(6)
そっと地面に私の足を降ろしたブラックは「すみません」と短く謝罪した。
こちらが怒る前に謝られたら、何もいえなくなってしまう。休み明けカナイに嫌味をいわれるのも、黒王子がチラ出することにも覚悟しておこう。
「お花見、楽しめましたか?」
その台詞が、ほんの少しの寂しさを含んでいるような気がして私は答えられずに話題を逸らした。
「これ書斎から見える桜?」
ブラックが私を連れてきたのは少し小高い丘になっている場所にある大きな桜の木の下だった。
そっと太い幹に手を触れて見上げると、瑞々しい枝が視界一面に広がっていて多くの花を咲かせている。
月も夜も全て覆ってしまうくらい見事な桜だ。
もしかしなくてもきっとこれは私が最初に落ちてきたときに引っかかった巨木だろう。
あのときは葉の頃で、一目では私には桜だとは分からなかった。
そんな余裕もなかったし。思い出すと少し懐かしい。
「マシロ」
名を呼んでブラックは後ろから私を包み込んでしまう。
幹に掛けた腕すら逃すのが惜しいように、大きな手で包み込んで抱き込み私の首筋に頬を摺り寄せる。そんなブラックの仕草に、私の身体はアルコールの熱が戻ってきたように火照ってくる。
「紛らわせることは出来ましたか?」
か細く掛けられる言葉に私は疑問を感じる。
「何を?」
浮かんだ疑問をそのまま問い掛けると、ブラックは少しだけ逡巡したあと言葉を繋ぐ。
「寂しさです」
「……私、別に寂しくなんてないよ?」
「誤魔化さなくて良いですよ。私は貴方から世界を奪ってしまいましたから……貴方がそれを寂しく思わないはずはないのです。現に『お花見』も」
「違うよ! 違う違うっ!」
私は「違う」を連発して暴れるとブラックの腕を解いて彼を振り返った。
ブラックは困ったように眉を寄せ私をじっと見詰めている。
「お花見は、ブラックの気分転換になればと思っただけだよ。私はまだこっちの季節の楽しみ方なんて知らないから、だから結果的にこんな話になってしまって、物珍しさに人まで集まってしまって、結局ブラックのためにはならなかったかもしれないけど」
決して自分の寂しさを紛らわせるためとか、そんな理由じゃない、と強く力説した私にブラックは驚いたように瞳を瞬かせた。
「そりゃね、忘れないし、気にならないわけじゃない。でも私はあのまま元の世界に居たらきっと腐ってたと思う。ブラックが迎えに来てくれたとき、凄く嬉しかったし、ほっとしたの」
そういって真っ直ぐにブラックを見上げると、ブラックの瞳は泳いでいた。
刹那、言葉に詰まったあとブラックは、はあと脱力したように嘆息して私に軽く寄り掛かる。
「まだ酔ってるのかな……幻聴が」
「幻聴じゃないから」
―― ……どこから否定しているんだ。
眉を寄せた私にブラックはふふっと笑う。
「マシロは不思議な人ですね。私の心が見えるんですか? 私の欲しい言葉を直ぐに探し当ててしまう」
そんな魔法使いみたいなこと出来ないよ。
私は腹の中で笑ったが、そう思ってもらえるなら恥ずかしいのを我慢して口にした甲斐もあったものだ。ほんのり暖かくなる心に嬉しくて顔を綻ばせると、ブラックが顔を上げていた。とてつもなく優しくて柔らかい目で私を見る。
「マシロは、私が貴方を迎えに行ったときどれだけ怯えていたか分かりますか?」
「そうなの?」
「そうなのですよ。何かに怯えたり怖いと思ったりそんなこと感じることはないと思っていたのに、あのときは酷く恐ろしかった」
ゆっくりと言葉を紡ぎだすブラックを見上げていると、綺麗な指先が私の頬を撫でていく。
「もし、マシロが私のことを忘れてしまっていたら、もし、マシロが他の誰かを愛していたら……もし、マシロが私の手を取ってくれなかったらと」
「ば、馬鹿みたい」
そんなことあるはずないのに。
ていうかあれだけ自信満々で、さも当たり前というように私の手を引いたくせに……本当に馬鹿だ。
「……ええ、本当に馬鹿ですね? そうだとしても私は奪い囲うつもりもあったのに」
いってそっと私の唇に触れる。
啄ばむように口付けたあと「何より」と前置いて、凄い至近距離で私の目を覗き込むとふっと瞳を細める。
「マシロはこんなに私に溺れているのに」
「自惚れてる?」
「はい。もちろん」
私もですから、と続けて私の上唇をつっと舌で撫でる。そして、そのまま僅かに開いていた唇を押し開いて口内に割り入ってきた。
ざらりとした感触が上顎を撫で口内を犯していく。
強い口付けに頭の中が真っ白になり身体に力が入らなくて縋りつく。
「……っん……ぁめ」
くぐもった声の中に意味のありそうなものを感じたのか、少しだけ私を解放して「あめ?」と問い返したブラックに私は腕を突っ張った。
息が上がって、心臓がばくばくいってるし膝に力が入らなくてふらふらなんだけど。
「だ、めだって、いってるのっ! ここ、どこだと思ってるのよ!」
「夢見草の下ですね? ロマンチックじゃないですか? マシロは甘美的なのは嫌?」
「……外なのが問題でしょっ! 誰かに見られたらどうするの?」
「見せ付ければ良いじゃないですか? 誰も咎めませんよ」
ぎゅっと拳を握った私にブラックは慌てて取り成す。
「そうですね! 外は拙い。可愛いマシロが乱れる姿は」
バキッ!
酔っ払いは口を慎め。
私の怒りの鉄拳にワザとらしくしゃがみ込んだブラックを無視してずかずかと丘を下っていく。
ここからなら屋敷までそう遠くないのは分かっている。
迷子にもならないだろう。
ちらとだけ後にしてきた桜を見て足を止めたが、直ぐに一歩踏み出す頃には隣りに何事もなかったようにブラックが並んでいた。
「たまには歩いて帰りましょうか?」
「……そうだね。帰ろうか」
どちらからともなく指を絡めて繋いだ手にきゅっと力を込める。
遠くにありて思うもの……きっとそれが故郷というもの。
そして今私の居場所はここにある。
それにしても、あのときのブラックが怯えていたなんて微塵も感じなかった。流石というか何というか……可愛いよね。
―― ……ああ、やっぱり私も終わっている。
そう実感してしまうことが、こんなに幸せだなんて私は予想もしていなかった。
「今度は二人でお花見しようか?」
「そんなに花見が好きなのですか?」
「そうじゃなくて」
「ふふ、分かってます。そうですね、良い場所を探しておきましょう」
「じゃあ、私はお弁当を」
「それは一緒に作りましょう」
「―― ……どういう意味?」
「一緒が良いだけです。深い意味はありません」
「……そう……なら良いけど……」
「はい」
ふんわりにっこり微笑まれ、私の頬まで緩む。笑顔は感染するものだ。
諦めにも似たそんな気持ちに温かさを感じる。
桜の根元まで長く伸びていた二人の影が完全にその場所から離れてしまっても、仲良く絡まった指先が離れることはなかった。




