1節 月明かり眩しい冷たい部屋
目が覚めるとそこは、とても陰鬱な場所であった。
暗く、広い石造りの部屋。そこには、一定の範囲を鉄格子で区切った部屋が計4つあるようだ。
――ここが牢獄であることはすぐに理解が出来た。歴史の教科書などで見たことのある、牢屋そのものだ。唯一の光は月明かりが差し込む小窓だけ。そこにも鉄格子があり、囚人の脱走を防いでいる。
(私……捕らえられたんだっけ)
しかし手足は縛られていない。石造りの床に張り付いていた頬が冷たく、でも身体を起こすことが億劫で、世槞はそのままの体勢でしばらくを過ごした。
ここは、おそらくシャドウ・システムの総本部だろう。今時こんな古臭い地下牢を活用してるなんて、と思うが、ただ単に牢屋に相応しいデザインとして採用しているだけに過ぎなく、見た目が古臭いといっても簡単に破れるわけではない。
(それに、破ったところで総本部内にうじゃうじゃと存在するコンダクターたちに捕まるのがオチだわ)
脱走なんて、最初から不可能なのである。――ああ、考えることすら億劫だ、と世槞は再び目を閉じた。
次に目が覚めたのは、やはり月夜だった。同日なのか、それとも日が経過しているのかはわからない。
(そういえば、夢……見なかったな。それだけでも救いか)
クイーン誕生の夢。毎晩見ていたものだが、気を失った日からは不思議と一度も見ていない。夢を見ることすら不可能なほど、脳が損傷していたのかもしれない。皮肉なことに、世槞は久方ぶりにゆっくりと休めたことになる。
(戸無瀬は今頃……どうなってるだろう。組織が上手く<後始末>してくれたかな……)
世界の異変に気付き、修正へと尽力することが組織の役割だ。戸無瀬の寄生型たちは、全て始末されたものと思いたい。
今日は起き上がってみることにした。……怪我は完治したらしい。自分でも信じたくないほどの致命傷を負ってはいたが、シャドウ・コンダクターの身体能力は優れている。自然治癒力を常人の何十倍も備えているゆえ、切り傷程度なら数分で消えるのだ。
“世槞様”
名を呼ばれ、しばらく視線を彷徨わせた後、世槞は力無く笑う。
「ああ、ごめん。暗いから、影があることに気付かなかった」
“貴女は、3日間、眠っていました”
「3日間? たったそれだけ?」
世槞はキョトンとし、「ふうん」と興味なさげに呟く。
立ち上がり、鉄格子に近付いてみる。看守はいないようだ。他に囚人もいない。暗い牢獄にたった1人。
向こうに、上へと続く階段が伸びている。しっかりと閉じられた扉は遠く、目を凝らさないと見えない。
「私……どうなっちゃうんだろう」
闇炎を司るシャドウ・コンダクターとして、悲劇を止めるべくクイーンを追っていた。そうしたら、いきなり雷の使い手に襲撃され、闇炎の簒奪者と罵られた。先代の闇炎の使い手まで出現し、覚えの無い憎しみをぶつけられる。
頼みのシャドウ・システムも世槞を利用価値のある道具としてしか見做しておらず、こうして逃げないよう閉じ込めている。
「私って……なんなんだろ。梨椎世槞。闇炎を司るシャドウ・コンダクター……だと、思っていたのに」
闇炎を奪った?
本来の器ではない?
ではワタシとは何だ。この世界がシャドウ・コンダクターによって操作された虚構の産物であるならば、世槞自身も、虚構の中の存在なのかもしれない。
“違います”
足元にある黒い影は、同じ台詞を繰り返す。
“世槞様は私の主人。闇炎を継承すべき御方”
「でも私はお前の名前がわからないよ。その時になれば自然と思い出すのかと、そういうものなのかと考えていたけど――さっぱり、だな。死の危機に瀕しても思い出せなかった。思い出せない理由は、私が偽物だから……とすると辻褄合う」
らしくなく自虐的になる。
(クイーンを始末して世界を守る! ……なんて豪語してたけど、偽物に出来るわけがなかった)
3日も経過しているならば、クイーンは次なる母体に寄生してしまっているはず。被害を食い止めたいと奔走していたけれど、そもそもこれは偽物である自分が成すべきことではなかったのだ。
無償にやりきれなくなる。口を開き、何か文句や皮肉でも言いたいのに、出るのは溜め息混じりの空気だけだ。
(これから私は、あのオカマ野郎が言っていたように革命軍の囮にされるんだろうな)
その時に死ぬか、シャドウを奪い返されるか。どちらにせよ、待っているのは暗い未来だけだ。
(どうして私、シャドウ・コンダクターなんだか……)
第三者でよかったのに。何も知らず、偽りの平和の中で生きれるのならば、自分が虚構の存在でも良かった。
鉄格子から離れ、月明かりの差し込む小窓を見上げた。そのときである。階段の上にある扉の向こうが騒がしくなったのは。
(言い争う声……でも、ここからじゃ内容までは聞き取れないな)
しばらく騒がしい声が続いたあと、乱暴に開け放たれる扉。入ってくるのは3人の男だ。だが、そのうち1人は2人の男に両手を拘束され、世槞が閉じ込められているすぐ隣りの牢にその男は入れられていた。僅かな月明かりしかない牢獄は暗く、状況が掴みにくい。しかし、今し方牢獄に入れられた男の髪が赤いことだけは、暗闇でも知覚できた。
赤い髪の男を閉じ込めた2人の男は、文句をブツブツと言いながら立ち去り、最後に聞き逃せない捨て台詞を吐いた後、バタン、ときつめに扉を閉めた。
世槞は隣りの牢とを隔てる鉄格子に走り寄り、「どうして」と呟く。泣きそうな声色だった。赤い髪の男は、こう呟き返す。その声色は泣きそうな世槞とは違い、ひどく落ち着いていて、むしろヤレヤレと今にでも肩をすくめそうなものだ。
「どう足掻いても姉さんに会わせてもらえなくてさ。こうするしかなかった」
看守へ攻撃をすると見せかけ、顔を吹き飛ばす寸前で止めること。しかし十分に危険と見做され、看守は赤い髪の男の思惑通り、牢獄への道を開いたのだ。
「お前……馬鹿だろ、絶対」
鉄格子を握る手が震える。心なしか、声も震えていた。
「普段のお前なら、こんな馬鹿なことはしない……」
「そうだね」
赤い髪の男は世槞に近付く。月明かりで照らされた顔は、世槞と瓜二つであった。
「でも、姉さんのことになると僕は、馬鹿なことでも迷わずしてしまうよ」
「……紫遠っ……」
紫遠と呼ばれたもう1人の世槞は、鉄格子越しに世槞の身体を抱き寄せる。
「姉さん。僕らは双子なんだよ。双子は、離れ離れになんか、なっちゃいけないんだ……」
冷たく、震えていた身体が紫遠の体熱を伝い、じんわりと温かくなる。司っている属性とは真逆の体温は、触れているととても落ち着く。生まれる前から一緒だった自分たちの在るべき姿は、まさにこれなのかもしれない。
「怪我は? 頭が特に酷かったでしょ」
「……治った。そういう紫遠は?」
「完治。ほらね」
袖を捲り上げて見せる紫遠の腕は、食い千切られた痕が消え、白くふっくらとした肉が再生されていた。
「良かった……」
「シャドウの名前は?」
「思い出せない」
そう、と紫遠が残念がる様子が身体から伝わる。
「姉さんがシャドウを召喚出来るなら、2人で脱走しようかとも考えていたんだけど」
「無理だ。わかってるだろ」
「どうかな。僕たち一緒になら、なんでも出来そうな気がするんだけどな。昔からそうだったじゃない」
遊ぶ時も、寝る時も、迷子になった時も、悪巧みをする時も、いつも2人一緒に笑いあっては泣いたりして。いつの頃からかあまり一緒にはいなくなったけれども、本質は昔から変わらないらしい。
「逃げれるものなら、逃げたいけどさ……」
虚構かもしれない自分。自分を狙う革命軍。そんな自分を利用しようとしている、巨大組織。
全てを投げ捨てて弟と一緒に逃げられたら、と思う。でも、それを制止する自分がどこにいる。
「……苦しい」
紫遠の世槞を抱き締める両腕に力がこもる。胸を押して苦しさから解放されようにも、ピクリとも動かせない。
「ごめん。まだ放したくないよ。3日間も離れ離れだったから」
「たった3日よ。なら、私が旅行へ行っていた1ヶ月間はどうしてたんだ」
「気が狂うかと思った。本当は旅行へ行くこと自体を中止してもらいたかったくらい。帰ってきてくれたあの日、抱き締めたい衝動を必死に堪えていたよ」
「……やっぱり、馬鹿だ」
世槞は苦笑し、仕方ないわね――と自らも両腕を紫遠の背に回した。
「委員会は、作戦決行の日取りを明日に予定している」
鉄格子越しに互いの背を合わせ、石畳の床に座りながら紫遠が姉に伝える。
「私を囮に革命軍を誘き出し、始末する、ね。でも正直なところ、革命軍の敗北は目に見えている。やつらは、罠とわかっていても、この誘いに乗るのかな……」
「いや、これは罠ですらない。闇炎を手中におさめた今、組織の勝利はもはや決定事項だ。それでも革命軍は――いや、ユェナ・デアブルクと朱槻ル哥は、組織に挑まねばならない。闇炎を奪い返すという、小さな希望を抱いて」
「あの2人の関係は一体……」
紫遠は世槞の手を強く握る。
「双子の姉弟、らしい」
「……うそ。でも、全然似てないどころか」
年齢も人種も違う。
「革命軍の話を聞く限り、朱槻ル哥はスルト・デアブルクの生まれ変わりだ。つまり、前世ではユェナ・デアブルクと双子だったことになる」
「じゃあ……死んでも、時を越えて姉を助けに来たって……わけ?」
重なる。ユェナとル哥の想いが、今の自分たちに。
「死後のことについては、僕たちにはわからない。でも、滅びることなく存在し続けるシャドウになら……わかるだろう」
紫遠は世槞の足元を――影を見た。闇炎のシャドウは、かつて地獄の火刑人として名を馳せたユェナ・デアブルクに仕えていた。今は世槞の下僕になっているが、先代の主人が存命であるに関わらず次なる主人に仕えるという、前代未聞の事象を生み出した張本人である。この事象に誰もが翻弄され、困惑している。現在の主人も例外なく。
“…………”
闇炎のシャドウは、相変わらず黙したままだ。紫遠は「ふう」と諦めたように溜め息を吐く。
「姉さんのシャドウは、だんまりが好きみたい。――話題を変えようか」
「? うん」
「姉さんはいつ、覚醒したんだい」
シャドウ・コンダクターとして覚醒した日のことを紫遠は問う。
「3週間……くらい前かな」
「つい最近じゃないか」
「うん……」
「それに3週間前というと、姉さんはまだ旅行中だよね」
「……うん」
世槞は、紫遠の手を握る手に知らず知らずのうちに力を込めていた。紫遠はそれを見下ろし、静かに問い掛ける。
「もう、いいんじゃない? 希翁村で何があったかを……話してくれても」
あれは思い出すことも口に出すこともおぞましい出来事だ。今でも、話そうとすると心拍数があがって呼吸が苦しくなる。だが1人で抱え込むには、あまりにも辛く、悲しい。
「僕は第三者じゃない。知られても大丈夫でしょ?」
希翁村で、世界の真実に関わる出来事があったことを紫遠は察知していた。
「それに、あのニヤついて得体の知れない可ノ瀬とかいう男だけが知ってるなんて……癪だなぁ」
世槞はゆっくりと呼吸をし、「大したことじゃないんだけど」と前置きをする。
「私がどうして希翁村へ行ったか、知ってるわよね?」
「中学時代に僕らのクラスの担任だった沓名先生の出産祝いじゃないの」
「ああ。でも、沓名先生は死んだよ」
紫遠が息を飲み込む感覚が背中越しに伝わる。世槞は再び深呼吸をし、希翁村で起きたクイーン誕生に至る全てを息継ぎもせず、まくし立てるように喋り続けた。
「……あの日から私はクイーンを、沓名珠里を探していた。そして見つけたよ。戸無瀬高等学校の葉山陽子先生に寄生した後に」
「…………」
「私は鈍臭い。気付いた時にはもう遅い。なんでだろうな……助けたいのに、いつも、助けられなくて」
「…………」
「シャドウの名前が思い出せないから? 覚醒が中途半端だから? 私は、シャドウ・コンダクターだ。でも、無力だ……」
助けたい人を助けられないのでは無力同然。なまじ力があるせいで、自責の念は深まるばかり。
「ごめん。聞くべきじゃ……なかったね」
世槞は首を振る。
「吐き出せて、かなり楽になった。1人で抱えている頃は、心が破裂するくらいに苦しかったから」
「そうか……姉さんが夜中に急に悲鳴をあげたり等、たまに奇行に走る理由がわかったよ。あ、奇行癖は元からか」
「ちょっと。私を精神異常者みたいに言うな」
世槞が紫遠の頭を小突くと、2人からは笑いが漏れる。
「姉さんが覚醒した理由は、それだったんだね。しかし、寄生型とはね……」
「知ってるの?」
「知ってるもなにも、その名付け親は僕だ」
「……どういうこと?」
「月詩市にて発生した影人、鮎河聡美を始末したのは僕だ。七叉曰わく未発見の新種らしく、ヒトに寄生することによって感染するから、寄生型と名付けた。……本当は、それよりも前に希翁村で発生していたんだね」
「そうだったのか……変な巡り合わせ」
だが、クイーンはもう追えない。自分自身すら、これからどうなるかわからないというのに。
世槞は両膝の間に顔をうずめ、声を出すことなく沓名悠子に謝り続けた。
それから再び時が経過する。閉鎖された地下牢では時間の感覚が無く、今が朝なのか夜なのかわからない。小窓から見える「夜空」と「月」は、あくまでそう「設定」されてるに過ぎないのだ。
握り合う2つの手、片方の体温が時間を追うごとに低くなっていることに世槞は気付く。
「紫遠、まさか寒い?」
世槞の弟は氷を司る。だから寒さには誰よりも耐性があるはずなのだが。
「……本部は空調システムが整っているはずだけど、この地下牢だけは気温までもが忠実に再現されてるみたいだ。変なところを凝るよね、組織って」
紫遠は身体が冷たいだけではなく、気分が悪そうに鉄格子に寄りかかる。明らかな異変を世槞は感じ取っていた。
「どうした?!」
「別に……なんでもないさ」
世槞は鉄格子に顔を擦り寄せ、どこか目に見えてわかる異常は無いかを探す。それはすぐに見つけられた。設定された月明かりにより、浮かび上がる紫遠の身体。その石畳の床には――
「無い。影が……無い!」
紫遠は「気付いたの」と苦笑する。
「ヴェル・ド・シャトーに辿り着くなり新良殺芽に氷閹を剥がされちゃってね。梨椎世槞にこれ以上手荒な真似をされたくなかったら、シャドウを引き渡せ、とさ。あいつは僕がなんとしてでも姉さんに会うことをあらかじめ予測し、脱走を防ぐ為に剥がておいたんだ。ったく、小賢しいほどに頭がキレるやつだよ」
「そんな……そんな条件、飲んだのかよ……」
「飲むよ。君の為なら、僕は何でも」
「…………」
だから紫遠は、自分の力では脱走は不可能と踏み、世槞にシャドウの名を思い出しているか否かを問うていたのだ。
「闇炎が組織の手中にある今、氷は不要になった。戦う相手は、炎ではないから――……氷のシャドウ・コンダクターが使いものにならなくても、不便はしないらしい」
身体の冷たさは、もはや死人の域だ。顔色も悪い。もともと血色の良い方ではないが、それでも今は身体が透き通って見えるほど青白い。
シャドウを剥がされたシャドウ・コンダクターは弱り、じきに死に至ることを聞いたことがある。だから朱槻ル哥はあんなにも必死になっていた。世槞を殺し、シャドウを自分の姉の元へ戻す為に。
「仮に脱走出来たとして、そんな状態で……お前はどうするつもりだったんだ……」
「さぁ。考えてないな。とにかく姉さんを取り戻したい、その一心だったから」
自分で言って、紫遠は苦笑する。「今の僕は、まるで朱槻ル哥と同じだ」と。
「ああ……彼の気持ち、やっぱりわかってしまうよ」
皮肉だが、同じ立場に陥ることにより、世槞にもユェナとル哥の気持ちが理解出来てしまった。そして、絶対に譲れない、とも思う。
「紫遠……ごめん……私のせいで」
紫遠はこちらを振り向かない。いや、振り向けないのかもしれない。今度は、世槞は紫遠を抱き締める番だった。受け取った体温を返そうとするがそれだけでは足りない。右手を宙に翳し、念じる。ぼうっと燃え上がるのは、紫色の炎――闇炎だ。地下牢が炎に照らされ、少しだけ明るく、暖かくなる。
「覚醒したての時、影が言ってたんだ。闇炎は、暗闇で迷った者の道標になることが役目だって。朧も闇炎の光に導かれて私に出会ったらしい。そして私も今、行くべき道を感じ取ったよ」
世槞は決意を表明する。
「絶対に逃げないから。組織の操り人形になってもいい。革命軍の囮にでもなんでもなる! それで紫遠にシャドウを戻してくれるなら、私はっ」
姉の覚悟を感じ取り、紫遠は目を伏せる。
「……そう思うこと自体が組織の思惑通りなんだよ」
「どんな思惑だろうが関係ない。私は、自分に決着を着けるよ」
たとえ紛い物のレッテルを貼られようが、闇炎を返すつもりはない。せっかく得たこの力で、大切なものを護らなくては。
「だから、紫遠はゆっくり休んでて。後は私がやる」
革命軍を全滅させ、氷閹を取り戻し、再びクイーンを追う。
(失うのは……もうご免だ)
世槞は迷いなき覚悟と計画を紫色の炎に刻み込んだ。