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座する影

作者: 小川四郎
掲載日:2025/09/28

佐伯は中堅企業の課長だった。

妻と里子の娘と暮らしている。血のつながりはなくても、娘は大切な存在だった。


会社では、年上の中途採用社員・沼田が現れてから空気が変わった。

誰もが自然に彼を「そこにいて当然」と思い、気づけば発言や場の流れを握られてしまう。

佐伯は翻弄され、周囲から「的外れ」「変わり者」と思われ始めていた。


彼を支えたのは、有能で鋭い部下の水野だった。

だが、水野が秘めた想いに佐伯は気づいていなかった。

水野の一番の相談相手は同僚の西岡。

西岡の夫は酒とギャンブルに溺れ、借金取りが家を荒らす日々。

彼女は次第に、佐伯と水野の良好な関係に嫉妬を抱くようになっていた。




ある晩、西岡は震える指で社内システムにログインしていた。

数字を移すだけ――それだけで夫の借金取りから逃れられる。

だが背中は汗で濡れ、吐き気が込み上げていた。


「……これで、しばらくは……」

小声でつぶやいた瞬間、背後で咳払いがした。


振り返ると沼田が立っていた。

「夜遅くまで大変だね」

何気ない声。しかし、その目はすべてを見透かしていた。


西岡は、ふと口をついて出た。

「……佐伯課長に頼まれて……」


沼田はにたりと笑い、何も言わずに去った。


翌朝。経理が騒ぎ出す。多額の金が消えていた。

問い詰められた西岡は、震えながらもはっきりと告げた。

「佐伯課長の指示でした」


「何を言っているんだ!」

佐伯は必死に否定したが、誰も耳を貸さない。

社員たちの視線は冷ややかで、沼田が低い声で言った。

「課長……落ち着かれた方がいいですよ」


その一言で、佐伯は完全に「怪しい人間」になった。

否定すればするほど孤立していく。

水野だけが目を伏せ、唇を噛んでいた。




やがて佐伯は退職し、家庭も崩れた。

妻は水野との関係を疑い、沼田を「自然な味方」と受け入れていた。

離婚が成立すると、娘もまた佐伯を拒むようになった。


数か月後、佐伯はかつての会社を覗いた。

課長席に座るのは沼田ではなく、水野だった。

堂々と人々を動かす姿。

以前と変わらぬ水野であるはずなのに、その仕草や言葉の間合いに、どこか既視感がある。


ふと目が合った瞬間、水野はにたりと笑った。

――それは、沼田とまったく同じ笑みだった。




その夜、娘は夢を見た。

食卓に座る沼田。

その隣に、自分自身が座っていた。

にたりと同じ笑みを浮かべて。


幼い彼女は何も理解していない。

ただ、瞳の奥に宿った影は無自覚のまま育ち始めていた。


夢の端に、もう一つの影が立っていた。

柔らかな笑みを浮かべる女。

顔は霞んでいるのに、水野を思わせる気配だった。


娘はその影に怯えることなく、当たり前のように受け入れていた。


――気づけば、笑みは少しずつ増えていく。

数を数えることもできないほど、にたり、にたり。

どこからともなく滲み出し、誰の記憶にも自然に溶け込んでいく。


誰も不自然とは思わない。

ただ、そこにいるのが当たり前のように。


にたり。にたり。

その笑みは、静かに街を覆っていった。

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