座する影
佐伯は中堅企業の課長だった。
妻と里子の娘と暮らしている。血のつながりはなくても、娘は大切な存在だった。
会社では、年上の中途採用社員・沼田が現れてから空気が変わった。
誰もが自然に彼を「そこにいて当然」と思い、気づけば発言や場の流れを握られてしまう。
佐伯は翻弄され、周囲から「的外れ」「変わり者」と思われ始めていた。
彼を支えたのは、有能で鋭い部下の水野だった。
だが、水野が秘めた想いに佐伯は気づいていなかった。
水野の一番の相談相手は同僚の西岡。
西岡の夫は酒とギャンブルに溺れ、借金取りが家を荒らす日々。
彼女は次第に、佐伯と水野の良好な関係に嫉妬を抱くようになっていた。
ある晩、西岡は震える指で社内システムにログインしていた。
数字を移すだけ――それだけで夫の借金取りから逃れられる。
だが背中は汗で濡れ、吐き気が込み上げていた。
「……これで、しばらくは……」
小声でつぶやいた瞬間、背後で咳払いがした。
振り返ると沼田が立っていた。
「夜遅くまで大変だね」
何気ない声。しかし、その目はすべてを見透かしていた。
西岡は、ふと口をついて出た。
「……佐伯課長に頼まれて……」
沼田はにたりと笑い、何も言わずに去った。
翌朝。経理が騒ぎ出す。多額の金が消えていた。
問い詰められた西岡は、震えながらもはっきりと告げた。
「佐伯課長の指示でした」
「何を言っているんだ!」
佐伯は必死に否定したが、誰も耳を貸さない。
社員たちの視線は冷ややかで、沼田が低い声で言った。
「課長……落ち着かれた方がいいですよ」
その一言で、佐伯は完全に「怪しい人間」になった。
否定すればするほど孤立していく。
水野だけが目を伏せ、唇を噛んでいた。
やがて佐伯は退職し、家庭も崩れた。
妻は水野との関係を疑い、沼田を「自然な味方」と受け入れていた。
離婚が成立すると、娘もまた佐伯を拒むようになった。
数か月後、佐伯はかつての会社を覗いた。
課長席に座るのは沼田ではなく、水野だった。
堂々と人々を動かす姿。
以前と変わらぬ水野であるはずなのに、その仕草や言葉の間合いに、どこか既視感がある。
ふと目が合った瞬間、水野はにたりと笑った。
――それは、沼田とまったく同じ笑みだった。
その夜、娘は夢を見た。
食卓に座る沼田。
その隣に、自分自身が座っていた。
にたりと同じ笑みを浮かべて。
幼い彼女は何も理解していない。
ただ、瞳の奥に宿った影は無自覚のまま育ち始めていた。
夢の端に、もう一つの影が立っていた。
柔らかな笑みを浮かべる女。
顔は霞んでいるのに、水野を思わせる気配だった。
娘はその影に怯えることなく、当たり前のように受け入れていた。
――気づけば、笑みは少しずつ増えていく。
数を数えることもできないほど、にたり、にたり。
どこからともなく滲み出し、誰の記憶にも自然に溶け込んでいく。
誰も不自然とは思わない。
ただ、そこにいるのが当たり前のように。
にたり。にたり。
その笑みは、静かに街を覆っていった。




