貌、そして外見年齢から察するに、双子の兄であると思われる。
「……いいの?」
「戸無瀬への手回しは俺がやっておく」
戸無瀬とは、双子が通う高等学校の名である。
「さすが愁」
世槞はヘラヘラと笑い、リビングを出てメインホールに入った。
「……時間、もらっても寝れないけどな」
寝れば夢を見る。悪夢を。
世槞は無理やりに笑っていた顔を引き吊らせ、午後までの時間をどう過ごそうか考えを巡らせた。
弟が登校し、兄が出勤した頃合いを見計り、世槞はリビングへ降りる。寝起き直後のボサボサの赤い髪を整えることなく、熱いココアを淹れて「ふう」と一息をついた。
世槞は夏休みの1ヶ月間を利用し、中学校時代の3年間を世話になった元担任の女教師のところへ遊びに行っていた。
場所は月の都からかなり離れた片田舎で、希翁村というところだ。その教師は昨年に結婚、同時に妊娠も発覚し、実家のある希翁村で妊娠休暇を取っている最中であった。
世槞は教師の吉報を聞きつけ、丁度臨月だという8月に合わせて祝いのつもりで訪問。そのまま長居することとなった。
そして帰宅したのが昨晩。だが、出掛ける前と今の彼女とでは、明らかな違いがあった。
“午後まで、それなりに時間がありますね”
その声は、世槞以外誰もいないはずのリビングから聞こえる。世槞の声ではない。
“如何なされますか”
何故なら、この世に生きる者が発するには到底不可能なほどに低く、おぞましい声だからだ。
「ここ2週間くらい呆けてたからなぁ……勉強も兼ねてウォーミングアップする」
世槞は姿の見えない謎の声に対し、臆することなく当たり前のように返事をする。声は、よく耳を澄ますと世槞の足元及び影から聞こえているようだ。
世槞の返事を聞いた影は、ゆらゆらと揺れて了解の意を示す。
「えーと、世界の真実についてもう一度教えてくれない?」
世槞は制服に着替えながら影に問う。
“はい。まず、この世界は2つ存在します。そして、1つの天秤の上に成り立っています――”
燃えるように赤い髪は地毛であり、肩までの長さがある。ブラシでとかすと内側に緩くカーブし、今時の女の子らしく可愛らしい様相になる。
“世界は2つ存在します。片方は我々が住む表世界。もう片方は影が住む影世界。2つの世界は1つの天秤の上に成り立ち、両者の重さは均等でならなくてはならない。少しの傾きも致命的で、傾きが進むと天秤はバランスを崩し、崩壊――世界が滅亡します”
そんな外見とは裏腹に、性格は荒々しく無鉄砲で、絵に描いたようなお転婆娘だ。話し方は男言葉と女言葉が混じった奇妙なものであり、その理由は弟に「頼むから女らしく喋って」と言われ、無理やりに矯正をした結果、現在のような奇妙な言葉遣いが生まれた。
“世界を崩壊へと導く悪玉が影人と呼ばれる存在です。これは自分の影に身体と魂を乗っ取られたヒトの意。影が表世界側のヒトを乗っ取るとはつまり、影世界から人間1人分の重さが消失し、天秤が表世界側に傾くということ。これが世界の傾きです。ゆえに影人は発見次第すぐに始末して、傾きを修正せねばなりません”
制服のスカートの下に黒いタイツを履く。世槞は服装においてスカートを着用する場合、季節は関係なく必ず黒いタイツを履いている。
“ヒトが影人化する理由は、現在解明されているだけで3通りあります。
1、強い負の感情を長期間に渡り抱くこと。
1、影人と取引をすること。
1、影人に影響されること。つまり、感染。
以上のどれか1つにでも当てはまれば、ヒトは影人化します”
最後にネクタイを締めれば、戸無瀬高等学校の制服への着替えは完了である。
“影人化することを防ぐには、己を律することが大事なのです。負の感情に惑わされず、己を強く持っていれば影は乗っ取れない。しかし、それも影響による影人化は防げないとされています。どんなに健康でも、強い感染力を持つ病原菌の前では無力だということです”
家を出る。空は爽やかな秋晴れ。水色の空に薄い雲が混じり、じわりとした汗が滲むほどの暑さがまだ残る。
“影人と一言で表現してもその形態は様々で、ヒトの姿のままの影人をヒューマン型、ヒト以外の姿に変貌する影人を変貌型と呼びます。変貌型の中にも名称は数多くあり、新しい形態が出現する度に記録は更新され続けています”
向かう先は学校ではない。今日の学校へは午後からの登校で許されているからだ。
“その影人を始末出来るのがシャドウ・コンダクターと呼ばれる特異能力者であり、自分の影を具現化して自由に操ることが出来ます。それぞれに司る属性が異なり、並外れた身体能力と併せて自分に合った戦法で影人を殺します”
世槞は学校とは反対の方向へ迷うことなく歩き、月夜公園に足を踏み入れる。
“世界に散らばるシャドウ・コンダクターたちを統括しているのがシャドウ・システムであり、通称、組織と呼ばれています。表には決して姿を現さず、秘密裏に影人を始末する。組織の人間は各国の学校や役所、警察庁、果ては政界など様々なところに入り込み、裏から世界を操ってシャドウ・コンダクターが影人狩りをしやすい世の中を作り上げています。それはつまりどういうことかといいますと、第三者――影人でもシャドウ・コンダクターでもない、普通の人間――の記憶・思考・情報を操作し、騒がれないようにすること。世界人口の約9割が第三者で占められる中、このようなコントロールは非常に重要といえます”
世槞が目を向ける先、そこにはベンチに座り、ぼんやりと空を眺めている女子高生の姿がある。平日のこの時間に高校生が公園にいるのは妙である。
“世界の真実――つまり、<世界の仕組み>についての説明は以上です。どうです? 復習になりましたか”
世槞は女子高生に近付き、隣りに腰掛ける。女子高生は世槞が来ても反応を示さない。
「なぁ……何か、嫌なことあった?」
ぼそりと呟かれるような世槞の質問に、女子高生は遠くを見据えたまま、これまたぼそりと答える。
「……一番仲良しだった友達が、死んでしまったの」
「そうか。いつ?」
「1ヶ月、くらい前。多分、自殺。遺書はなかったけど、学校で酷いイジメに遭っていたらしいの。だからそれが原因ね」
「イジメには気付けなかった?」
「私たち、学校が違ったの。それにあの子……紗耶香は、嘘が上手いから……私に心配かけないように、必死だったのね」
女子高生は泣いていなかった。おそらく、そんな涙はすでに枯れ果ててしまったのだろう。泣けぬ悲しみの中、目を覚ましたのは影。
世槞は自分の影を見下ろす。影は揺れた。世槞の質問に答えるように――イエス、と。
「名前、教えてくれる?」
「……佳奈」
「じゃあ佳奈。私がその悲しみから解放し、友達の紗耶香に会わせてやるわよ」
「――え?」
女子高生はここで初めて世槞を見た。
――真っ赤な鮮血のように、不吉な赤い髪。でもそれが陽の光に反射して、キラキラととても美しく輝いていた。まるで、暗い影の世界に迷い込んでしまった者を導く、道標。
それが女子高生が見た、最期の光景であった。
「市井佳奈、聖クトゥリア学園1年、ヒューマン型。影人化した理由は、親友を失った深い悲しみ、かしらね。これ、組織に属してたら始末報告の義務を負うんだよな。私は違うから、このまま焼却処分しても大丈夫?」
世槞は女子高生の鞄から抜き取った学生証を片手に、影に対して問い掛けている。
地面に横たわった女子高生の遺体は、心臓部分から黒い煙があがっている。死因は心臓を炎で焼かれたことだろう。ただ死に顔が非常に穏やかなことから、苦痛は感じなかったらしい。
“ええ。世槞様はいわばフリーのシャドウ・コンダクターですので――”
「ああー待って待ってー! その影人の情報、ボクに教えてぇー」
突如、公園に響き渡る陽気で気の抜けた声。世槞は両肩をビクッと震わすも、特徴的な喋り方を聞いてそれが誰であるかを瞬時に察知した。
「……朧。驚かせるな!!」
滑り台の上、そこに朧と呼ばれた青年が立ってこちらを見下ろしている。ニヤニヤと常に顔に浮かべた笑顔には、いつも底知れぬ何かを感じる。
名は可ノ瀬朧。言霊を司るシャドウ・コンダクターであり、シャドウ・システムに属する。長い灰色の髪を三つ編みにして後ろに流しているのが外見的特徴だ。
「だってぇ、せっちゃんってば学校に行ってないんだもぉん。やっと見つけたよぉぉ」
せっちゃんとは世槞のあだ名だ。そう呼ぶのは朧しかいないが。
「学校でせっちゃん探してたらさ、せっちゃんに激似の男の子を発見しちゃった。思わず声を掛けちゃうところだったぁ」
「ああ、それ紫遠だな。双子の弟なの」
「他に、同じく赤い髪の怖ーい先生にも呼び止められちゃったり……不法侵入とかで追い出されたぁ」
「愁な。私たち双子の兄」
梨椎愁の職場は戸無瀬高等学校だ。そこで保健医兼心理カウンセラーを勤めている。
「せっちゃんは学校サボって影人狩り? ご苦労様ぁっ」
「予定が急に変わったのよ。これはウォーミングアップ」
滑り台からするすると滑り降りてくる朧に対し、世槞は女子高生の情報を提供する。朧はすぐにどこかへ連絡を取り、世槞の情報をそのまま伝えていた。
「……はい、報告完了。焼却処分していいよっ」
「ふん」
世槞は横たわる女子高生に向けて右手の平を広げ、強く念じる。すると、手の平から魔法のように自然発生した紫色の炎が女子高生の身体を瞬く間に飲み込む。数秒後、炎が鎮火された後には骨すら残っていなかった。
「闇炎……いつ見ても綺麗な炎だ」
朧は少し難しそうな表情を浮かべた後、胸ポケットから取り出した小瓶を世槞に手渡す。
「はい、頼まれてたやつ。これで大丈夫?」
「……ありがとう」
「これを飲めば、辛い記憶を消すことが出来る。限界を感じたら、使って」
小瓶の中では、乳白色の液体がゆらゆらと揺れている。これはヒトの記憶・思考・情報を操作する為の薬であり、組織が常套手段として用いているものである。
小瓶を制服のポケットに仕舞い込むと、もう1つ頼んでいたことを尋ねる。
「例の影人の情報は?」
「うん、寄生型だねぇ」
「寄生型っていうのか……」
「昨晩、月詩市で発見されてね。でも新種だったらしいから、寄生型と名付けられた。話を聞く限り、せっちゃんが遭遇した影人の特徴もソレに当てはまるから、9割の確率で寄生型」
朧の唇からスラスラと躍り出る言葉の1つを捕まえる。
「おい、待て。月詩市で発見ってことは、やつら、月の都に……!」
世槞は自分でも知らず知らずのうちに朧の胸倉を掴んでいた。呼吸が荒くなり、必死の形相は尋常ではない。
「可能性はあるかもしれないねぇ。希翁村から逃れたクイーンが、次なる巣として月の都を選ぶ……」
胸倉を掴まれながらも、可ノ瀬は調子を崩さない。
「月の都が危ない……! どうしたらいい? シャドウ・コンダクターとして、まだ覚醒したばかりの私じゃ、知恵も力も仲間も……何も無い」
朧は混乱気味の世槞の両肩を掴み、「落ち着いて」と諭す。
「ボクがいるじゃん」
人差し指が向けられるのは、ニヤニヤとした表情。
「せっちゃんが月見山で行き倒れていたところをボクが発見したのは、多分、偶然じゃない」
「……そうなのかしら」
「あの時ボクは、月見山に立ち寄る気なんてなかったんだよ。任務地とは真逆の方向だし、影人の気配もしないしさぁ。でも何故だが、ボクの意思は暗闇に浮かぶ道標に導かれていた」
それが、闇炎だった、と朧は言う。
「組織内での人脈やコネ、あらゆる手段を駆使して寄生型の動向を探ってあげるから……せっちゃんはそれまで力を温存しててよ」
「……でも」
「焦る気持ちはわかる。わかるけど、今は耐えて」
「…………」
世槞はしばらく視線を彷徨わせた後、頷いた。――頷く、たったそれだけの動作が世槞にとっては苦渋の決断であったらしい。
「あと、非常に心苦しかったけど、せっちゃんのことは組織に報告させてもらったよ。今、組織は闇炎の使い手に関して混乱が起きてる。ボクには報告の義務がある。その義務を果たさないと、なかなか辛い懲罰を受けちゃうからサ」
「よく分かんないけど別にいいわよ。私のせいであんたが罰を受けるのも目覚めが悪いし」
「そう言ってくれると助かるよぉ。じゃ、ボクは任務の遂行中だから戻るネー。寄生型に関する情報が入ったら、すぐ報告するから」
朧は両手を大きく振り、自身のシャドウである言霊の化身を呼び出す。
「待って」
「んー?」
世槞は小走りで朧の元へ駆け寄り、尋ねた。
「お前さ、どうして私なんかに協力してくれるの? 組織に属してないのに……」
朧はニンマリとした笑顔のまま、わざとらしく悩むフリをする。
「それはね、ボクが訳アリの子を見つけると放っておけないタイプだからなんだろうねぇ」
「訳アリ……? まあ確かに今の私は訳アリすぎるけど」
「違う」
朧はそれまでの緩い口調とは違う、鋭く射抜くように否定する。
「せっちゃん、自分では忘れてるようだけど……過去に相当な訳アリを背負ってるよね」
「?」
「うふふ。わからないよね、当然だよねぇ、<忘れさせられてる>んだから」
「??」
「とにかく、ボクはお節介なお兄さんってことで!」
朧は後味の悪い言い方だけを残し、さっさと立ち去った。公園に1人残された世槞は呆然と立ち尽くしていた。
「あいつ……なに意味のわからないこと言ってんのかしら」
“世槞様、そろそろ午後の授業が始まってしまいます”
「あ……そう、だな。急ごう」