番外編 静けさのうちに君を想う (兄視点)
メリダが強張った表情でレオナルドを訪ねてきたのはリリアンヌが神衣になったことが伯母に知られて父がしこたま殴られて三日ほど経ってからだった。
伯母の襲来から浮き足立った様子だった屋敷の雰囲気がやっと落ち着いてきたところだった。
レオナルドは父からの呼び出しも伯母からの呼び出しも無視していつも通りに過ごしていた。
何を答えても意味はない。
リリアンヌは神衣に選ばれ、二度とこの家には戻らない。
残されたものはただ尊き神に選ばれたことを喜ぶしかないのだ。
どれほど悲しみと孤独に苛まれようとも、この口はただ一人の家族を失ったことを寿ぐしかできない。
あまりの苛立たしさにうっかり父に噛みついてしまいかねないのでお互いのためにも距離を取るのは大切なことだとレオナルドは考えている。
父が何を考えているかは知ったことではない。
それはメリダとその母親についても同じことだとレオナルドは考えていた。
だから、メリダが訪ねてきた時に入室を許可したのも大した意味はなかった。ちょっとした父への嫌がらせくらいだ。
応接室に通したメリダと向かい合って座ったレオナルドは茶を入れた侍従を下がらせた。メリダは一人でやってきたので、ドアはわずかに開けておく。義妹とはいえ妙齢の女性なので。
「さて、ご用件は何かな? ゆっくり話してくれると助かるよ、小鳥さん」
レオナルドの言葉にメリダは一瞬きょとんとしたが、それが自分の下町訛りを揶揄してのことだと気がついて顔を顰めた。
顰めたが、何も言わずに飲み込んだのは教育の成果だろう。
きちんと教えれば理解する。真っ直ぐすぎるところはあるがメリダは頭の悪い少女ではない、というのが新しい家庭教師を手配した家政婦長からの評価だ。
そうして、彼女は口を開いてゆっくりと言った。
「お父さんが公爵を辞められる方法を教えてください」
レオナルドは爆笑するかと思った。そんなことしたことないので貴族の矜持で必死で耐えた。
なんということだろう、あの男の子供3人すべてがあの男が公爵家の当主であることを否定しているのだ。これが笑わずにいられるだろうか。
「突然だね、どうして父上を追い落としたいのか聞いても?」
レオナルドは内心を悟らせない微笑みでメリダに尋ねた。腹筋には剣術指南を受けているかのような力を込めて。
「お父さんは貴族に向いていないと、私は思うんです」
キッパリとそう言い切ったメリダを、レオナルドはちょっと見直した。
「どうしてそう思う?」
暇つぶしで会ってみたが、これはなかなか面白い話が聞けそうだと内心で嘯く。
メリダは自分の考えを整理しているのか少し口を注ぐんだ。
「あの、少し、下世話な話なんですが、下町の家って壁が薄くてですね、あの、たまにお父さんとお母さんの会話とか聞こえてまして、盗み聞きとかじゃなくてですね!」
淑女としては口に出しづらい話題のためかところどころ早口になりながら説明を始めた。
「たまに酔っ払ったお父さんがお母さんに言っていたんです。“あんな女抱きたくなかった”とか、“公爵夫人でいたいために自分に媚びる卑しい女のくせに”とか……」
眉間に皺が寄ったレオナルドを見て、メリダは慌ててすみません! と頭を下げた。
「君が言ったわけじゃないだろ、謝る必要はない」
そう言ったのは父だ、レオナルドにも分かっている。ただ自分の母をそのように言われて不快にならないわけがない。
それと同時に、納得するものもあった。
それで『売女』か、父にとって母は公爵家というしがらみに自分を繋ぎ止める欲深い女に見えたのか。
認識の違いとは恐ろしいな、とレオナルドは思う。
レオナルドから見た母は愛情深い人だった。父の愛を得られなかった娘を愛することができないことに苦しむくらいには優しい人だった。
社交に出ない父の代わりに公爵家の体裁を守っていた。心身を削り公爵家に献身的に尽くしていたというのに。それさえも父には公爵家の威をかる強欲な行動に見えたのか。
「あ、あの、私、そういうの聞いちゃって、ずっとお父さんのお家には意地悪な人がいて、だからお父さんは優しいお母さんに惹かれて、下町のお家がいいって言ってるんだと思ってて」
申し訳なさそうに、言い辛そうにメリダが語る。
「私、だから、奥様が亡くなられて、このお家にお母さんと来ることになった時、家族みんなでやっと幸せな生活ができるって思って、新しい兄妹とも仲良くしようって」
亡くなられた奥様のこと、考えたこともなかったんです。
メリダは唇をぎゅっと結んで目線を落とした。
レオナルドはその言葉にこれは彼女の懺悔なのだなと気がついた。
「この家に来たばっかりの時は、貴族はやっぱり意地悪な人ばっかりで、平民のことなんて馬鹿にしてるんだと思いました。だから、舐められたら終わりだって、下町ではそうだったから、私も周りに舐められないようにしないとと思って、でも、リリアンヌ様が暴力はいけないって、貴族は間違えちゃいけない、謝ったら謝られた相手は許さなきゃいけなくなるからって言われて、私、貴族向いてないなって思ったんです」
困ったように笑うメリダは確かに貴族には向いていないだろう。
レオナルドもそれには同意する。
「リリアンヌ様の言ってること、分かりやすかったです。貴族っぽい言い方じゃなくて、わざわざ私に合わせて分かりやすい言葉を選んでくれて、ちゃんと納得できたんです。それなのに、お父さんはリリアンヌ様に何も聞かないで、リリアンヌ様を殴ったんです」
ぐっと膝の上の拳を握ったメリダが顔を上げた。先ほどの困ったような笑顔とは正反対の怒りが滲む悔しそうな顔だ。
「あんな小さくて! お可愛らしい! リリアンヌ様を! 血が出るくらい殴ったんです! もう貴族がどうとかいう話じゃないんです! 人としてどうかっていう話ですよ!」
レオナルドが聞き取れたのはここまでだが、興奮したメリダは小鳥のような鳴き声でしばらく父の行動を罵っていた。
まあ、十五歳の真っ直ぐな気性の娘の前で年下の女の子を殴れば、さもあらん。
ちなみに血が出たのはテーブルに頭をぶつけたせいで別に血が出るほど殴られたわけではないとレオナルドは聞いているが、些細なことなので訂正はせずにメリダの鳴き声を聞いていた。
のんびりと茶を啜っているレオナルドに気がついたメリダが口を一旦閉じた。
「すいません、つい早口になっちゃって」
かまわない、とレオナルドが言うとメリダも安心したのか大分冷めた茶に口をつけた。
「お父さんに、何を言っても聞いてもらえなかったんです。女の子を殴るなんて酷いって言っても、私は何もされてないって言っても、大丈夫だからってお前は気にするなとしか。流石に変だなと思ってお母さんに言ったんです。そうしたら、お父さんはそう言う人だからって」
眉間に皺を寄せるメリダ。
「お父さんは、人の立場に立つとか、相手が何を求めてるか察するとか、そう言うのが苦手なんだって。でも、貴族って遠回しに言われたことを察したり、自分の立場が相手にとってどんな影響を与えるか考えて行動しなきゃいけないんですよね?」
メリダの言葉にレオナルドは頷く。立場に見合った行動をするのは家庭教師に教わる基本中の基本だ。
「お父さん、そういうの分かんないんですって。お父さんは私とお母さんには優しいですし、下町の人と話してる時は意外と楽しそうなんです。多分、言葉の裏とか仕草の意味とか考える必要なくて、そのまんま言われた通りに受け取れるから楽なんだと思います」
レオナルドは天井を仰ぎ見た。
これは、初めから無理だったのだ。父が公爵になることも、貴族令嬢の模範のような母と夫婦になることも。
昔、父ではなく伯母に婿を取らせて公爵家を継がせようと言う案が一族から出たらしいが祖父が却下した。父は表面上は健康で容姿の優れた公爵家嫡男だった。少々やる気と能力が足りなかろうが問題ないと判断されたのだ。
いっそ父自身が拒否してたらまた違ったろうが、父は祖父には逆らわないように教育された。出来のあまり良くない嫡男の話を聞いてくれる人間は公爵家にはいなかった。
向いてなかったのだ、きっと、ずっと昔から。
ただ公爵家の嫡男に生まれたから、本人がどれほど嫌がっていても誰も見ないふりをしていたのだろう。
レオナルドは乾いた笑いをこぼした。
そのツケを払ったのは誰か。
父の心を求めてしまった母と、その母の面影を宿してしまったために父に憎まれたリリアンヌだ。
何も、何も悪いことなどしていないのに、母は心を細らせ病を得て儚くなり、リリアンヌは人の世を捨てた。
「お父さんには、リリアンヌ様が私に教えてくれたことよりも、私が泣きそうになっていたことが重要で、リリアンヌ様さえいなくなれば問題は解決なんです。そんな単純なことじゃないのに、お父さんの見えてる世界はすっごく単純な線引きしかないんだと思います。でも、それって貴族の世界じゃ致命的だと思うんです。だって貴族ってはっきりものを言わないじゃないですか。曖昧にして、白でも黒でもない言い方で駆け引きしなくちゃいけないんですよね?」
先生に教わりました、と胸を張るメリダにレオナルドは頷く。
「公爵という地位のお父さんがはっきりものをいう時は絶対にそれがなされなきゃいけない。だから、リリアンヌ様は公爵家の力の及ばない場所まで逃げた。お父さんが決定的な言葉を口にしてしまわないうちに」
リリアンヌの名を出す時、一瞬メリダの声が震えた。彼女は自分がきっかけでリリアンヌが家を捨てたことを理解しているのだろう。
「お父さんは生まれる場所を間違えたってお母さんは言ってました。私もそう思います。私は貴族に向いてないけど、お父さんはもっと向いてません。だったらいっそ、公爵を辞めた方が本人にとっても周りにとってもいいと思うんです」
レオナルドは今度こそ弾けたように笑った。メリダが驚いて目を丸くする。そのあどけなさに笑いがさらに込み上げる。
こんな十五の少女にわかることが、なぜ誰もわからなかったのだ!
祖父も伯母も、父が後継になることを嫡男だからと容認した一族の者たちも!
こんな子供がわかることを見ないふりをして、公爵家の体面だけを大切にしている。
くだらない! こんなくだらないことで、自分はただ一人の家族を失ったのだ!
ひとしきり笑って、レオナルドは大きくため息をついた。
メリダは毛を逆立てた小動物のように警戒してレオナルドを見ていた。
「いいよ、」
息を吐き出すように力を抜いて言葉を落とす。
その声が良く聞き取れなかったのか、メリダはえ? と聞き返した。
「君の願いを叶えてあげる。その代わり、君は二度と貴族社会に戻れなくなるけど」
ニヤニヤと笑いながらそう言ってやるとメリダが目を瞬かせてから嬉しそうに笑った。
「全然問題ないです!」
年寄りどもが守ってきた公爵家の体面が泥まみれになるのはさぞかし面白かろう、とレオナルドはメリダの笑顔を見ながら思った。
「ご無事に皆様出発されました」
公爵家当主の執務室へ訪れた家令のベルニッドがそう報告した。
「お見送りにならなくてよろしかったので?」
当主の椅子に座ったレオナルドはベルニッドの言葉に鼻で笑って返事をした。
祭儀を台無しにしかねない失態を犯した前公爵とその娘をわざわざ見送る必要などない。
わかっていて聞いてくるのだ、この家令は。
自分の知らぬまに公爵家の姫が神衣に選定されたことを随分と恨まれている。リリアンヌが戻らなかったことを察してすぐに左翼棟の使用人に緘口令を敷いてくれたが、それからレオナルドへの当たりが強い。
リリアンヌは使用人たちに好かれていた。幼くして母親から見捨てられた子は年上の女性には素直に甘えてくる可愛らしい少女だった。我儘も大抵は可愛らしいものばかりで、女性使用人たちに懐くのも母恋しさからだろうと受け入れられていた。
健気で可愛いみんなのお姫様だったのだ、リリアンヌは。
それが失われて、左翼棟は一時期どんよりとした雰囲気に包まれていた。レオナルドを恨めしそうに見るものも少なくなかった。
神衣に選ばれることは大変名誉なことだが、それとこれとは別なのだ。レオナルドにも良くわかる感情だ。
甘んじて受け入れてはいるが、流石に鬱陶しい。
「いく人か使用人もつけたのだろう? 蟄居とは言っても行き先は保養地だ、のんびり親子水入らずで暮らすにはいい土地だ」
何も心配することはない、とレオナルドは肩を竦める。
父とメリダ親子が暮らすのに十分な屋敷を保養地に準備してある。生活費は公爵家から支給されるし、使用人もいる、悠々自適の隠居生活だ。
もう二度と会うことのないだろう父にできる限りの親孝行をしてやったのだ、感謝してほしいとレオナルドは思っている。
公爵家の内情を長いこと見てきた家令は年若いレオナルドが皮肉げな表情を浮かべるのを仕方ないとばかりに見遣って手に持っていた手紙の束を机の上に差し出した。
随分と厚みのある手紙からレオナルドはそっと目を逸らした。
「レオナルド様、」
有能な家令の言葉にレオナルドは立ち上がった。
「王宮に行く、王太子が今回の公爵家の沙汰にお心を痛めているらしいからな、お慰めに行かないとな」
山のようになった令嬢の似姿付きの手紙を処理することを放棄してレオナルドは執務室を出た。家令が控えていた侍従たちに馬車の用意をさせる声を聞きながら、レオナルドは不思議な静けさを覚えた。
この屋敷からいなくなったのはたった数人だけだというのに。
母が亡くなり、リリアンヌが去り、そして今日、父とメリダ親子が去った。
誰も彼も、レオナルドを置いていく。
ぽかりと空いた胸の空白を、レオナルドは静けさと呼んだ。
この屋敷は自分ひとりでは広すぎる。
ふと、窓から青空が見えた。
リリアンヌを見送った日、翡翠色の瞳のメイドはその姿が見えなくなるまでじっと目に焼き付けるかのようにリリアンヌの背を見つめていた。そして、リリアンヌの姿が見えなくなると、ぼたぼたと大量の涙を流しながら必死に声を押し殺していた。
帰りの馬車の中でも涙は止まることなく、人はこんなにも目から水分を流し出せるものなのかとレオナルドを驚かせた。
自前のハンカチがびしょ濡れになっていたのでレオナルドのハンカチを渡すと、申し訳ありませんと言いながら遠慮せずに受け取った。
全く似てもいない色なのに、空を見てあの潤んだ翡翠をなぜか思い出した。
あのメイドとリリアンヌの話をしたいと、レオナルドは静けさの中に思ったのだ。




