悪役令息と婚約解消できないので更生させます
大きな毛虫をボテッと頭に乗せられた私が叫びながら思ったのは、
――ああ、あの絵本そっくりの”悪役令息”だわ。
ということだった。
「かっこいいだろ。やるよ」
なんて言うけれど、手の平より大きな毛虫を喜んで受け取るご令嬢がいるなら、ぜひ紹介してほしいものね。
その方に、私に代わってこのお方――ユリス様と結婚していただきましょう。
……なんて、そうはいかないことは分かっている。
ユリス様と私は、伯爵家同士で結ばれた婚約者。
そして今日はその顔合わせの日なのだから。
淡い金の髪に、深い金の瞳。
恵まれた容姿を持つ彼の噂は、以前から耳にしていた。
初めて彼を見たのは去年、小さな社交練習会で「俺はダンスなんかしたくない」とダンスパートナーの令嬢を泣かせていたところ。
「あのお坊ちゃん、なかなかやんちゃなお方のようですよ」
私の髪をとかす侍女の口から、自作の錬金薬で邸宅庭園の花を半分枯らした話や、子爵令息と取っ組み合いをして泣かせた、なんて話が語られる。
「白馬の馬車に乗りたい!」と駄々をこねたこともあったらしいけれど、白馬は王家の象徴よ? とんでもない令息ね。
「あんな子が婚約者になったら大変よね」なんて侍女たちの噂話を、私は他人事のように聞いていた。
――まさか、本当にそうなるなんて。
毛虫を頭に乗せたまま固まる私が思い出していたのは、幼い頃に読んだ絵本の話だった。
かっこいいけどワガママな王子様が痛い目を見る物語で、愛したお姫様は別の人と結ばれ、王子様は孤独のなかで自分を見つめ直す――そんな、学びの深い絵本。
私の栗色のふわりとした髪がお姫様と似ていて、ユリス様は容姿もやっていることも”悪役の王子様”そっくりだった。
絵本のように私も別の誰かと結ばれる――そんな結末は、私には訪れない。
毛虫をどけてもらったついでにこの婚約もやめてもらう、なんてことはできるはずもなく、私は、ユリス様の奥さんになる。それがもう決まってしまった現実だった。
……なら、遠慮なんてしていられないわ!
これから一生を共にする相手なら、せめて少しはまともになってもらわなくては困る。絶対困るもの!
嫌われたって構わない。私は私のやり方で、この”悪役令息”と向き合っていく。
そんな覚悟を胸に、十歳の私たちは学園へ通うためそれぞれの領地から王都の別邸へ移り住む。そして彼との”未来を見据えた”交流が始まったのだった。
「刺繍が趣味なんだって? つまんなそうだな」
「あら、楽しいですわよ。あなたとお話するよりずっと」
「なんだとっ!」
次のお茶会で、ユリス様はさっそく失礼を働いてくれた。
私はそれ以降口を利かず、彼の目の前で刺繍をしてみせる。
俺の趣味は魔物退治だ、魔法だって使えるんだと喚いていたけど、最後に小さく「……ごめん」という言葉が聞こえるまで、私が刺繍の手を止めることはなかった。
夏の暑い日、ユリス様邸の噴水前で、私たちは睨み合っていた。
「いいじゃないか! 微光蛙を20匹放つくらい!」
「ダメです! 伯爵邸の庭ですよ!? なんでいけると思ったんですか!?」
「夜きれいなんだよ! 見ればわかる!」
「カエルですけど一応魔獣なんですよ!?」
毛虫といいカエルといい、十一歳の男の子が興味を示すものが私には理解できない。
彼のお母様という味方も得て無謀な野望をどうにか阻止したけれど、逃げ出した一匹がなかなか見つからず、暗くなるまで庭中を探し回る羽目になった。
――でも、夕暮れのなかで淡く光るその姿は、たしかに幻想的で。
私は思わず呟いた。
「きれいですね……ユリス様」
彼は嬉しそうに笑っていたけれど――魔獣騒動は、これきりにしてくださいね?
「あんな乱暴な奴が婚約者で可哀想だな」と、十二歳にもなって女子に絡むコートン子爵令息から私を助けてくれたのは、ユリス様だった。
「ルクレチアは関係ないだろ!」
「な、なんだよ! 元はと言えばお前が悪いんだからな!」
そう言って咄嗟に振り下ろされた拳を、ユリス様は避けなかった。
人を殴った手ごたえに怯んだ子爵令息が逃げていく。人気のない学園の裏庭に、私達だけが取り残された。
「ユリス様! 大丈夫ですか!」
赤くなった彼の頬に、私は手を添える。
「……前に泣かせたもんな。……へへ。これで、あいつとはおあいこ」
少し恥ずかしそうに笑って、私の手の上から彼が手を添えた。
目の前で暴力を見たこと。ユリス様がやり返さなかったこと。
私は涙をこらえきれなくて……。
宥めようと慌てるユリス様の声だけが、静かな裏庭に響いていた。
「ルクレチアァ~! 来週の剣技の試験、イヤだ~~!」
「もう十三歳なんですから泣きべそはやめてください。やればできるはずですよ」
痛いからヤだと前々から鍛錬の愚痴をこぼしていた彼が、試験を前に泣きついてくる。私は机に突っ伏して喚く彼の髪を、指先でいじっていた。
――王子様のような容姿だというのに、本当にどこまでも自由な人ね。
「私、思うんです。子爵令息から庇ってくれたときのように、どんな相手にも果敢に立ち向かうユリス様は、きっととても素敵だろうなって」
「え!? ……そ、そうかな」
彼は当日、持ち前の負けん気で上位三位に入る成績を収めたらしい。
次のお茶会で大いに自慢してきたので、ユリス様が戸惑うほど大いに褒めてあげたのだった。
こんなふうに偉そうにしているけれど、自分が嫌になることだってある。
十四歳の誕生日を迎えてもつまらないミスをしてしまうし、分からないこともたくさんある。躓いてしまったときは自分が情けなくなってしまう。
「ルクレチア、なにか落ち込んでる?」
「……はい……」
彼に会うときくらい明るくいたほうがいいのかもしれない。
でも私は、彼の前で無理に笑ったり取り繕ったりはしたくない。彼に嘘をついたりお世辞を言ったこともない。ずっと自然体であり続けている。彼も私の前でそういてくれるから。
だから、弱音を吐いてしまう日だってあるのだ。
「どうしてもうまくいかない課題があって……私、ダメだなって……」
そう呟くと彼は、なーんだ、と笑った。
「できないことがあってもいいじゃないか。俺なんかできないことだらけだ!」
「……なぜ少し得意気なんですか」
あなたが課題や鍛錬をたまにサボってること、私は知っているんですからね。
でも、彼なりに励ましてくれていることは伝わるし、少し気持ちが軽くなったことは間違いない。
「……ふふっ、ありがとうございます。元気が出ました。――また落ち込んでしまったときは、励ましてくださいね?」
ほほ笑んだ私を、彼は一瞬ぽかんと見つめた。
「……あっ、そ、そうか! そうだ、任せてくれ!」
そう言って彼は、淹れたての紅茶を勢いよく口に運んで、「あっつ!」と情けない声をあげる。
もう、当たり前でしょうと、私はハンカチで彼の顔を拭いた。
頬がほのかに赤くなっていたけど……今さらこんなミスで照れなくったっていいのにね。
十五歳を迎えるころには、彼は見違えるほどまともになっていた。
ご両親からお礼を言われたけれど、誰より頑張ったのは彼自身だと思う。
そして学生生活の締めくくりとして、彼は三年間の留学へ行くことが決まった。
隣国はもう、私がお世話できる距離ではない。
「待っていてくれ。俺、必ず立派になるから」
晴れ渡った出立の朝。金の瞳を潤ませて、彼は隣国へと発った。
宣言通りさらなる成長を遂げてくるのか、それとも私というお目付け役がいなくなってのびのびと過ごすのか。
思いかえせば、彼にはたくさんの我慢を強いていたと思う。
私に付き合わせてしまったことは申し訳なく思うけれど――三年後、どうか元に戻っていませんように…!
そう願う気持ちのほうが、少しだけ強かった。
人様のことに偉そうに口出ししてきた私だって、今まで以上に頑張らなければならない。
勉学はもちろん、家政も領地経営もダンスもマナーも、どれも手を抜かず全力で学んでいるわ。私はユリス様と結婚すると覚悟を決めているから。
彼の駄目なところは私が人一倍――いいえ、二倍でも三倍でも頑張ればいい。
だから私のゴールは、まだここではないの。
――それに、忙しい毎日を過ごしていれば、寂しさを感じずにすむから。
この胸を締め付ける感覚が何なのか、それだけが私にはまだ、分からない。
私たちは手紙を通して、お互いの近況をまめに報告し合っていた。
今回届いた彼の手紙も……「これを頑張った」「あれを成し遂げた」といった内容がやけに多い気がするわね。
もしかしなくても、私に褒めてほしいのかしら。
「……離れていても手がかかるのよね」
くすりと笑って、さっそく返事のためにペンをとる。
『剣技大会での優勝、誠におめでとうございます。昨年の二位から見事に雪辱を果たされましたね。
私も自分のことのように嬉しくて、思わずお手紙を抱きしめてしまいました。
一度決めたら最後までやり遂げるあなたですから、きっと優勝なさると信じておりました。
さすが私のユリス様。そのたくましさで、きっと私のことも守ってくださいね。
そして魔導錬金の研究についても、とても興味深いお話をありがとうございます。
実は私も錬金術を学び始めたところなのです。
よろしければ、初心者にも分かりやすい本を何かご紹介いただけませんか?
あなたが戻られるまでにその本を読み尽くしておきます。
他にも新しく学び始めたことがあって、私のほうでは――』
気づけば便箋がどんどん積み重なっていく。
そうして今回も厚くなった封筒を、執事に託したのだった。
忙しい日々は、あっという間に過ぎてしまうもの。
そう感じるのは、私たちが一生懸命に日々を積み重ねていたからなのだと思う。
今日は、ユリス様が留学から戻られる日。私たちは十八歳になっていた。
帰国後しばらくご家族と過ごされるかと思っていたから、当日出迎えてほしいと頼まれたのは意外だった。
文通では穏やかな様子の彼だったけれど、でもどう変わったかは実際会ってみるまで分からない。
どうか暴君に逆戻りしていませんように――という私の願いは、予想外の形で裏切られることになる。
「――ルクレチア、会いたかった!」
「……ユ…ユリス様、ですか…!?」
馬車から降り立った彼はすらりと背が高くなり、体つきもたくましくなっていて、低くよく通る響きで私の名を呼んだ。
淡い金髪をさらりとなびかせて駆け寄り、私をぎゅうっと抱きしめる。
力強い抱擁に言葉が出ず、代わりに心臓だけが激しく高鳴った。
「あらあらこの子ったら、真っ先にルクレチアなのね? 加減なさいよ」
彼のお母様が、押しつぶされそうな私をほほ笑ましげに見ていた。
彼が帰国した今日は、三年に一度のランタン祭りの日でもあった。
願いを込めて火を灯した紙のランタンを空へと放つ、幻想的なお祭り――そんな特別な夜に、ユリス様は私を誘ってくれた。
帰ってきたばかりで疲れているでしょうに……と思ったけれど、馬車の中でも彼はとにかく元気で、再会を心から喜んでいるのが伝わってくる。
私はひとつ、気になっていたことを聞いてみた。
「ユリス様はあちらで、女性からの注目を集めていらしたのですか?」
「? いや、全然」
どうしてそんなことを聞くのかと、不思議そうな顔をしている。
物静かにしていれば王子様のような彼なのだけど、それで注目されないということは、本人が自覚していないだけか、それとも――
「……何かやらかしました?」
「やらかしていないよ、普通だよ」
この方の”普通”ほど信用できないものはない。
あなたの普通に、私は振り回されてきたのですからね?
彼は私の反応も気にせず話を続ける。
「あっちは魔導と錬金術を組み合わせた技術が発展していてさ。昔、錬金薬で少し失敗してしまったけど、魔導との組み合わせなら――」
「ええ。庭園の花を半分枯らしてしまったのですよね?」
「……なんで、知ってるんだ?」
「うふふ。秘密です」
引き攣った顔の彼に、私はにこりとほほ笑みだけを返した。
会場に到着し、先に馬車から降りた彼が、私に手を差し伸べる。
その表情は先ほどまで笑い合っていたものと違って凛々しく、まっすぐに私を見つめていた。
お祭りで浮かないよう、私たちは庶民風の服に着替えていた。――けれど彼の立ち居振る舞いやスッと伸びた背筋、その所作のひとつひとつが、隠しきれない気品をまとっている。
そんな彼の流れるようなエスコートを受けて、私は高鳴る鼓動を抑えながら馬車を降りた。
再会してからの彼には、何度も胸が高鳴ってしまう。
三年前にはなかった感覚が、今の私を揺らしていた。
「驚いてくれた? なかなか様になっているだろう?」
「……それを自分で言ってしまうと、台無しな気もしますよ」
「あはは、確かに」
歯を見せて笑っているけれど、格好つける気があるんだか、ないんだか。
そういう自然体なところは相変わらずなようで、つられて笑いが零れてしまう。
「じゃあ、行こうか」
促されて、私は気づいた。
「私達ふたりで行くのですか? 護衛の方は――」
「君は手紙で、”誰に守ってほしい”と言っていたっけ?」
彼が二ッと笑う。
「これでも剣の腕は立つ方だから、心配しないでくれ」
左腰に下げた剣にさり気なく手を添えながら、彼が言った。
あの自慢屋の彼が、剣技大会でトップの成績を収めた実力を「腕は立つ方」と謙遜できるなんて――私はそちらに驚いてしまう。
「今……謙遜しました?」
「……そっちかぁ」
私たちの会話は微妙に噛み合わない。
それが面白くて笑い合うこの感覚は、手紙では伝わらない、三年ぶりに感じた温度だった。
「――あ、ユリス様。あれをご覧になって」
賑やかな屋台のひとつを指さすと、彼がそちらへ視線を向ける。
「ん? ……微光蛙ふうせん?」
まん丸としたその形は小型魔獣・微光蛙を模したもので、淡く光りながらぷかぷかと浮いている。子どもたちが楽しそうにその屋台を取り囲んでいた。
「……あー……もしかして、根に持ってる?」
彼が頭をかきながら苦笑する。あの日の睨み合いを思い出したようだ。
「いえ、男の子の憧れがよく分からないだけです。欲しいですか?」
「……少し……あっ、いや、全然!」
肯定しかけて慌てて首を振る姿を見ながら、こんなに体が大きくなっても嗜好は変わらないものなのね、と、彼の不思議な生態をひとつ理解したような気がした。
広い会場を歩いていても疲れを感じないのは、彼が自然に歩調を合わせてくれているからだと気づいたのは、もうすぐ広場に着くという頃だった。
私たちは三年間を埋めるように互いのことを話す。
彼は留学先で楽しく過ごしていたようで、思い出話が尽きる様子はなかった。
しかし、話の合間からちらほらと“それなりのやんちゃ”が見え隠れしているのは気のせいかしら。
手紙にはそんなこと、書いていなかったはずだけど?
「……ユリス様。炎魔法を教室で使って、芋を焼いたのですか?」
「あ」
しまった、と一瞬見せた表情は、昔の悪童のままだった。
「…お怪我がなかったのならいいのですけど。周りにご迷惑をかけ――わっ」
「おっと」
混雑する会場で人にぶつかりよろめいてしまった私を、ユリス様が大きな手で受け止めてくれる。
「なかなか混むな。俺から離れないように」
「は……はい」
私はつい昔の彼を窘めようとしてしまったけれど、心配しなくても今や立派な紳士なのだと、力強い手から伝わる体温が教えてくれた。
広場へ到着し、私達もランタンをひとつ購入する。
彼の手の甲に私の手を重ね、芋を焼いた自慢の炎魔法が願いの火を灯した。
私の願いはただひとつ。
――何があってもずっと、この人のそばにいられますように。
人々の願いをのせた光が夜空へ舞い上がる。
本当に美しくて、涙が出そうなほど幻想的で、私は胸がいっぱいになった。
「――どれが私たちのランタンでしょうか…。見失ってしまいました」
「俺も分からないけど、いいよ。俺の願いはすぐそばにある」
「え?」
ぱちりと目が合うと、彼は柔らかく笑んで少しだけ首を傾げる。
深い金色の瞳が、どのランタンの光よりも美しかった。
「ルクレチア。君はどこまで魅力的になるんだろう」
「……ユリス様?」
「俺も君に追いつけるように頑張ったのだけど……うぬぼれていたよ。まだまだだな」
どこか寂しそうに自嘲する彼を見上げて、私は一瞬きょとんとしてしまった。そしてつい、ふふっと笑いが零れてしまう。
「そんなことありませんよ。自らを卑下しないで」
――まだひとつだけ、彼を窘めなければならないことが残っていたようね。
「あなたは見違えるほど立派に成長されました。――でもそれは、すべてあなたが元々持っていたものですよ。どうか誇ってください」
私を見つめる瞳に、偽りのない本心を伝える。
「私は、あなたを誇りに思います」
小さい頃からずっと見てきたから分かる。
あなたはまっすぐで、ちょっと不器用で――でも、ちゃんと努力できる人。
悪さばかりしていた時期もあったけれど、可能性もたくさん秘めている。
これからも素敵になっていくあなたの姿を、どうか隣で見守らせてほしい。
「――今までのすべてが報われた気がする。……嬉しいな、本当に」
そう言って彼は顔を逸らす。
見上げた横顔は赤く染まっていて、耳まで色づいている気がした。
「ルクレチア」
「はい」
「俺を見捨てないでくれて、ありがとう」
「……!」
彼が私の手を優しくすくい上げ、手の甲へ口づけた。
彼の大きな手に乗せられた私の小さな手。
触れた唇が、とても熱い。
その熱で私は気づいてしまった。
これまでずっと言葉にできなかった、胸の奥の感情に。
いま、長いときを経て、追いつこうとしている感情に。
そうか、これは――――
ランタンが天にのぼる景色よりも輝いている、彼の瞳に見入られて。
たぶん私は、いま。
落ちるように、恋をしている。
- fin -