黒猫と種屋
※ エミルサイド ※
「どういうつもりですか?」
始業前の医務室。
真白と別れて真っ直ぐにそこを訪れてエミリオは開口一番から怒りを露わにしていた。
手には真白から返却を頼まれたマグカップが握られている。それをちらりと見たエルリオンは短く嘆息して「ああ」と頷いた。
「運が良ければ口にしてもらえるかと思ったのですが、無駄になってしまったんですね?」
「マシロにこんなものを作らせて、彼女は何も知らない! 何も知らないマシロにブラックを殺させるつもりですか!」
普段温厚な分だけ、その声には凄みがあり、聞いたのがカナイたちであってもぎくりとしただろう。けれど、エルリオンは眉一つ動かすことなく、唯一、細く長い息を吐いただけで、座っていた椅子を、キィと揺らした。
「でも飲まなかった。結果は伴っていないわけですから良いじゃないですか。闇猫は悪運だけは強いようですね」
エミリオはエルリオンの傍に歩み寄ると、机の上に空になったマグカップを湧き上がる怒りとは、対照的にそっと置いた。
「しかし、流石ですね。よく分かりましたね?」
机上に置かれたカップを見詰めて、くつくつとエルリオンは笑いを零した。エミリオは些か呆れたというような溜息を吐き話を続ける。
「これがそうだとは思いませんでしたが、昨日解熱剤だとマシロに渡した薬を拾ったときにおかしいと思いました」
「ふふ。あれも素直に飲んでくれれば良いのに……本当に、悪運の強いことです」
「ブラックに関して、貴方は信用ならないと判断した。だから昨日は僕がついて作らせた……今日もそのつもりだったけど出遅れたから、もしもの危険のあるものを口にさせるわけにはいかないでしょう? 少々乱暴な手段だったかと思いますが……」
ぽつぽつと口にするエミリオの言葉を最後まで聞いてエルリオンは口角を引き上げた。
「種屋なんてなければ良い。貴方だってそう思うでしょう?」
くすくすと普段の笑みとは掛け離れた怜悧な笑いを零し、そう紡ぐエルリオンを恐らく真白が目にしたら悲しそうな顔をするだろう。そう思うと、怒りよりも切なさがじわじわと心から染み出してきて、エミリオは眉をひそめ、短く嘆息した。
「種屋は無くなりません。ブラックがもし死んでも種屋は無くならない。だから彼の死に意味はない」
違いますか? と重ねられ、エルリオンはのんびりと「そうですねぇ」と相槌を打ち、ぼそぼそと「意味はない、か……」と零した。エミリオ自身。そんな言葉を吐いた自分もよく分からない。命にそう大した意味はない。それは自分たちももちろん、種屋も例外ではない。この世界のものならば、皆、そう思っているはずだ。例え、明日自分の命が尽きても何も感じだないだろう。それが普通だ。
今自分が口にしていることの方が“普通”じゃない。けれど、真白を見ていると、それが普通じゃない自分の感情の方が尊いもののように感じられて、どこか心地が良かった。
だから、エミリオは話を続ける。
「それに、あんな男でもマシロは愛してます。僕は彼女を悲しませたくはない。もう、馬鹿なことを考えないで下さい。彼の命を狙うのは自由。貴方以外にも多くそう考えている者は居るでしょうから。ですが、彼女を利用することは許さない。自らの手は汚さず、人が唯一信頼している者を利用するなんて種屋にも劣る」
きっぱりとしたものいいでいい放ったエミリオに、エルリオンは自虐的な笑みを浮かべて「種屋にも、劣る……ね」と口内で繰り返し呟いた。
エミリオには、エルリオンと種屋との間にどんな因縁があるのか分からない。
因縁などなくても、種屋というだけで恨みに思うものも多いだろう。常に種屋は世界の暗い部分と共にあり、人々の闇を背負っている。
それだけで、十二分に恨まれる価値があるというものだ。
「僕、少しだけ考えを変えたんですよ……」
「王族である貴方が、種屋との共存とかいい出しませんよね?」
「まさか。そんなもの、争いの火種にしかならない。種屋はどこにも属するべきじゃない。その結果が招いたことはこれまでの歴史でハッキリしている。それなのに人は繰り返すでしょう?」
そう、このまま彼はどこにも属するべきじゃない。
寄り添うものが必要ならば、それは天が示すのと同じように、白月の傍らであるべきだ。
「世界が忌むべきは種屋のあるべき姿、彼個人ではないのだと」
まあ、個人的な恨みはあるので、僕はブラックが好きじゃないですけどね? と笑ったエミリオにエルリオンは暫らく呆気にとられたものの、ふと我に返れば「なるほど」と重ねて堪えきれないという風に笑いを零した。