第四十八話:夢の終わり
「じゃあ、僕もあっち側いってアレ鎮めてきます。マシロちゃん。僕もマシロちゃんの頑固のところも強がりなところも大好きです」
お姫様の護衛は王子様に任せますね。と、エミルににこりと微笑んだアルファは、湖から姿を現したクビナガリュウに翼を付けたようなファンタジックな水竜に動じることもなく一瞥した。
そして、もう一度振り返ると、騎士らしく膝を折り、私の手を取るとその指先に唇を寄せた。何もいえない私に「さようなら」と、にっこり微笑んで地面を蹴ると、水面から姿を見せた竜の胴体をステップにして反対側へと移動してしまった。
じわりと熱を持つ指先を胸元で包み込んでその姿を見送る。
「大丈夫、二人ともこの世界でも随一だから」
いつもの王子様スマイルでエミルはそういってくれるけど……水竜、あっち側の木ぼこぼこ倒してますけど……出てくるなり大暴れです。
まだ湖から半分身体を出しただけで。
それに見上げる程度には違いないけど、見上げてたら首が痛くなるくらいは大きいよね? これも想定内? 私は想定外だけど。
「んー、この湖の周りはね、花の頃は圧巻なんだよ。全部の木が薄紅色の小さな花を大量につけてね。すごーく綺麗で、まるで桃源郷のようになるんだ。僕は、小さいときよくこっそり館を抜け出して来てたんだけど……以前会ったときは大人しくて、もうちょっと小さかったんだけど、栄養状態が良かったんだね?」
「エミルー?」
呑気なエミルに声を裏返すとエミルは、ふふっと笑って「大丈夫だよ」と重ねる。そして、本当に水竜のことは全く気にしていないのか、ふと空を仰ぐ。
「今夜は月が暗くなるのに星があまり見えないね。本当に不思議な夜だ」
水竜が上がったら湖に近寄るよ。と、エミルに確認され、私はこくんと頷いた。
それとほぼ同時に湖は実は海だったんじゃないかという波を起こし、水竜は水から上がり鎌首をもたげて地面ごと抉る。
地面が揺れた気がして私はエミルにしがみ付いた。
エミルはその肩を引き寄せ、私の耳元に頬を寄せて「大丈夫だよ」と重ねてくれたけど、その瞳は直ぐに夜空を仰ぎ注意深く凝視する。
私は少しだけ、その視線の先を追いかけたけれど、それよりやはり、カナイやアルファが心配だ。
びゅっと風を切るような音が聞こえると、竜の四肢から鮮血が散り赤い光の縄が暴走していた鎌首を押さえ自らが切り倒した場所へと引きずり込まれようとしている。
血に驚いた瞬間、私の腕に力が入りエミルが空から顔を戻すと「心配いらない」と、重ねて「行こう」と足を踏み出した。
竜が暴れて大きく両翼を広げ空を仰ぐから……辺りには絶え間なく強風が吹き荒れ木々を揺らしているというのに、私たちの周りは静寂に包まれているようだ。
エミルは、水辺に膝を着くと持ってきていた薬瓶を取り出し、一度だけ月を確認する。そして、きゅぽんっと可愛らしい音を立てて蓋を取ると透明な液体を湖に流した。
魔法液は湖面を這うように広がり七色に輝いたあと元の色に戻った。
「もう直ぐだね。マシロ……マシロ?」
エミルの手元を見守っていたものの、どうしても水竜が気になって私はまだ納まっていない騒ぎに気を取られていた。
エミルに何度か呼ばれていたのだろう、肩にそっと触れられて初めて気が付くとエミルはこんなときまで他人の心配? と苦笑していた。
「他人? 確かに他人だけど、友達だよ。心配するよ。それにカナイの怪我は私の責任だし……どうしよう、二人に何かあったら」
水面も気になる、二人も気になる。その両方を案じてきょろきょろする私にエミルは短く嘆息した。
「そんなにマシロに心配してもらえるなら、僕もあっちに加われば良かったな。ギリギリまで一緒に居られるから役得だと思ったのに」
「え! 駄目だよ。私、エミルに護ってあげるって約束したのに、ああ、でも全然実行出来ていないけど」
ご、ごめんね? と重ねて振り返るとエミルは「十分だよ」と笑っていた。
「僕は、マシロにたくさん救われてると思うよ。キリアからだって僕の意思を護ってくれたよね?」
アルファ……心配するからエミルには内緒だといったのは貴方じゃなかったかなぁ? うぬぅ、と難しい顔をした私に、エミルはくすくすと笑いを零し「アルファが僕の誘導尋問を交わせるわけないよ。だから責めないであげてね」と繋いだあと、ふわふわと私の頭を撫でる。
確かに、エミルに笑顔で問われたらかわせない気がする。妙に私が納得してしまったのに気が付いたのか、エミルはふふっと楽しそうに口元を緩める。
「だからもう、十分だよ。それから、あっちの二人も大丈夫。確かにカナイが本調子ならもっと騒ぎにならないまでに終わってたと思うけど、でも、助っ人が来るから」
「助っ人?」
「うん。来るといったからきっとくるよ。マシロが今ここに居るから信じられる」
直ぐに、きっと……と呟いたエミルの声が風に流されていくのと同時に赤い光の縄がぶつんっと切れ、その反動に、ずんっと水竜が身体を横たえた。
「ほら、ね」
それらの攻防は、私たちからとても離れたところで行われているというのに、その姿は私にははっきりと分かった。
「ブラック?!」
夜の闇の中でも、月が殆ど隠れ明かりが乏しくても、私がその姿を見間違えるはずはない。
ブラックはちらとだけこちらを見た気がする。
気がするだけなのに、私の胸はぎゅっとしまり息苦しさを覚える。
自分から離した手を、後悔なんてしない。そう、思っているのに……彼の姿に心が震える。
そんな気持ちは私の一方通行なのか、ブラックは、真っ直ぐにたち、顔を伏せることをしない。
いつでも、ブラックは真っ直ぐだ。
そしていつものように、こつん……っと地面を杖で弾くと、ごんっと重たい音と共に以前大聖堂で見せられた赤い檻を出現させた。
しんっと辺りに静寂が戻ってくる。
「時間だよ……。マシロ、急いで」
その声と湖面から湧き上がった光に、私は湖に引き寄せられた。
空を仰ぐと青い月が全て飲み込まれ、白い月の淵のみが丸く残っている。
しかし、闇に覆われることはない。
背にしてきた方角では、七色の明かりがキラキラと明滅と大きな音を響かせる。きっとパレードの終わりを告げる花火だろう。
「赤くなるのはこっちだったんだ……」
湖は赤く染まって煌いていた。
カナイのいっていた“血のように赤い”というのとはちょっと違う、宝石のように赤く澄んでいてとても美しい。
行って、と、エミルに背を押され、それよりも湖面からお呼びが掛かっているのが分かる。
行かなくては。
じりっと水辺へと足を進める。
私が踏みしめている土はアスファルトに変わり、道を行きかうのは馬ではなく車になる。
私には普通の現実が戻ってきて、いつもの毎日が繰り返される。
それが普通で、それが私の世界。私が居るべき場所だ。
―― ……間違えてはいけない
……これは、夢……なのだから。
きゅっと、唇を噛み締め両手で作った拳に力を込めた。
小刻みに震えてしまうのを何とか我慢する。
私が躊躇しているのを、迷ってしまっているのを悟られるわけにはいかない。
私は、帰るのだ。
何かを選ぶということは……選ばなかったもう一つの道に囚われてはいけない。と、そう、思う。思わなくてはいけない……私はシル・メシアを選ばなかった。
私はこの世界を、彼らを捨てて、帰る…… ――
「二人に有難うって伝えて。シゼにも迷惑掛けてごめんって……エミルも、有難う」
私、帰るね。と、なんとか微笑んだつもりだ。
今一歩、踏み出した私に思わず腕を伸ばしかけてくれたエミル。同じように迷ってくれていることが嬉しかった。
だから、苦し紛れに「じゃあ、また」なんていってしまった私に、エミルも微笑んでくれていたと思う。
最後に一度だけ、
もう一度だけ、
ブラックの方を見た……
けれ、ど、目を合わせることが出来たかどうか……
私の視界は濡れていて、良く、分からなかった。
足先の触れた湖面は、膜を張ったような弾力があり足元から上がる小さな赤い飛沫が私の軌跡を消していく。
陸地から十分に離れたところで、私が足を止めるとそれを待っていたように、足元から水がざぁぁあっっと競りあがり、あ、という間もなく私を飲み込んだ。
私は、また、落ちる。
たった一つの願いを残して…… ――
―― ……さよならといえなかった、私を許して…… ――