毎朝庭に私の好きな花が増えているのですが、冷血侯爵である旦那様の書斎に園芸書が積み上がっているのは無関係ですよね?
馬車の窓から見える景色が、一時間ごとに色を失っていく。
南部を発った時にはまだ道端に花が咲いていた。黄色い野菊、薄紫のラベンダー、名も知らない小さな白い花。それが北へ進むにつれて緑が薄くなり、やがて灰色の岩肌と枯れた草ばかりの荒野に変わった。
窓の外に花が一輪も見えなくなった時、ああ、遠くに来たのだなと思った。
私の名前はアネモネ・フォン・ブルーメンタール。南部の男爵家の三女で、今日から北部辺境の公爵家の妻になる。
政略結婚だ。
父には「お前は三女だから」と言われた。姉二人はそれぞれ南部の良家に嫁いでいる。残った私に回ってきたのが、北部辺境——社交界では「冷血公爵」と呼ばれるレオンハルト・フォン・ヴァイスフェルトとの縁談だった。
断る理由も、断る権利もなかった。というより、断ろうという気持ちすらあまり湧かなかった。政略結婚とはそういうものだ。感傷的になっても仕方がない。与えられた場所でやるべきことをやる。それだけのことだと思っていた。
ただ、花のない土地で暮らすのか、ということだけが少しだけ胸に引っかかっていた。
◇
ヴァイスフェルト公爵邸は、想像していたよりも大きかった。
灰色の石造りの屋敷。立派ではあるが、飾り気がない。南部の貴族邸にはたいてい薔薇のアーチや季節の花壇があるものだが、ここには何もない。芝と低木が整然と並んでいるだけの庭は、手入れは行き届いているが、色がなかった。
馬車を降りると、北部の風が頬を叩いた。冷たい。六月だというのに、南部の春先のような気温だ。
玄関の前に、長身の男が立っていた。
黒い髪、灰色の瞳。端正な顔立ちだが、表情がない。彫像のように整っていて、彫像のように冷たい。
「長旅ご苦労だった」
それが夫となる人の第一声だった。目は合ったが、それ以上の感情は読み取れなかった。
「アネモネ・フォン・ブルーメンタールです。本日よりお世話になります」
「ああ。部屋に案内させる」
それだけだった。
メイド長のマルタという女性が私を部屋まで連れて行ってくれた。四十代の、落ち着いた雰囲気の人だ。
「何かございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
「ありがとうございます。……あの、旦那様はいつもあのような感じですか?」
マルタは一瞬だけ目を細めた。笑ったのかもしれない。
「はい。いつもあのような感じでございます」
なるほど、と思った。嫌われているわけではないらしい。ただ、ああいう人なのだ。
◇
結婚生活が始まった。
といっても、劇的なことは何も起きない。朝と夜の食事は同席する。レオンハルトは日が昇る前に起きて書斎にこもり、夜遅くまで政務をしている。食事の席での会話は、あるにはあった。
「塩を」
「はい」
「……パンを」
「どうぞ」
この程度だ。
嫌われてはいない。それは確信があった。食事の席を共にすることを避けないし、すれ違えば小さく頷いてくれる。ただ、それ以上のものがない。感情という引き出しが存在しないかのような人だった。
政略結婚とはこういうものだろう。私はそう結論づけた。期待しなければ失望もない。やるべきことをやればいい。
◇
公爵夫人としての生活に慣れるまでには、いくつかの壁があった。
使用人たちだ。
北部の人間は閉鎖的だと聞いていたが、実際にそうだった。特に古参の使用人たちは、南部から来た若い奥方を露骨に軽んじていた。指示を出しても返事が遅い。必要な情報を共有してくれない。廊下ですれ違う時の視線に、薄い敵意が混じっている。
よそ者だから。南部の人間だから。政略結婚で来ただけの、この土地に根を持たない女だから。
怒る気にはならなかった。彼らの気持ちはわかる。長年この屋敷を守ってきたのは彼らだ。知らない土地から突然やってきた小娘に従うのが面白くないのは当然だろう。
だから私は、怒らなかった。泣きもしなかった。ただ、一人ひとりをよく見た。
古参のメイドには、北部の作法や屋敷の慣習を一から教えてほしいと頭を下げた。知らないことは知らないと素直に認める。その代わり、教わったことは二度は聞かない。
料理長には南部の食材の知識を伝えた。北部では手に入りにくい香辛料の代用品や、保存方法の工夫。料理長は最初こそ怪訝な顔をしていたが、実際に試してみて効果があると分かると、態度が軟化した。
一ヶ月もすると、廊下での視線から敵意が消えた。二ヶ月目には、メイドたちが私を「奥方様」と自然に呼ぶようになった。
媚びたわけではない。対立したわけでもない。ただ、相手の仕事を認めた上で、自分にできることを示した。それだけのことだ。
少ないながらも社交の場にも出席した。北部の貴族社会は南部とは作法が違う。挨拶の順序、席次の決まり方、贈答の慣習。覚えることは山のようにあったが、間違えたら素直に詫び、次は間違えない。三度目の夜会の頃には、他家の夫人たちとも穏やかに会話ができるようになっていた。
レオンハルトはそれらを直接褒めることはなかった。何も言わなかった。
ただ——私が社交から戻った夜、食事の席でほんの少しだけ頷いたのは、気のせいではなかったと思う。
◇
屋敷の生活に慣れた頃、私はようやく庭に目を向ける余裕ができた。
散歩に出ると、庭の片隅で白髪の老人が低木の手入れをしていた。
「こんにちは。庭のお手入れをされている方ですか?」
老人は振り返り、少し驚いた顔をした。庭にまで足を運ぶ奥方は珍しいのだろう。
「ブルーノと申します。もう三十年以上、この庭を任されております」
三十年。ということは、レオンハルトが子どもの頃からいる人だ。
「立派なお庭ですね。手入れが行き届いている」
「ありがとうございます。……ただ、花がないのが寂しいところでして」
ブルーノは苦笑した。北部は寒冷で、花を育てるには厳しい土地だ。芝と常緑の低木を維持するのが精一杯なのだという。
私は庭をぐるりと見回した。灰色の石壁に囲まれた広い空間。日当たりは悪くない。南側の壁際は風が遮られていて、他の場所より少し暖かい。
「ブルーノさん。この庭に花壇を作りたいのですが」
「花壇、ですか? この北の地で?」
「ええ。南部と同じようにはいかないでしょうけど、北でも咲く花はあるはずです」
ブルーノは目を丸くした。それから、しわだらけの顔をゆっくりとほころばせた。
「……奥方様がそうおっしゃるなら、お手伝いいたしますよ」
その日の夕食で、レオンハルトに許可を求めた。
「旦那様。庭の一角をお借りして花壇を作りたいのですが、よろしいでしょうか」
レオンハルトは一瞬だけ手を止めた。視線は皿の上のままだった。
「……好きにしろ」
素っ気ない。でも、禁止はしなかった。この人なりの許可なのだと思った。
◇
翌日から、花壇づくりが始まった。
令嬢が土を掘り返している、と使用人たちは最初驚いていたが、私は気にしなかった。実家でも自分の花壇は自分で世話をしていた。土の感触は手に馴染む。
ブルーノと二人で、まず南側の壁沿いに小さな区画を整えた。土を掘り、石を取り除き、堆肥を混ぜる。地味な作業だが、嫌いではなかった。
「奥方様は本当にお詳しい。まるで本職ですな」
「褒めすぎですよ。ただの趣味です」
花の話をしていると、自然と会話が弾んだ。ブルーノは長年の経験から北部の気候を熟知していたし、私は南部の品種に詳しかった。
「この品種なら寒さにも強いから、北でも耐えられるかもしれません」
「ほう、それは試してみたいですな」
「本当はミモザも植えたいんですけど、さすがにここでは無理ですよね。あの黄色い花、すごく好きなんです」
「ミモザですか……。この気温では厳しいでしょうなあ」
「でしょうね」
諦めてはいたが、口にするのは自由だ。ブルーノとの会話は楽しかった。南部にいた頃の話もつい出てしまう。
「母が好きだった花があるんです。海風花って呼ばれていて、南の海辺にしか咲かない花で。青い花弁が風に揺れるのがきれいで……小さい頃、母と一緒によく見に行ったの」
思い出を語る時、少しだけ声が柔らかくなっていた自覚はあった。
「でも、さすがに海風花は夢のまた夢ですね。あれは暖かい潮風がないと育たないから」
「ええ、それはさすがに……」
ブルーノも残念そうに笑った。
花壇は少しずつ形になっていった。北部の短い夏に合わせて寒さに強い品種を選び、種を蒔き、芽が出るのを待つ。小さな緑が土から顔を出した朝の喜びは、南部にいた頃と変わらなかった。
花壇が、この屋敷での唯一の楽しみになっていた。
◇
異変に気づいたのは、花壇を作り始めてひと月ほど経った朝のことだ。
いつものように水やりに出ると、花壇の端に見慣れない花が一株植えられていた。
エーデルワイス。北部の高山に自生する白い花だ。
きれいに植えられている。土もならされていて、丁寧な仕事だった。
「ブルーノさん、これ……」
ブルーノは首を傾げた。
「私ではありませんよ。朝来た時にはもう植わっておりました」
「誰かが夜のうちに?」
「さあ……。不思議なこともあるものですなあ」
おかしな話だが、花自体は美しかった。花壇に馴染むように植えられている。私はそのまま水をやった。
数日後。また花が増えていた。
今度はアルペンローゼ。高山植物で、小さな赤い花をつける。これも私がブルーノとの会話の中で「北の花も取り入れたいですね」と話していた種類だった。
偶然だろうか。
さらに数日後、寒さに強い品種のラベンダーが三株。一週間後にはクロッカス。その翌週にはなぜかミモザ。
ミモザ。北部では育たないはずのミモザが、なぜか元気に黄色い花をつけている。
「……ブルーノさん」
「はい」
「ミモザは北部では育ちませんよね」
「育ちません。普通は」
「普通は」
「ええ。普通は」
ブルーノの目がわずかに笑っていた。何か知っている顔だ。でもそれ以上は言わない。
不思議だった。植えられた花は全て、私がブルーノとの会話の中で名前を出したものばかりだった。しかも、北部の気候では本来育たないはずの南方の花が、寒さに負けることなく根付いている。
妖精の仕業——とでも思えたら楽しいが、妖精は園芸の知識で品種を選んだりしない。
ただ、犯人について深く考えるよりも、花壇が日に日に賑やかになっていくことの方が嬉しかった。朝、庭に出て新しい花を見つける瞬間が、いつの間にか一日の中で一番楽しみな時間になっていた。
◇
答えは、思いがけない形で見つかった。
ある日の午後、マルタに頼まれた。
「奥方様、申し訳ございませんが、旦那様の書斎にお茶をお運びいただけますか。私は少し手が離せなくて」
珍しいことだった。普段は使用人が運ぶのだが、断る理由もない。茶器を持って書斎に向かった。
扉をノックする。返事がない。もう一度。やはり返事がない。
少し迷ったが、お茶が冷めてしまう。取っ手を回すと、扉は開いた。
書斎は無人だった。レオンハルトは席を外しているらしい。
机の上に茶器を置こうとして、手が止まった。
政務の書類が積まれた机の端から、見覚えのない本がはみ出している。
園芸書だった。
一冊ではない。五冊。
『実用園芸大全――北方編』
『はじめての花づくりガイド』
『丈夫な花を育てる工夫』
『花と植物の百科事典』
『庭づくりの基礎知識』
どの本にも付箋がびっしりと貼られていた。開いてみると、几帳面な字で書き込みがある。見覚えのある字だ。何度か公文書で見たことがある。
レオンハルトの字だった。
付箋の一つに目が留まる。
『妻が五月十二日に海風花について言及。南部海岸沿いに自生。暖かい潮風と砂質土壌を好む。北部での栽培は極めて困難——調査中』
五月十二日。あの日、私はブルーノと花壇の前で話していた。母が好きだった海風花のこと。南の海辺にしか咲かない花のこと。
心臓が跳ねた。
別の付箋。
『ミモザ————妻が「あの黄色い花、すごく好き」と発言(五月三日)。北部での自然栽培は不可。魔術による温度補正で対応可能か検証する』
私がブルーノと話したことが、日付つきで記録されている。一言一句とまでは言わないが、花の名前と、私が何を言ったかが、正確に書き留められていた。
本を持つ手が小さく震えた。
——犯人はあなたですね、旦那様。
その時、背後で足音がした。
振り返ると、書斎の入り口にレオンハルトが立っていた。
彼の視線が、私の手の中の園芸書に落ちる。そして机の上に無防備に広がった他の四冊に。
一瞬の沈黙。
レオンハルトの表情は変わらなかった——と言いたいところだが、変わった。ほんのわずかに。目の奥に、見たことのない揺れがあった。
「……政務の資料だ」
「花卉栽培の本が政務の資料ですか?」
「……北部の産業振興の一環として、花卉栽培の可能性を調査している」
「五冊もですか」
「…………」
レオンハルトは口を開きかけ、閉じ、もう一度開きかけ、そして閉じた。
「——茶を、そこに置いてくれ」
それだけ言って、踵を返した。早足で。耳の先が赤くなっていたのを、私は見逃さなかった。
書斎に一人残された私は、しばらく机の前に立ったまま動けなかった。
◇
翌日の朝、いつもより少しだけ早く庭に出た。花壇にはまた新しい花が植えられていた。今度はヒナゲシ。先週「赤い花が入るとアクセントになりますね」とブルーノに話した花だ。
もう偶然だとは思わない。
その足で、ブルーノのところへ行った。
「ブルーノさん。花を植えているのが誰か、本当は知っているんじゃありませんか」
ブルーノは鋏の手を止めた。しばらく黙っていたが、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「……気づかれましたか」
「書斎に園芸書が五冊ありました」
「ああ……。旦那様、隠すのはあまりお上手ではありませんからな」
ブルーノは遠い目をして語り始めた。
「旦那様は、もうひと月ほど前から深夜に庭に来られるようになりました。最初は見回りかと思いましたが、翌朝必ず花壇に新しい花が増えている。本を読んで育て方を調べて、種を取り寄せて、北部の気候では育たない花には魔術をかけておいでです」
「魔術」
「ええ。旦那様は魔術の腕が高くていらっしゃいますから。土の温度を調整したり、風除けの術をかけたり。この気候で南部の花が元気に育っているのは、全て旦那様の魔術のおかげですよ」
なるほど。ミモザが北部で咲いていた謎は、それで解けた。
「それと……」
ブルーノは少し声を落とした。
「奥方様にお話ししてよいものか迷っていたのですが」
「何ですか?」
「先代の奥方様——旦那様のお母上も、花がお好きでした」
先代の公爵夫人。レオンハルトの母。
「この庭に花壇を作られたのも、先代の奥方様なのです。お元気だった頃は、それは見事な花壇で……色とりどりの花が咲いておりました」
「……今のこの庭からは、想像がつきませんね」
「奥方様が亡くなられてから、旦那様は庭を放置されるようになりました。花壇を壊せとは仰いませんでしたが、手入れをしろとも仰らなかった。いつの間にか、花は全て枯れてしまって」
ブルーノは花壇を見つめた。私が作った——そしていつの間にか、レオンハルトが密かに育てた花壇を。
「奥方様が花壇を作りたいと仰った時、旦那様は何と仰いましたか」
「『好きにしろ』と」
「ええ。そう仰ったでしょうな」
ブルーノは目を細めた。
「あの方は、お母上の花壇が戻ってくることが——嬉しかったのだと思いますよ」
私はしばらく、何も言えなかった。
あの素っ気ない「好きにしろ」の裏に、そんな感情があったとは思いもしなかった。
◇
書斎での一件以来、レオンハルトが私を意識的に避けているかどうかは判断がつかなかった。そもそもこの人は普段から人を避けるようにして生きている。
だが食事の席で一つだけ、変化があった。
見た目は何も変わらない。いつも通り無言で食事をしている。姿勢も、食べる速さも、同じだ。
ただ、視線の置き場がほんの少しだけ定まらない。普段はまっすぐ皿を見ているのに、時々視線が一瞬だけ浮く。それと、水を飲む回数がいつもより多い気がした。
他人が見ればわからない程度の変化だ。使用人たちも気づいていないだろう。
でも私は、二ヶ月以上この人の向かいで食事をしてきた。毎日「塩を」「パンを」しか言わない人の、その沈黙の質が微かに違っていることくらいは、わかった。
私は何も言わなかった。
◇
数日後の朝。
花壇に出て、息が止まった。
海風花が咲いていた。
青い花弁。細い茎。風に揺れる姿。間違えるはずがない。子どもの頃から何百回と見てきた花だ。母と一緒に海辺で眺めた、あの花。
北部で、咲いている。
南の海辺にしか育たないはずの花が、灰色の石壁に囲まれた庭の一角で、まるでずっとそこにいたかのように静かに揺れていた。
しゃがんで、花を覗き込んだ。根元の土に、かすかに魔術の痕跡があった。温度を保つ術。湿度を調整する術。潮風を模した微かな風の術。何重にも、丁寧に。
あの付箋を思い出した。
『妻が五月十二日に海風花について言及。調査中』
調査中——あの日から、ずっと調べていたのだ。園芸書を読み、種を取り寄せ、魔術の組み合わせを試行錯誤して。南の海辺にしか咲かない花を、北の大地で咲かせる方法を。
目の奥が熱くなった。泣きそうだった。でも泣かなかった。この人にはそういう返し方をすべきではないと、なぜかわかっていた。
◇
書斎に向かった。
レオンハルトは不在だった。ちょうどいい。
机の上の園芸書を開く。あの付箋を探した。
その隣の余白に、私は小さな付箋を一枚だけ貼った。
自分の字で、一行だけ。
『咲いていました。ありがとうございます。』
それだけ書いて、書斎を出た。
◇
次に顔を合わせたのは、その日の夕食だった。
レオンハルトはいつも通り——いや、いつも通りではなかった。
変化はごくわずかだ。他の誰にもわからないだろう。座る時の動作がほんの少しだけぎこちない。ナプキンを手に取る仕草に、いつもの淀みなさがない。
そして何より、一度も私の目を見なかった。
普段は目を合わせないのではなく、必要があれば合わせる人だ。それが今日は、意図的に外している。スープを飲む手が一瞬止まり、何か言おうとして——やめて、水を飲んだ。
付箋を見たのだ。
確信があった。
私も何も言わなかった。いつも通りに食事をして、いつも通りに「おやすみなさいませ」と言って、自室に戻った。
部屋に入ってから、少しだけ笑った。
◇
それからも、花は増え続けた。
もう誰が植えているか知っている。知った上で、私は毎朝花壇に出て水をやり、ブルーノと手入れをした。レオンハルトは何も言わなかった。私も何も聞かなかった。
季節が一つ移り変わった頃のことだ。
その日も私は花壇にいた。ブルーノは別の場所の手入れに行っていて、一人だった。秋に向けてどの花を残すか考えていると、背後で足音がした。
振り返ると、レオンハルトが立っていた。
庭に下りてきたこの人を見るのは初めてだった。書斎の窓から見下ろすことはあっても、自分から庭に来ることはなかったはずだ。
「旦那様。珍しいですね、庭にいらっしゃるなんて」
「……ああ。少し、外の空気を吸おうと思っただけだ」
そう言いながら、レオンハルトの視線は花壇の上を滑っていた。一株一株を確認するように。自分が植えた花と、私が植えた花の区別がついているのだろう。
しばらく無言で花壇を見ていた。そして、ぽつりと言った。
「……この辺りに、冬咲きのエリカを入れてもいいかもしれない」
一瞬、息が止まった。
エリカ。冬でも花を咲かせる常緑の低木。確かにこの位置なら、冬場に花壇が寂しくなるのを防げる。
それは——花壇への提案だ。バレている前提の。
私は努めて平静に答えた。
「いいですね。色はどうしましょう」
「……白がいいだろう。海風花の隣なら映える」
海風花の隣。自分が植えた花の名前を、さも当然のように口にした。
そのことに本人が気づいているかどうかは、わからなかった。
「旦那様、花にお詳しいんですね」
わざと言った。意地悪だったかもしれない。
レオンハルトの耳の先が赤くなった。
「……少し調べた」
少し。園芸書が五冊で、付箋がびっしりで、深夜に庭に来て魔術をかけて。それを「少し」と言うこの人が、どうしようもなく不器用で——どうしようもなく、あたたかかった。
私はそっと手を伸ばした。
レオンハルトの手に、自分の手を重ねた。
彼の指が微かに強張った。でも、引かなかった。
「——来年の春も、一緒に選んでくださいますか」
レオンハルトは答えなかった。
ただ、いつも感情の読めないその横顔に——かすかに、本当にかすかに、口元がゆるんでいた。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも小さくて、他の誰が見ても気づかないだろう。
でも私には——それだけで、十分すぎるほどだった。
胸の奥がじわりと温かくなる。
私もそれ以上は何も言わず、手をそっと握りしめた。




