3節 凍てつく世界
「……君」
透き通るような、中性的で綺麗な声。しかし聞き慣れたその声は、普段よりもワントーン低くなっていた。
「もう迷う理由は無くなったよ。雷の使い手――覚悟は出来てるんだろうね?!」
赤髪の少年は珍しく声を荒げた。先ほどよりも冷たい風が吹き、やがて吹雪に変わる。
赤髪の少年の両手に握られているのは、二丁の拳銃。しかしただの銃ではない。氷だ。全てが氷で形成されている。
「スルト様!」
物陰に潜み、少年からの指示を待っていた騎士たちは、急変した事態を焦って自分たちの判断で対応する。つまり、世槞の始末の早急、現れた赤髪の少年への攻撃――を開始した。
赤髪の少年は氷銃を鮮やかに操り、全ての騎士たちを氷の銃弾で撃ち抜く。撃ち抜かれた部分から凍てついた衝撃が身体を侵食してゆき、騎士はやがて氷のオブジェと成り果てる。
「氷閹、手加減は必要無い。殺せ!」
“はんっ、その命令――待ちわびておったぞ”
吹雪の中、姿を現したのは漆黒の影。身の丈3メートル、全身を黒いローブで多い、三日月型の鎌を構えたそれは、冥界からの使者――死神である。
「氷の使い手!!」
少年は叫び、屋上から逃れようとするが死神の青白い手に顔を掴まれ、道路に真っ直ぐに並んだ電信柱へ向けて頭を叩きつけられる。
「がはっ」
少年の身体は幾つもの電信柱を突き倒した後、落ちる。
“まだよ”
死神は道路に突っ伏す少年の足を踏みつけて固定し、両手には巨大な氷柱を掴み、少年の背中へ向けて振り下ろした。
「まずいっ……ジオ!」
少年は口から血を吐き出しながら、必死に名を叫ぶ。少年の影から出現した赤い目の巨人は氷柱を砕き、死神を退け、少年を抱えてオフィスビルの屋上へと逃れる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
本当に殺されるところであった。全身が痛い。あばら骨も何本か折れている。
“ル哥、街が……”
ジオと呼ばれた巨人が月夜見の市街地を見下ろし、言葉を失う。
激しい吹雪。氷が周辺のビル群を覆い、その侵食域を更に広げる。吹雪は雪山よりも激しく、あれだけ交差点を埋め尽くしていた車は雪に埋まり、屋根すら見えない。
雪に埋まった大都市――それは、世の終わりを見せつけられたような、底知れない不安を煽る光景。
「はぁ、はぁ……あの氷野郎、以前とは違う。本気、出してやがる!」
その本気の理由がわからない。組織に協力を要請されていることに気付いてはいたが、今の行動はどうにも組織の要望とは無関係のような気がしてならない。――見境の無い、殺戮。
“力の温存もまるで考えていない。体力が尽きるのも時間の問題か……しかし、あれほど冷静であった氷の使い手が、このような暴挙に出るとは……あの娘がそれほどまでに大切なのか?”
ジオに促されるままル哥は闇炎の簒奪者を見る。そして、気付き、ドクンと一際大きく飛び跳ねる心臓の鼓動を感じた。
「双子……!」
(……し)
世槞は動くようになった唇を震わせ、叫ぶ。
「紫遠!!」
声と共に吐き出された血は雪を赤く染めた。
自分の叫び声が脳内で跳ね返って木霊し、世槞は頭を抑えて真横に倒れる。しかし身体は冷たい雪の中に埋まることなく、暖かな温もりの中に落ちる。
「……し……おん……」
世槞の身体を支えたのは、世槞の双子の弟――梨椎紫遠だ。
紫遠はひどく悲しげな顔で世槞を見下ろし、声を震わせて言う。
「間に合わなかった……。君と一緒に、逃げようとしていたのに」
お前は――と声を出そうとしたとき、紫遠の温かな指が唇に触れ、血を拭う。
「喋らなくていい。大丈夫。僕が護るから」
「ち、違う。……お前はっ……お前は……シャドウ・コンダクターなのか?!」
紫遠はハッと息を飲む。顔色が変わり、何故その単語を知っている――そんな目で姉を見下ろす。
“世槞様、敵の援軍です!”
世槞の足元に広がる黒い影から声が聞こえる事実。紫遠は信じられない、と首を何度も横に振る。
西の空からは、黒々とした大軍がこちらへ向けて進軍している様が窺え、世槞はそれが全て影人であることを理解する。形態は様々だ。先程のようなヒューマン型の騎士もいれば、物語の中にしか登場し得ないような怪物たちもいる。
「姉さん……は、どうして朱槻に狙われてるの……。僕はてっきり、あいつは僕と同じ顔をした姉さんを偶然発見し、襲ったものだと……」
“違います”
答えられない世槞に代わり、状況を全て把握した闇炎のシャドウが答える。
“スルト……いえ、現在の雷の使い手は、闇炎のシャドウである私を世槞様から奪うべく、襲ったのです”
世槞は闇炎のシャドウが話している内容がいまいち理解出来ていない。しかし弟は、戸惑いながらも合点がいったと頭を抱えた。
「闇炎……」
額を抑え、顔色を更に悪くする。
「どうして姉さんが……姉さんが……まさか、そんな」
加えて狼狽し、いつもの憎たらしさや落ち着きが影を潜めている。常時より年上の如く頼りになってきた彼は今はしかし、進むべき道に悩み困窮していた。
「こ、混乱したいのは私の方だ。なんで紫遠がシャドウ・コンダクターなのよ!」
世槞はまだ覚醒したばかりだが、紫遠はだいぶ前から覚醒しているようだ。
「そんな重要なことをどうして今まで黙ってたんだ……!」
(世界の真実を教えてくれていたら、もしかしたら沓名先生を救えたかもしれないのに)
紫遠の顔を覆う右手から、僅かに目が覗く。その目が闇に至り冷たくて、世槞はグッと押し黙る。
「言えるはずないだろ……第三者だと思っている姉さんに。それとも、君が信じて生きてきたこの世界は全て僕たちシャドウ・コンダクターが生み出した虚構の産物だ、とでも言えば良かったのかい?!」
「そ、そんな言い方」
世槞は紫遠の凍てついた瞳に耐えられず、思わず視線を外す。
「……クソ、よりによって闇炎を司るなんて」
紫遠は赤い髪を掴み、今一度、進むべき道に悩む。
闇炎、闇炎。雷の使い手もそのシャドウも、紫遠も世槞のシャドウも同じ単語ばかりを繰り返す。闇炎という属性の、一体何が悪いといいのか。
(私は、闇炎を司ったらダメなの……?)
そう思ざるを得ない。
雪で覆われた白銀の世界に、暗雲が立ち込める。見上げると、影人の軍隊がすぐそこにまで迫っていた。数え切れないほどの数。世槞は、これが全て自分を殺す為に集結したのかと思うと、息をすることすら忘れ、ただ呆然と見上げていることしか出来なかった。
何故、どうして。その答えは、世槞だけが知らない。
「――助けに来たわよ、スルト」
白馬型の影人に跨がるのは、麻布のローブでふんわりと身体を覆った金髪の女性だ。白人だが、本来持つ肌の色よりも白さは増し、むしろ青白ささえ目立つ痛々しい姿をさらけ出している。
「ユ……ユェナ! なんで来たんだよ。休んどかないとっ……」
ユェナと呼ばれた白人女性は、雷の使い手――朱槻ル哥を見下ろし、顔を歪めた。
「貴男をそんな酷い目に遭わせたのは誰? 氷の少年かしら? それとも――」
ギロリと世槞を見下ろす。
「私から闇炎を奪取した者かしら?」
その言葉が合図であった。上空からは騎士を始め、デーモン型、ケンタウロス型など様々な形態の影人が赤い髪を目掛けて飛び降りる。紫遠は、反射的に「ヒッ」と悲鳴をあげる姉を自分の背後へ押しやり、氷銃を氷の刃に変形させると身を翻して怪物たちを斬り捨て始める。氷のシャドウ――死神の氷閹も加わり、死体の数はスピードを上げて増殖する。
“紫遠様はお強いです。しかし、数が多すぎる”
世槞の足元に次々と転がってくる影人の首や肢体。その断面は瞬間冷却されたかのように固まり、血は一滴も出ていない。だが、まだまだ足りない。この軍隊を退けるには、死体の数が足りないのだ。
戦わなくては、と思う。この影人たちが自分を狙ってやってきたのなら尚更だ。弟1人に負担は掛けさせられない。しかし雷を受けた衝撃が未だ抜けず、思うように身体を動かせない。
(口惜しいわ。私は……やっぱり無力なのか……)
世槞は上空を見上げる。傷ついたル哥の手当てを必死に行っている女性――外国人のようだが、世槞に闇炎を奪われた本人らしい。
(私が奪った……? いつ? そんな記憶は……いや、そもそも属性って奪えるものなの……?)
世槞は自分の影を見下ろし、自然と生まれた疑問を口に出す。
「お前は……誰?」
影は動揺でもしているのか、黙したままだ。
「本来の主人は、私ではないの?」
“私は……闇炎のシャドウ。梨椎世槞様の下僕です”
「でも、雷の使い手もあの女の人も」
弟までも。誰1人として認めようとしない自分の存在。迷いが生まれるのは自然のことだった。
「――なかなか計画通りにいかないものね」
馬が蹄を鳴らして立ち止まる音に連れられ、世槞は背後を振り返る。
「私も、闇炎のシャドウの名前が思い出せないわ。どうやら、現在の主人が思い出さない限り、かつての主人ではあっても名前を忘却してしまうものなのね」
金色の長い髪を吹雪に靡かせた欧米人の女性が1人の騎士を従え、白馬型のシャドウに跨がって降り立つ。
「貴女が思い出す前に私が名を呼べば、私の元へ戻るかしらとも考えていたけど、考えが短絡的すぎたみたい。シャドウ・コンダクターの仕組みは複雑且つ上手く構成されてるわ」
「…………」
「どうして名前を思い出せないことを知ってる? ――という顔ね。ふふ、この状況においてシャドウを召喚しないこと自体が不自然極まりないこと、まだ貴女にはわからないかしら?」
女性は世槞の足元に佇む黒い影を見下ろす。
「そこにいるわね? 貴方がその娘に宿っていること、これは一体誰の仕業なの? 500年前のあの戦争は、全て組織に仕組まれたことだったの?」
“…………”
「本物の闇炎を司りしシャドウ・コンダクターは、ここにいるユェナ・デアブルクよ。そんなシャドウの名もわからないような未完成品に付き従う必要なんて無いの。今、私がその呪いから解き放って……」
女性――ユェナが羽織っているローブから短剣を取り出した時だ。世槞の影は少し、肥大化した。
“我が主人をそこまで侮辱するのであれば、教えて差し上げましょうか。ユェナ殿、革命軍の者共よ!”
闇炎のシャドウはここにいる全員に聞こえるよう、声を張り上げて威嚇する。心なしか、怒りで震えているようだ。
世槞は突然のことに驚き、片足を少しだけ浮かしていた。
「どうしたの、闇炎。紛い物に情が移ってしまったの?」
“紛い物ではない! 我が闇炎のシャドウの本来の器は、梨椎世槞様の魂。私は、世槞様に出会う為に存在してきた。それまでの器は、本来の主人に出会うまでの通過点にすぎない!”
轟音のように重く響き渡る闇炎のシャドウの声。誰もが呆気に取られ、しかし信じようとしない。
ユェナは短剣を握る手を止め、眉間に皺を寄せる。
「な、なにを言ってるのか……わからないわ」
腹を両手で押さえる。
「だって貴方はっ……私のことが可哀想だって……全ての力を解放して協力しますって……いつまでも味方だって……言ってくれたじゃない」
女性は余裕たっぷりに嘲笑っていたが、次第に気分が悪そうな呼吸を繰り返し始める。
「ユェナ様、それ以上はお身体に障ります。あとはこの私――革命軍騎士団長サミュフにお任せください。必ずや、闇炎を取り戻してみせます」
全身が鎧で覆われ、姿が見えない黒騎士がユェナを白馬型に乗せた後、ずいっと前へ出る。
「闇炎の簒奪者。貴女に聞いて頂きたいことがあります――」
黒騎士は重厚な鉄の鎧を身に纏ったヒューマン型の影人だ。重い大剣を振り上げ、赤髪の少女を狙う。
「!」
世槞は咄嗟にフィアンマを掴もうとするが、手は虚しく空を切る。
(あっ、そうだ。フィアンマは雷に飛ばされて……)
どうしよう、と冷や汗が頬を伝った時、影の落ち着いた声が耳に届く。
“望むのです。紅蓮剣に、己が元へ戻るよう――”
「私の……手に」
振り下ろされる大剣。世槞は一か八か叫ぶ。
「この手に戻れ、紅蓮剣フィアンマ!」
主人の呼び声により雪山からぼこりと姿を現した漆黒の剣は、主人の手を目指して一直線に突き進む。その道にどんな障害物があろうとも、僅かに揺れることなく、真っ直ぐと。
柄を握る。ぬるり、と生温い液体の感触があったが気にしていられない。世槞は重い衝撃を危機一髪、フィアンマで受け取る。しかしあまりの重さに両足が反動でコンクリートに埋まる。
「……ぐっ」
世槞の身体はサミュフの大剣に押され、柵を突き破って隣りのビルの壁へと衝突する。屋上のコンクリート面には、砂の上を引きずられたような足跡が残り、衝撃の凄まじさを物語る。
洗練された剣裁き、幾千もの戦を乗り越えてきた屈強な肉体。サミュフに対し、世槞は明らかな警戒心を抱く。
(シャドウの名前さえわかったら、こんなヤツ……!)
サミュフとの戦いは、一瞬ですら気を抜けない。一撃一撃が、重い。額から溢れ出る汗は、暑いからだろうか、それとも冷や汗だろうか。
(……血で目が霞む……)
血と汗が混ざり、視界を流れる。手でそれを拭う余裕すらない。
サミュフは手加減をしつつも、己の攻撃を確実に跳ね返す世槞に敬意を払い、あくまで丁寧な口調で呼び掛ける。
「今から遥か500年前の時代。国の悪政を嘆き、改変を望んだ女性がおりました。最初こそ地獄の火刑人と呼ばれ恐れられてはおりましたが、圧倒的な力を持つ彼女の元には国のやり方に不満を抱く人々が集い始めました。その数は膨れ上がり、集団から軍隊へ。地獄の火刑人はやがて炎の救世主と讃えられるようになり、国民の指示の元、革命軍はフレイリア王国を打ち倒す――そのはずでした」
「は……? なによ、急に」
世槞は、また誰かが意味のわからないことを言い出した、とげんなりする。
「確かにユェナ様は我々の救世主ではありました。しかしシャドウ・システムからすると、ユェナ様はただの不安因子でしかなかった。地獄の火刑人という悪評は、世界中に伝わっていたのです」
「地獄の火刑人……」
本当に何を言っているのかわからない。世槞は自分の影を見下ろす。影は反応を示さない。
「シャドウ・システムに危険視されたユェナ様は、魂ごと身体を封印されました。あともう少しでフレイリア王国を打ち倒せる――その直前に。謎の集団にリーダーを殺されたと勘違いした革命軍の統率は崩れ、王国軍の有利に。リーダーの側近が後追い自殺したことも手伝って、革命軍は敗北しました。革命戦争が始まって、僅か半月後の出来事でしたよ」
サミュフは世槞の影を睨む。まるで、<その後の出来事>を知らしめるように。
「王国に反逆した者は全て処刑され、革命軍はほとんどの命が断頭台に消えました。なんとか他国へ逃れた革命軍の残党は、絶対無為のはずだった希望が打ち砕かれた絶望から、全員が影人化しましたよ」
それが、我々です――とサミュフは己を指差した。
「リーダーも側近も仲間も失った我らは、再び決起しようとする意思さえなかった。脱力、無気力――ただ恨みだけの募る意味の無い生を500年、過ごしました」
サミュフは剣に力を溜め込み、渾身の一撃を世槞に放つ。まともに攻撃を食らった世槞の身体はビルの壁を破壊し、瓦礫の下敷きになる。ぬるり、と身体の至る所から滲み出る液体。紫遠が自分の名を叫ぶ声が聞こえた気がしたが、返事が出来ない。
「気がつくとフレイリア王国は廃れ、フランスという国家が誕生していました。あの日、我らが夢見た平等な世界は、意外と呆気なく訪れました。自分たちとは、一体何であったのか……自問自答する日々ですよ。影人になってしまったが為に死にたくても死ねず、誰かが殺して下さることを待つ日々でした」
サミュフは瓦礫の中から掘り起こした赤い頭を掴み、宙に吊す。
「そこへ吉報です。我らが救世主、闇炎を司るシャドウ・コンダクターが未だ生きていること。後追い自殺をした彼女の弟、雷を司るシャドウ・コンダクターが再び誕生したこと。私はかつての仲間を集め、雷の使い手の元へ行きました。再びこの世界に革命を起こすべく!」
「……革命って……フレイリア王国は……もう、無い。それ……なのに、何に対して……革命……するってのよ……」
鉄仮面に隠れたサミュフの口元がニヤリと弧を描く。
「我々の救世主を奪い、革命軍を敗北へと追いやった元凶――シャドウ・システムを打ち倒す為です」
「……はっ……馬鹿か。……組織に……お前らみたいなやつら……が、適う、かよ」
「それが適うのです。闇炎のシャドウさえ、貴女から取り戻せれば」
サミュフは剣を構える。これで心臓を一突きするつもりだ。世槞はなんとか解放されようとサミュフの左腕を掴む。
「我々は革命軍です。革命の為だけに生きた。ですから、次は王国の為ではなく、世界の為の革命を起こしてみましょうと、そう思ったわけです。思えば組織はフレイリア王国の圧政と同じですよ。正義と称し、罪の無い影人を皆殺しにしている」
「勘違い……も、甚だしい……な。影人は、存在しているだけ……で、世界を傾かせている……。それは、大罪、だ」
サミュフはハッと笑った。
「第三者に偽りの平和を押し付け、裏から操っているシャドウ・システムを貴女は正義だと言うのですか?」
「……組織は……私も、嫌いよ!」
世槞に掴まれたサミュフの左腕からは白い気体があがっている。腕を覆う手甲が急激に熱されている為である。サミュフは剣を構えた状態のまま世槞を振り落とし、慌てて手甲を外す。手甲に覆われていた左腕は、どろどろに肉が溶けていた。もう使いものにならないだろう。
「くっ……偽物のクセに、やりますね……」
世槞は地面に両手を着け、強く念じる。すると、コンクリートを伝ってほとばしる闇炎がサミュフの足に襲い掛かる。サミュフは両足を失う直前、間一髪のところで馬型の影人に跨がり、ユェナの待つ上空へと逃れた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
頭が重い。世槞は額をコンクリートに擦りつけながら激しい呼吸を繰り返す。息を吐き出す度に血が混じり、いよいよ危険な状態に陥る。
“世槞様! まだ来ます! は、早く私の名を――!!”
額を引きずり、見上げた視界には人間1人を丸飲みに出来るほどに大きく開けられた獅子型の口があった。
避ける余力なんて、とうに尽きた。それでも少しだけ足掻いてみようと、心の中で紅蓮剣に呼びかけた。
(フィアンマ……私の、元に)
しかし剣を呼び戻すよりも猛獣が肉にかぶりつく方が早かった。だがそれは世槞ではなく、紫遠の身体をだ。
「!! しっ……」
世槞を庇った身体は、猛獣からすると赤子ほど小さく、そして柔い。
卒倒しそうなほどに頭から血が引く。紫遠は顔だけでこちらを振り返り、にっこりと微笑んでみせる。
「大丈夫」
紫遠の左手から半身に至るまでを口内に収めた獅子型は、目をカッと見開き、口を開けたまま真横に倒れる。ずるり、と引き抜かれた紫遠の左腕の先には例の氷銃が握られていた。
大丈夫ではないだろ、と世槞は紫遠の身体を見上げる。牙が肉に食い込み、血管が千切れて滝のように流れる血、噛み砕かれた骨。世槞は走り寄ろうとするが、すぐに跳ね退けられる。
「姉さんは僕が護るから。小さい頃に、そう約束したんだよ。君は覚えてないだろうけど……」
――覚えていない。
「覚えてない……そんな大切な約束。どうしてだろう……」
何故だか涙が出てくる。その約束が交わされた日、時間、状況に至るまで全て覚えていないというのに、悲しみだけが押し寄せてくる。――あやふやな悲しみが。
紫遠は優しく微笑むだけで何も言わず、敵に向き直る。視線の先には、起き上がれるようになった朱槻ル哥の姿。
「……なぁ、紫遠。私、シャドウの名前……知らないんだ」
紫遠は背を向けながら頷く。
「薄々感じてたよ。なかなか召喚しようとしないから」
「シャドウの名前が思い出せないのは……本来、闇炎を司るべきは……あの女の人だから……?」
サミュフから聞いた話は、少なからず世槞の心を揺るがしていた。
「どうして私……闇炎を司ってるんだろ……自分でも、わからない。奪った記憶なんて無いし、誰かに宿らされた記憶も……いや、記憶操作されてるだけで……もしかしたら」
“違います!”
悲鳴のような声をあげたのは、世槞の影だ。違う、違うと首を振る動作のように黒い影が左右に揺れ動く。
「違うことねぇだろ。闇炎の使い手がまだ生きてるのに、新たに闇炎の使い手が生まれるなんてこと、絶対に有り得ない。何故なら、闇炎のシャドウは、この世にたった1体しかいないんだからな! 闇炎のシャドウは、奪われたんだ!」
ル哥が怒りに任せ、雪山に雷を落とす。
「闇炎の玉座に座すはユェナだけだ。頼むよ、早く、降りてくれ。でないと、ユェナが死んじまう……」
「…………」
白く、雪煙りで覆われていた銀色の空が濁り始める。舞う雪を押しのけ、顔を出したのは雷雲だ。ゴロゴロと唸り声が轟き、暴れまわる合図を待つ。
「残念だが、いくら氷の使い手が強かろうが、俺たち革命軍の圧倒的な数、そして哀れな紛い物を護りながらじゃあ――敗北は見え見えだ。ジオ」
“行くぞ”
雷神トールが雷雲にスタートの合図――槌ミョルニルを振り上げた。
“紫遠様。姉様と共に我の後ろへ隠れていろ”
氷閹は漆黒のローブを広げ、紫遠と世槞を雷雲から隠す。
「勝算は?」
“わからぬ……。我も紫遠様と同じく、かなり体力を消耗している。だか、負けるわけにはゆかん”
「……頼むよ。君を失っても、姉さんを失うわけにはいかない」
“ふん。心得ておるわ――遥か昔からな”
灰色の空に一瞬だけ訪れる、真っ白な光。雷と雷が衝突し合う爆発の光だ。爆発した光はビリビリとした電流を伴い、氷閹を目掛けて真っ直ぐに落下する。