2節 鳴我豆研究所へ
「神の代行者?」
町外れにある教会。
鮎河聡美の死体を見下ろしながら、もう1人の少年は腹を抱えて笑っていた。
「微塵にも思っていないことをよくスラスラと……さすが俺の親友だよ、紫遠」
紫遠と呼ばれた赤髪の少年は、鮎河聡美の死体を穢らわしいものを見るような目で見下ろしていた。
「茶化さないでくれ、七叉。それより、この影人の形態を調べたらどうなんだい。組織に報告しないといけないのだろう?」
七叉と呼ばれた少年は「ハイハイ」と頷くと、鮎河聡美の死体をまじまじと観察し始めた。
「一見するとヒューマン型なんだが、ナカに何かが潜んでいそうな気がする……」
七叉は鮎河聡美の死体の口を両手で押し広げ、奥を覗き見る。しかし暗くてよく見えないらしく、口を更に大きく開けてゆく。
「七叉、裂けてる」
「あ」
あまりに押し広げすぎたせいで、鮎河聡美の口は耳元まで裂けていた。
「まぁ大丈夫だろ。こいつの死体は焼却処分するだけなんだから」
七叉は苦笑いを浮かべながら、口内の奥に潜む<生物>を発見する。
「これは……ヒトに寄生する影人か、前代未聞だな」
「それじゃ、寄生型とでも命名するかい?」
「直球だな。ま、その方がわかりやすくて良いか」
七叉はある程度死体を調べると、着用していた戸無瀬高等学校の制服の胸ポケットから取り出した小型の機械を耳に当て、どこかへ通信を始める。
『はい。シャドウ・システム総本部、ヴェル・ド・シャトーです』
「影操師ナンバー411相模七叉だ。月詩市の郊外にあるサン・レナド教会にて影人発生、始末完了。名は鮎河聡美。職業は月詩総合病院の看護士。被害は無し。問題はこの影人なんだが、未発見の新種だ。身体に寄生し、ヒトの思考や動作を操作する。これを寄生型と命名することにした。写真を添付しておくから、影人のデータベースに追加登録しておいてくれ。あ、俺の名前も忘れずに」
『了解しました。では引き続き、世界の為に尽力を――』
まるで機械音声のような女性オペレーターの言葉を最後まで聞かず、七叉は通信を終了した。
「しかしこの女、一体どこで寄生されたんだか……」
教会の奥にある、神父の私室には立派な暖炉がある。紫遠と七叉はそこに鮎河聡美の――いや、影人の死体を放り投げ、灰になるまで焼いた。
「それで? 七叉。僕をこんな真夜中に遠く離れた街まで連れて来た目的が、まさか寄生型の始末だった、なんて言わないよね?」
「言わない、言わない。俺の親友である梨椎紫遠に対し、シャドウ・システムから直々にお願いがあって呼び出したんだよ」
「組織から?」
「ああ、別に組織に属してくれなんてことは言わないから、ちょっと手伝ってほしいんだよ」
七叉は教会から外に出ると、自分の足元にある黒い影を見下ろしてこう囁く。
「白輝」
囁いたのは名前だ。一体、誰の名前なのか。
“はい”
呼ぶ声に対し返事をする声がある。それは黒い影から聞こえ、七叉の足元からは背に12枚の羽が生えた身の丈2メートルのヒト型の発光体が姿を現す。
どうやら、七叉の影から現れたこの生物が“白輝”という名前らしい。
「今から鳴我豆市へ向かう」
七叉はヒト型の発光体に対し、当たり前のように指令を出す。
“了解しました。予定時刻まであと4時間――……急ぎましょう”
白輝の声は非常に落ち着いた声色で、成熟した男性といった印象を受ける。しかしその姿は男性でも女性でもない。
“鳴我豆市? 何故、あんな遠い場所なんぞへ”
そこに白輝の声とは真逆の、とても低く、おどろおどろしい声が響く。口調も命令的で威圧感があり、しかし七叉はこの声の持ち主についてすでに存在を把握しているらしく、驚かない。
「組織の人間は、命令を下されればそれがどんな任務だろうが必ず遂行しないといけないらしいよ、氷閹」
紫遠は自然な会話の流れの中で、その名をさらりと呼んだ。名を呼ばれた氷閹という存在は、紫遠の足元からこの表世界へ堂々たる出現を果たす。
身の丈3メートル、漆黒のマントで全身を覆い、僅かに見える肢体は青白い。口は耳元まで裂け、目は見えない。そして三日月型の大きな鎌を構えたその姿は、死神そのものだ。
今の時期は初秋とはいえ残暑がまだまだ厳しい。しかし七叉は死神が現れた瞬間から肩を震わせ、寒そうにしている。周囲の気温が異常なほど低下しているようだ。
“おい、審判を司る者よ、貴様に説明を求める。我が主人が組織なんぞの手伝いをせねばならん、その理由を”
死神は七叉を見下ろし、高圧的に迫った。七叉は苦笑いを浮かべ、
「時間が無いから、話は行きながらでもいいか?」
と言い、白輝の肩に掴まった。白輝は12枚の羽を広げ、闇夜の空へと舞い上がる。
“むう。紫遠様、今の我では空は飛べぬ。飛行可能な姿に変えるがよい”
「ああ、勿論そのつもりさ」
紫遠は目を瞑り、頭の中にあるイメージを浮かべる。すると、目の前の死神はイメージのままの姿へと、まるで手品のように変化した。そのイメージとは、金の冠を被った馬の姿に翼と蠍の尾を持つ怪物――破壊王アバドンである。
紫遠たちのような存在は、自分の影を具現化させるだけでなく、姿を自由に変化させることも可能らしい。影は主人に忠実な下僕であり、総称してシャドウと呼ばれている。
死神からアバドンの姿となった氷閹は、背に紫遠を乗せて七叉と白輝の待つ上空へと飛び上がる。
「じゃ、行こうか」
白く輝く影と、禍々しい影、2つの影がここ月詩市から鳴我豆市へ向けて飛び立つ。時速は約200キロメートルだ。
「少し前、鳴我豆市の山中にて中世時代のミイラが見つかったっていうニュースがあったの、知ってるか?」
七叉は氷閹に求められた通り、今回の任務についての説明を始める。
「世間では凄く話題になっているから、嫌でも耳に入るよ。なんでも、ついさっき死亡したかのように保存状態が良好なミイラなんだってね。しかも、欧米人」
「ああ、フランス人で20歳前後の女性だ。現在は鳴我豆市にある国立研究所にて厳重に安置されている。歴史的な大発見として、これから綿密な調査がされることだろう」
「そのミイラがどうしたんだい」
「ああ。実はあれ、ミイラじゃない。まだ生きている」
「そう」
「なんだ、案外すんなりと受け入れたな」
「非現実的事象はシャドウ・コンダクターとして覚醒してから数えきれないほど経験している。例えミイラの正体が何だろうが、僕にとっては取るに足らない出来事さ」
七叉は吹き出すように笑い、勿体ぶることを止め、スラスラと説明を続行した。
「世間的にミイラとされているフランス人女性――ユェナ・デアブルクは、闇炎を司るシャドウ・コンダクターだ。500年前の中世ヨーロッパ、フランスの当時フレイリア王国に生まれ、後に地獄の火刑人と呼ばれ、恐れられた極悪殺人鬼」
「いきなり血生臭い話になったね」
「影人を殺し、世界を救うという正義の象徴であるはずのシャドウ・コンダクターの道から外れ、罪の無い第三者たちを火あぶりにして殺し続けていた。組織はそんな闇炎の使い手を世界に仇なす者と見做し、フレイリア王国から遠く離れた日の本の地中深くに封印したんだ」
「それが何も知らぬ考古学者たちの手によって掘り返されたわけか……。偶然とは恐ろしい。でも、どうして封印だなんて手法を取ったんだい? そんな極悪な殺人鬼なら、殺してしまえば……」
「組織は、闇炎のシャドウまでもが地獄の火刑人に毒されている可能性を恐れたんだよ。知っての通り、シャドウ・コンダクターが死んでもシャドウは滅びず、次なる主人の元に仕える。もし闇炎のシャドウが毒されたままなら、次代闇炎の使い手も殺人鬼化してしまうかもしれない」
「なるほど。組織は、闇炎という属性そのものを封印することにより始末しようとしたわけか」
「それが今、解放の危機に立たされている。俺たちの任務は、鳴我豆研究所に安置されているユェナ・デアブルクを始末すること」
「? 再封印しなくていいのかい? 始末ならば、解放されたシャドウが次なる主人に……」
「当時、唯一封印を施せたのが封印を司るシャドウ・コンダクターだったんだが……現在、封印の使い手は世界に存在していない。あ、言い方が違うか。54年前に亡くなった後、まだ、生まれていない」
「ふうん。封印が施せないから、始末をすることにやむを得ず作戦を切り替えたんだね」
「そこで組織が紫遠を選んだ理由だが、相手は闇炎。もし目覚めてしまった場合、対抗出来るのは対極属性である氷だけだと踏んだんだ」
「なら水で良いじゃない」
「水は……」
七叉は苦笑いを浮かべる。
「水を司るシャドウ・コンダクターは組織を裏切った。現在は指名手配中で、発見次第、総帥の御前に連行した後に公開処刑という豪華なフルコースが待っている。とても協力は望めない」
紫遠は呆れたように溜め息を吐き、
「諸々の理由で僕が選ばれたわけだね」
と言った。
「まぁいいさ、親友の頼みだからね。氷を司るシャドウ・コンダクターとして、協力しようじゃないか」
「! ありがとう!」
「それに、そんな危険なやつが目覚めたりしたら……面倒だしね」
紫遠が選ばれた理由。七叉は氷閹の望む通りに全てを説明した。しかし、氷閹は黙りこくったまま、一言も口を開かなかった。
「ところで、世槞はどうしてる?」
鳴我豆市まで、まだ距離がある。七叉はなんとなくその名前を出し、しばらく見ない友人のことを紫遠に尋ねた。
「夏休みも終わって明日から後期の授業が始まるわけだが、どうせ世槞のことだから課題が未完了とかで焦ってるんじゃないか?」
紫遠は「ああ」とその世槞という名の少女の顔を思い浮かべる。
「姉さんは夏休みの1ヶ月間を利用して旅行へ行ってるんだよ。今夜あたり帰宅予定だから、もう帰ってるかも」
「へぇ。なら、世槞にしては珍しく課題を早めに終わらせて旅立ったわけか」
紫遠は首を振って苦笑する。
「姉さんの課題は、全て僕が肩代わりした」
七叉は目を丸くし、
「でも、小論文とか書道、自由研究みたいな嫌でも個性が表れる課題はどうしたんだ? 紫遠が代わりをしたこと、すぐにバレるんじゃ」
と聞く。紫遠は再び苦笑し、「かずさ」と、親友の名前をゆっくりと呼ぶ。
「姉さんと僕は双子だよ? 互いが互いを騙ることなど、意外と簡単なのさ」
「……そうなのか?」
梨椎紫遠と梨椎世槞は確かに顔だけを見れば全く同じ人間だ。性別的特徴が無ければ、見分けがつかないだろう。しかし、中身は双子とは思えないほど真逆なのに……と七叉は思ったが口には出さなった。
「ん……まぁ、姉さんが僕を騙ることは少し難しいかもしれないけど」
双子のことはよく知っているつもりだった七叉も、意外と知らない部分が多いことに新鮮味を感じていた。
「あ。見えてきたぞ、鳴我豆研究所だ」
出立してから2時間後。
鳴我豆市の市街地からかなり離れた場所にある、広大な敷地。その中に研究所が存在する。すぐ近くにはミイラが発見された山があり、上空からでも立ち入り禁止のテープが見えた。
「警備システムが厳重な施設みたいだから、安置室まで一気に走るぞ」
敷地内に降り立ち、七叉が緊張の面持ちで言う。これは絶対に失敗の出来ない任務であり、さすがの七叉も浮き足立っている。
「組織が用意した内部地図がここに……」
“七叉様”
鳴我豆研究所内の地図を広げる七叉に対し、耳打ちするように白輝が小声で名を呼ぶ。
「どうした」
“中の様子が……”
「?」
深夜であるに関わらず、研究所内は明るい。しかしそれは夜通し研究を続ける者がいたり、警備員が巡回していたりで当然のことだ。白輝が言っているのは、本能からくる警告の念。
「……どうやら、来るのが少し遅かったみたいだよ」
紫遠は研究所のある一室を窓の外から確認し、中が血だらけであることを七叉に告げる。
「! まさか」
警備システムのことなど無視し、七叉は研究所内に飛び入る。
研究所内は、入り口からすでに血の海であった。警備員2名が事切れており、その先の廊下にはスーツ姿の男性の遺体。
七叉は膝をついて遺体を調べる。遺体は、体内から爆発したかのように破裂していた。まるで体内に爆弾でも仕掛けられていたような死に方だ。
「ミイラを狙っているやつが、組織以外にもいたってことだよ。そいつは強引に押し入り、無関係の第三者を殺した」
紫遠は辺りに飛び散った肉片を踏みつけて廊下を進み、充満する血液と体液の臭いに顔をしかめた。
「まずいな。そいつの正体が何であるにせよ、ミイラを持ち出されたりしたら地獄の火刑人による<処刑>が再び始まってしまう」
七叉と紫遠は互いに顔を見合わせ、頷く。それぞれのシャドウを影に戻し、研究所内の最奥へ向けて走った。
「酷いな、これは。皆殺しか……」
行く先、行く先に爆発した死体が転がっている。内臓を踏んだせいで滑り、危うく転倒しそうになる。
おそらく、研究所に残っていた運の悪い人間たちは全て肉片になっている。見境の無い殺し方から推理するに、ミイラを狙っているそいつは七叉たち同様、かなり焦っているようだ。
「警備システムも破壊されている。静かなものだよ」
深夜の研究所には、七叉と紫遠、2人だけの足音が響く。
ミイラの安置室へは専用のエレベーターに乗らないと辿り着けない構造になっているが、そのエレベーターがミイラのある地下2階で停止したまま動かない。
「仕方ない……飛び降りるか」
七叉は1階エレベーターの扉を無理やりこじ開けると、何も無い空間へ迷い無く飛び降りた。エレベーターの屋根に難無く着地すると、次は渾身の蹴りで屋根に穴を空けた。
「凄い。シャドウ・コンダクターの身体能力は、何時どんな場合でもちゃんと対応可能なように出来てるんだね」
七叉の後を追って地下2階へ降りてきた紫遠が感心したように言うが、紫遠自身も同様の身体能力を有している為、この発言は単なるからかいである。
「おい、紫遠……」
七叉が指差すところ。エレベーターの動力源になっている部分が破壊されていた。電流がビリビリと走り、普通の人間が誤って触れれば感電死するだろう。
「意図的に、だね。そいつは、自分が追撃されることを予想している」
「……。急ごう」
地図によると安置室はこの廊下を進み、突き当たりの扉を開いた場所にある。しかし扉はすでに開け放たれ、ミイラは――。
「とても……長い、眠りだった」
女性の声が聞こえた。誰かと会話をしている。
「そう、私は封印されていたのね。あれから、どれくらいの時が流れているのかしら」
「500年」
女性の声に応える声がある。少年のようだ。
「500……。でも、どうして貴方は……」
ミイラを安置していた台の上に、金髪の女性が腰掛けている。白い肌に碧眼。一目で欧米人だとわかる。あれが件のミイラのようだ。しかも、すでに目覚めている。
「誰?」
女性の青い瞳がギロリとこちらを睨む。その瞬間、安置室からはビリビリと電流がほとばしり、こちらへ向けて牙を剥いた。
「七叉、危ない」
紫遠は七叉を押しのけて右手を掲げ、地下室に吹雪を発生させる。吹雪はやがて氷の壁を形成し、電流を弾き返した。行き場を失った電流は壁や設置物に衝突し、破壊する。
「…………」
紫遠はそれらを見て、研究所の人々がどうやって殺されたかを悟った。
「これは、氷……?! 組織のやつら、ユェナを再封印するのではなく、殺しにきやがったってことかよ!」
金髪の女性を護るように前に立ちはだかるのは、色素の薄い髪色をした少年。少年は両腕に電流を巻き付けていた。
「そうだ。俺は我がシャドウ・システムの命令によりユェナ・デアブルクを始末しにやってきた、審判を司りしシャドウ・コンダクター、相模七叉だ。ところで、お前は?」
「テメェらみたいな支配者に名乗る名なんか無ぇ。そこ退けよ。ユェナは今度こそ俺が護るんだ!」
「はい、そうですか――とは言えないな。地獄の火刑人をそう易々と解き放つことは出来ないんだよ」
七叉は白輝を召喚し、無数の破魔矢を討つ。女性ごと少年を殺すつもりだ。しかし。
「組織の犬だ! ユェナ様とスルト様を守れ!」
左右の廊下の壁が破壊される。他のフロアにて待機していたと思われる<騎士>たちがなだれ込み、各々が持つ武器で七叉と紫遠に斬りかかってきた。
「なっ……?!」
白輝は攻撃を止め、主人を護る為に羽根を折り畳む。
“伏兵か。数は……おそよ50。紫遠様、こんな狭い場所では満足に戦えないどころか、逃げ場を失う可能性があるぞ”
「…………」
あの女性は地獄の火刑人と呼ばれ恐れられたユェナ・デアブルクであることは確実だ。しかし、電流を操るあの少年は? 騎士たちは? 七叉からの説明にはなかった出来事が、予想以上に厄介だ。
「七叉、一度外へ出た方がいい」
「……っ。ああ」
しかし唯一上のフロアへと繋がるエレベーターは壁が破壊された衝撃により、空間が瓦礫で埋めつくされている。紫遠は背後に迫る騎士の頭を捕まえて兜ごと壁に叩きつけ、頭を壁にめり込ましたまま動かない騎士の身体を足場にして天井にある通気口を覗き込む。
「紫遠?」
七叉は騎士たちを退けながら親友を見上げる。紫遠は何か方法でも思いついたようで、この通気口を爆破してみないかと七叉に提案した。七叉は半信半疑ながら通気口へ向けて光を送り込み、パチンと指を鳴らして爆発を引き起こす。弾みで光は通気口を伝い、高速で研究所内全体を駆け抜け、大きな穴を至る所に空けていた。
「……鳴我豆研究所の損害が酷いことになるな」
2人は穴を潜り抜けて外を目指して走る。当初、これほどの被害を予測していなかった七叉にとって頭の痛くなる事態だ。
「そこは組織に責任をもって元通りにしてもらわなくちゃね。最初から何も起きていないかのように、完璧に」
「クソ……始末書を大量に書かないといけない……」
しかし事態はそれだけでは終わらなかった。研究所の外に這い出ると同時に、地面が揺れる。大地震であり、立っていられないほどだ。やがて庭に亀裂が走り、地割れを起こす。地響きと共に裂けてゆく地面から現れたのは、大きな人間の頭。
七叉は目を見開き、何が起きたのか必死に頭を整理しようとするが、情報量が多すぎて追いつかない。
大きな頭はやがて顔を出し、身体を出す。穴から這い出るように立ち上がったそれは、真っ赤な目に立派な髭をたくわえた屈強な巨人。手に槌ミョルニルを構えたそれは、雷神トールである。
“頭が雲に届きそうですね”
突如として現れた雷神を見上げ、白輝はもはや感心の域に達していた。
「雷神……ということは、まさか」
雷神の手の平の上に立っているのは、ユェナと少年。こちらを見下ろし、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「あいつ、雷を司るシャドウ・コンダクターだったんだね」
つまり雷神トールは少年のシャドウということになる。電流を操れたのも、その為だろう。
雷神トールが足踏みをする度に地面が揺れ、それが合図であるかのように、騎士たちが地上に這い出てくる。
「地獄の火刑人側に、シャドウ・コンダクターがいるなんてな。それとあの騎士たちはどう見ても影人だが、ユェナとどういう繋がりがあるんだ?」
胸ポケットに入っている通信機が震える。七叉は機械的に通信機を取り出し、通話ボタンを押した。
「はい。相……」
『相模! 封印解放予定時刻から5分も時間が経過しているわよ! 報告をしなさい。闇炎の使い手は始末したの?!』
聞こえてくるのは女性の金切り声のような怒声だ。七叉は思わず通信機を耳から離した。わざわざ想像しなくとも、怒りで震えた男性の顔が目に浮かぶ。そんな状態で今起きている事象を報告したら、どうなるか――七叉は長い溜め息を吐いた。
「任務は失敗です」
『……。……は?』
「……雷の使い手が出現しました。地獄の火刑人を始末しようと潜入したところ、雷の使い手と多くの手下共に阻まれまして……」
『か、雷ですってぇぇええ?!』
「使い手は少年であること以外は不明。シャドウは雷神トール。何故、ユェナ・デアブルクに味方しているのかはわかりませんが……」
雲を切り裂き、雷が天より飛来する。鼓膜が破れるほどのこの轟音は、通信機の向こうにも届いたはずだ。
「おいテメェ、まさかシャドウ・システムに応援を呼ぶつもりじゃねぇだろうなぁ。そっち側に2人もシャドウ・コンダクターがいながら、俺1人には適わないと踏んだのか?」
雷は嘲笑うように七叉を避けて地面へ落ちる。威嚇のつもりか、挑発のつもりか――そのどちらでもある。
“あの餓鬼、大きいのはシャドウの図体だけではなく、態度もか。おい紫遠様、我に命じよ。ヤツに目に物を言わてくれる”
紫遠の足元では、黒い影が今にも暴れ出さんと激しく揺れている。紫遠は影へと視線を落とし、静かに言い放つ。
「手加減してあげるんだよ、氷閹」
名を呼ぶと同時に吹き荒れる吹雪。周囲の気温が氷点下にまで降下し、様々なものを凍てつかせる。紫遠の足元より高速回転をしながら堂々たる出現をするは、冥界からの使者だ。
“フン。手元が狂っても悪く思うでないぞ”
氷閹は三日月型の鎌を抱え、雷の使い手を威嚇した。
“手加減? 我々も舐められたものだ。どうする、ル哥”
雷神トールは主人の名を呼び、指示を仰ぐ。
「愚問だぜ、ジオ。氷は、野放しにしておけばユェナの脅威になりかねない。かつて水がそうであったようにな……」
“では、始末で異論は無いな”
ル哥と呼ばれた雷の使い手は頷く代わりに右手を振り下ろす。雷神トールは主人の意思を確認すると、次は容赦なく雷を落とした。雷は観測小屋に落ちたかと思うと、地中を滑るように走り抜け、紫遠と七叉の足を狙う。
「…………」
木の枝に掴まって雷をかわした紫遠は、地中を縦横無尽に駆け巡る雷の動きを見定め、次にル哥の隣りに静かに寄り添う女性の様子を観察する。
(妙だな……あの女)
遠くで悲鳴が聞こえる。おそらく研究所の職員であろうが、地面に顔を擦りつけながら必死にもがいている。何かが不自然だ。よく見ると、男性は両足を失っていた。地中を走る電流が両足を破壊したせいである。あのまま倒れていては、やがて全身が両足のように散り散りに吹き飛ぶことだろう。
紫遠は男性を助けることを初めから諦めている。理由は、助けても無駄であるからだ。
(助けても彼は、両足を失った絶望により影人化する)
影人化したら、始末せねばならない。紫遠はその手間を省いていた。
“小癪な雷よ! 何故こうも自由に動き回ることが可能なのだ……”
まるで生き物のような雷の動きに、氷閹は苛立ちを隠せない。
「死んだな」
男性が細かい肉片に成り下がった頃に、白輝の肩に掴まって上空へ避難していた七叉がこちらへ来る。
『氷の使い手は近くにいるかしら?』
ひとしきり怒声を聞いた七叉は、申し訳なさそうな表情で紫遠に通信機を手渡す。
「……はい」
『貴男はこの戦況、どう思う?』
通信機からは、女性のような喋り方をする男性の声が聞こえる。
「芳しくないですね。今、シャドウに戦わせながら観察していますが――……この鳴我豆研究所の敷地内は、研究の為か全国から様々な金属資源を集め、あらゆるところに埋め込んでいます。その金属が電流の伝わりを促進し、結果として雷の手助けをしてしまっている」
『ならば、貴男はこの任務を失敗だと判断するわけね?』
「ええ。予定外の事象が多すぎます。もっと下調べを備えた上で着手すべき任務であったかと」
『――わかったわ。相模も同じことを言っていた。今回のことは完全なる私のミスね。退却よ。闇炎の使い手について、これまた予期せぬ情報が入ってしまったから……後で伝える』
通信機からは深い溜め息が伝わる。通信の相手が額を手で覆っている様が浮かんだ。
「1つ、聞いてよろしいでしょうか」
『なに?』
「雷を司る少年……あれは、何者だと思われますか。名前が2つあるようなのですが」
『……組織のデータベースに記録してある情報では、雷の使い手が最後に現れたのは500年前。名をスルト・デアブルク。ユェナ・デアブルクの双子の弟よ』
「……!」
双子。弟。その2つの単語に紫遠は激しい目眩と吐き気を覚える。危うく掴んでいた枝を手放すところであった。
――確かめないといけないことがある。雷と吹雪の合間から覗くル哥の顔であるが、ユェナとは似ても似つかない。
「いや、まさか、そんな……」
『記録によればスルトは死亡しているわ。当然よね、500年前の人間ですもの。現在の雷の継承者が一体何者なのか……そこから調べ直さなくちゃ』
地下室にて、騎士たちはこう叫んでいた。――「ユェナ様とスルト様を守れ」
そしてシャドウの雷神トールは、主人のことを「ル哥」と呼んでいた。
(どういうことだ……?)
「大丈夫か? 紫遠」
親友がこれほどまでに顔色を悪くしているのは珍しい。どちらかといえば表情に乏しく、見せる笑顔といえば嘲笑くらい。しかし今の表情は、七叉自身ですらあまり見せることのない――困惑と悲しみの混ざったもの。
七叉は氷閹に対して紫遠の代わりに退却の意を伝える。氷閹は不服そうではあるが、紫遠が七叉に同意している様を見て素直に鎌を下げた。
“退却など、我の信念に反するわ”
未だ鳴我豆研究所の敷地内を我が物顔で支配する雷。氷閹は姿を死神から破壊王アバドンへ変化させると紫遠を背に乗せ、陽が昇りかけている明け方の空へと舞い上がった。
「……すまないね、氷閹」
ぼそり、と呟かれた言葉。氷閹はフンと鼻を鳴らし、雷が渦巻く鳴我豆研究所を忌々しげに見下ろした。
月夜見市にある梨椎家に帰宅したのは朝方である。季節は夏の終わり。空が明るみ、少し低めの気温がなんとも気持ちの良い時間帯だ。
(…………)
異様な眠気が少年を襲う。得てして気分の良いものではなく、ただ奇妙な胸騒ぎが心の中に手を突っ込み、無遠慮にかき回している感覚。赤髪の少年は重い足を引きずるように廊下を進み、2階へ続く階段のあるメインホールに入る。
「…………!」
息を飲み込んだのはその瞬間である。
自分と同じく階段を上ろうとしていた少女――。髪は暗闇でも分かるほど赤く、肌色は白く浮かぶ。片手に掴むスーツケースが、少女が遠出帰りであることを示す。
少年の姿に少女も気付いたようだ。こちらに振り返った少女の顔は、少年と瓜二つであった。
少年はこみ上げてくる衝動を必死に堪え、平静を装う。
「――お帰り、姉さん」
「……ああ……」
少女はぶっきらぼうに返事をする。
「予定より遅い帰宅だね」
「……うん。紫遠、お前は夜遊びか? こんな時間に帰宅なんて」
「まさか。僕は姉さんとは違う。のっぴきならない事情があったのさ」
「ああ、そう」
少女はたいして興味なさそうに言うと階段に振り返り、重そうなスーツケースを力いっぱいに持ち上げる。
「土産話は要らないからね。どうせ姉さんのことだ。くだらないことしか、してきてないだろう」
少年は少女の横を軽やかにすり抜け、自室に入る。
「……はあ」
少年は頭を抱えたまま、ベッドに沈み込むように横たわった。