15分で読める短編 ―水面の先に―
きんと冷えた空気が、一つ息を吸うたびに心の内を洗っていくような、冬の朝。
窓から、ほのかな暖かさを帯びた淡く透きとおる光が射しこみ、茶さじの上にふんわりと乗った茶葉を黄金色に縁どっている。
いつもと同じ茶葉なのに少し薫り高く感じられるのは、世界のすべての輪郭を際立たせる冷気ゆえか、あるいは金色の衣をまとったその神秘性ゆえだろうか。
ゆっくりと回転を始めた頭が、そんな取り留めもないことに思いを巡らす。
急須のカップ網の中に茶葉を入れ、お湯を注いだ。
蓋を被せ、そっと静かに目を閉じる。
茶葉が開くまでの、ほんの数分の待ち時間。
自らの呼吸と、ひんやりと肌に触れる世界の温度に意識を向けること、しばし。
ぱちり、と目を開き、ゆっくりと湯呑に茶を注ぐ。
入れたてのお茶が入った湯呑はほっとする温かさで、手のひらで包み込むようにして持ち上げると、指先からじんわりと体温が戻ってくるかのようだった。
湯呑から立ち昇る白い湯気に顔を近付けて息を吸い込むと、茶畑の中心に立って深呼吸しているような、そんな香気が胸に満ちる。
舌をやけどしないように、そっと一口含んだ。
深い茶畑の香気が、鼻腔を、肺を通り、全身に満ちていく。
頭の中に、山間部の大自然の中、曙光で金色に染め上げられた朝靄に包まれる、深緑の茶畑のイメージが浮かぶ。
あまりにも忙しく、ともすると自分のことも顧みる余裕のない毎日の中で生み出した、静かに己と世界と向き合うこの時間が、私の日課だ。
満足の吐息とともに目線を下に向けたとき、自分と目が合った。
茶の水面に映る自分は、朝の日課を滞りなく終えて満ち足りて見えた。
だがそれも一瞬のことで、じっと水面に揺れる己の顔を見つめているうちに、その口が引き結ばれていくのも見えた。
意図的に意識を己に向けていないと、こうしてすぐに思考が現実に引き戻されていく。
そして現代日本に生きる人間の思考など、大体が身の回りを取り巻く悩みごとで埋め尽くされているものだ。
満員電車に揺られつつ出社したら、送られてきたメールに目を通さなければ。
その後に顧客にメールを一通送ることも忘れてはいけない。
現在進行中のプロジェクトについて確認の電話を掛け、今週末締め切りの資料のブラッシュアップを行い、午後から打ち合わせが二件。
それらの打ち合わせをもとに新たに企画案を作成し、今日中に別件のプロジェクトについて日程案を構築。
そうだ、先方から送られてきていた、プロジェクトの詳細資料を読み込まなければ。
新人の子の日報に、目を通す時間はあるだろうか。終わらなければ(十中八九終わらないだろうが)、今日も残業だろう……。
一つ、大きく息を吐いた。
茶に映る自分の口角は下がっていて、ほんの少しまで存在していた、ささやかでも持ち足りていた幸福感はとっくに消え去っている。
先ほど、現代日本に生きる人間の思考は、身の回りを取り巻く悩みで埋め尽くされている、と思ったが、それは何も“日本”に限定しないのかもしれない。
水面に映る自分を見つめる。
もし、この水面の下を潜り抜けることができたら、とふと思う。
もし、この水面の下を潜り抜けた先が世界と繋がっていたら、世界中の、今、こうして悩みを抱えている人しか辿り着けない空間があったら。
悩みを面と向かって分かち合うことができるのではないか。
ゆらゆらと揺れる水面のように。
まだ起き切っていない思考が、そんなことをゆらゆらと考えた。
誰か――。
***
湯気が立ち昇るコーヒーの黒い水面を、見るともなしに見下ろした。
味も色もブラックなその水面に、苦々しい表情をした自分の顔が映り込んでいる。
午後二時。
社内の休憩スペースで、心の内に渦巻くコーヒーのように黒々とした苦い感情を、息を一つついて吐き出した。
顔まで味と同じになりたくなかった、という投げやりな思いは、それでも消えてくれない。
ロサンゼルス国際空港からほど近い場所にあるオフィスの休憩室からは、ビルとビルの隙間からほんの少しだけ太平洋を臨むことが出来る。
しかし今日に限って空一面を雲が覆い尽くしていて、ここからだとビルの向こうに青黒い何かが横たわっているようにしか見えない。
いつもなら、太陽の光を反射してきらめくその輝きが、自分の心にもきらめきを与えてくれる気がして、気分も上向いたのに。
今日の朝からの一連の流れを思い出して、また自然と溜息が零れた。
出社して最初に取った電話が、クレームだった。
その上担当者が休みで、代わりに自分が三十分近く自社と自社製品に対するトゲトゲした苦情を聞き続けた。
その後、コピー機の用紙が切れる、ボールペンのインクが切れる、等の小さなもやもやが続き、挙句の果てには、自分が主担当として参加していた業務でメンバーの一人がミスを犯し、先日納品した製品がすべて再納品になった。
メンバーのミスでも、主担当として気付かなかった私が悪いのだろう。
鬱々とした気分で参加した会議では、準備しておくべき資料の一つを用意し忘れていた。
これは完全に自分のミスだ。
会議ののち、上司には資料をすぐに用意すると伝えて、昼の休憩時間を返上して作成した。
そして今、遅めの休憩を取る許可を得て、雨に打たれて泥だらけになった土嚢袋のように、椅子の背もたれにノビている。
こんな日もある。
そう自分を慰めるのは容易いけれど、一日のうちにここまで負の出来事が続くと、流石に堪えるものである。
自分は、どうしてこうもできないのだろう。
周りに迷惑を掛ける自分なんかが、のうのうと働いていていいのか。
こうやって自分で自分を責め立てているとき、目や耳から入って来る情報が、すべて自分を攻撃しているように感じられる。
特に、雑談を交わして笑い合う社員を見たり、上司から声を掛けられて嬉しそうにしている社員を見たりしたときは。
どろりとした感情を引き剥がすように、カップを口に運んだ。
一口啜ったコーヒーの想像以上の苦さに、思わずその液体に目を向ける。
自分の心に渦巻く負の感情をそのまま抽出したかのような、黒く揺らめく液体。
そこにくっきりと映る、この世のすべてを面白くないものだと諦めきったような、ひどくつまらなそうな顔をした自分。
いっそのこと、自分がうんと小さくなって、このコーヒーの中を漂えたらいいのに、と思う。
世界から隔絶されたコーヒーの中をどんどんと潜っていくと、そこは、今、この世界に疲弊している人だけが辿り着ける空間に繋がっている。
そこで彼ら彼女らと手を取り合ったり、ハグをして悩みを分かち合ったり……。
そもそも、今この世界に自分より惨めな思いをしている人間などいるのだろうか、と再び黒くて苦い思いが心と頭の中を渦巻き始める。
その負の思考の連鎖を断ち切るように、再びカップに口を付けた。
ああ。
誰か――。
***
寝る前にコップ一杯の炭酸水を飲みたくて、電気を落とした暗いキッチンに入った。
冷蔵庫からボトルを取り出し、コップに注ぐ。
シュワシュワという爽やかな音が、凝り固まった心をほんの少しだけほぐしてくれるようだった。
一口含むと、パチパチとした刺激が舌の上をすべるように広がっていく。
それを飲み込んだ瞬間、喉からお腹に到る一本道を、まるで小さな爆竹が弾けながら滑り落ちていったかのような、この世のすべての飲食物の中で炭酸だけがもたらす不思議な感覚が通り抜ける。
そのまま一気にコップの半分ほどを飲み下してから、大きく息を吐いた。
夜の静かなキッチンに、コップの中の炭酸が弾ける音が、静かに満ちている。
窓から入った玲瓏とした月明りが、手元を青白く照らしていた。
さながら熱帯魚の水槽に設置されるエアレーションのように、コップの底面から空気の泡が次から次へと生み出されては消えていくのがよく見える。
今日の私の頭の中みたいだな、と様々な感情が吹き荒れ、竜巻が通り過ぎたかのように平たく疲弊した思考が、ぼんやり思った。
今日、久々に会った友達とドナウ川の川岸をゆったりと歩きながら、近況報告をした。
私が話したのは基本的には仕事の愚痴で、他には今ハマっている趣味と、将来について。
その子からは数か月連絡がなかったから、きっと仕事で忙しいものだと思っていた。
だから、きっと仕事で何をしていたのか、仕事上の辛かったことと成し遂げたことを聞けるものだと思っていた。
それなのに。
彼女の口から出たのは、少し前に彼氏が出来たこと、彼氏とどこそこに遊びに行ったこと、日々彼とどんなやり取りをしているかということ、そしてゆくゆくは結婚を考えていること、だった。
そうなんだ、仕事で忙しいのかと思ってた、と何でもないことのように言った私は、上手く笑えていただろうか。
あぁ、仕事? と、彼女はそういえばそんなものもあったな、というような調子で言った。
まぁ仕事はぼちぼちって感じ。それより彼氏とどこ行こうか旅行の計画立てる方が大変で~。二人でお金貯めてスペイン行ってきたの! それで色々バタバタしてたから、そういえば彼氏できたよ、って報告してなかったな~って思って。
嬉しそうに、楽しそうに、まるで世界のすべてが自分を祝福している、とでもいうように。
心底幸せそうに語られる近況に、このときの私がどれほど引き攣った笑みを浮かべていたとしても、私は私を責めたりしない。
ふと意識を現実に引き戻すと、鼓膜が手の中にある炭酸の弾ける音を拾った。
コップを目線の高さに持ち上げる。さながら、水槽を覗き込むみたいに。
熱帯魚でもいそうだな、と思う。
いや、熱帯魚ではなく。
私が、この中を揺蕩ってみたい。
もし、この水面の先が、世界と繋がっていて、今、この世界に嫌気が指している人しか辿り着けない空間が広がっているとしたら。
もし、この弾ける泡の一つ一つに、そうした彼ら彼女らが入っていたとしたら。
私がその泡の中に入って、その人たちを抱きしめたい。
思いっきり悩みを、愚痴を、日々の不満を、言い合いたい。
誰か。
誰か――。
***
誰か。
私を助けて。
***
思わず、ん、と声が漏れた。
小さくなった自分が湯呑の中に注がれた茶に飛び込み、世界中の悩める人と交流する妄想に浸っていたから、気付かなかった。
生命の力強い季節を思わせる若葉色の、その水面の中央に、ぴんと天を向くようにして、茶柱が立っていた。
たった、それだけ。
たったそれだけなのに、ほんのちょっぴり、心も、口角も上向いていることに、私は気付く。
***
あえてブラックのままにしたコーヒーの、その最後の一口を、天井を見上げるようにして飲み干した。
ふぅ、と鼻から息を吐いて何気なく目線を上げ――。
息をのんだ。
このとき胸に迫った感情を、どう表現すれば良いのだろう。
驚きと、感動と。喜びと、嬉しさと。
どうして人は、自然が日常の中で気まぐれに見せるその美しさを目の当たりにしたとき、こうも心を動かされるのだろう。
天を覆い尽くす鈍色の雲の、その隙間から、幾筋もの陽光が淡い金のきらめきをまとって降り注いでいた。
その中の一筋が、青黒い塊のようだった海へと射し込んでいる。
その、金色の光を受け止めた海が、その碧い蒼い色彩を、碧玉のようにきらめかせていた。
それは、思わず口を開けて見とれてしまうような、そんな光景で。
金の梯子を通して天から降ろされた、頑張る私に宛てたとてもとても美しい贈り物だった。
***
どれくらいの時間、立ち昇る炭酸をコップ越しに眺めていたのか分からない。
水族館に行ったみたい、と我ながら苦笑して、月明りが移動していることに気付いた。
手元の辺りを照らしていた光は、今では壁にまで移動している。
その光に、目が吸い寄せられた。
月明かりが、まるでスポットライトのように、壁に掛けられた一枚の写真を照らしている。
それは、自分が地域の小さな音楽コンクールで、フルートを演奏しているときの写真だった。
残念ながら入賞は逃してしまったけれど、自分はこの社会でどう生きたいのか、社会に何を伝えたいのか。
それを、音楽という形で思いっきり表現できたあのときの歓びを思い出すと、今でも胸の内から活力が湧いてくる心地がする。
青白く静謐な月明りに照らされる己の写真を見つめているうちに、もやもやとわだかまっていた思考が徐々に研ぎ澄まされ、輪郭を帯びていく。
そうだ。
自分は、本当はこの世界で何をしたいのか。
この人生において、スポットライトの当たる主人公は、他の誰でもない、私。
冷たくて、無感情にも見える青白さで、それでも柔らかくこの世のすべてを包み込む月明りが、そう教えてくれた。
***
どれだけ小さくてもいい。
目の前にある小さな小さな幸せを、忙しさの中で見失わないこと。
***
ほんの少し、手元から顔を上げて、空を、海を、自然を眺めてみること。
世界と、そして宇宙と繋がる大自然の美しさに、ひと時、立ち止まってみてもいい。
***
自分の人生の軸を、他人に求めないこと。
自分という軸を太く、頑丈にすれば、どれだけ周囲で嵐が起きようと、倒れることはない。
***
地球上のすべての国々の、すべての人々の想いを乗せて。
今日も世界は、回っている。




