第四十五話:かぐや姫は迷わない
清潔そうで品のある客室はあの日と変わらない。
天蓋付きのベッドのカーテンの奥に、私が着ていた制服がおろしたてのように皺一つなく並べられている。
その傍で私を下ろすと、肩に掛かっていたタオルで丁寧に水滴を拭ってくれる。
時折、口付けられたり撫でられたりするとくすぐったくて身を竦めてしまう。物凄く羞恥を感じて身体が火照るのに嫌だと拒絶は出来ない。
―― ……これが、最後だから。
私は今夜帰る。
元の世界に……。
きっと、とても心配している家族の下に……。
友達は普段どおりの生活に戻っているだろうけど、私が戻ってもお座なりな態度で心配し迎え入れてくれるだろう。
「ねぇ、マシロ」
するりと襟にリボンを通し上手に結んでくれながら声を掛けられ、私は思考の海から上がった。
「以前私は二つ月の話は悲恋だといったマシロの見解を、短絡的だといいましたよね」
「え……うん。覚えてるよ。少年の望みは叶ったから別に不幸ではないし悲恋とはいえないって、確か、ブラックがいったんだよね」
私の言葉にブラックはこくんと頷き、きゅっとリボンの形を整えてくれると、化粧台の前に促して腰掛けさせる。
鏡に映る私はあの頃と変わらない。
友達と毎日通った学校の制服姿。
特に代わり映えしない毎日に抵抗すら感じなくなっていた平凡な私。
ブラックが濡れた髪を丁寧に拭いてくれると不思議と直ぐに乾いてしまう。便利だ。
「やはりあれは悲恋ですね。青い月の少年は、確かに少女を見詰めているだけで、満たされていたでしょうけれど……それすら取り上げられ永遠に沿うことも叶わない。傍にあるのに手が届かない、唯、その手の届かない世界で、少女が罰を受けていることだけは知っている。自分にはどうすることも出来ない、白い月の少女が与えてくれた、淡く、優しい恋心だけでは、到底……その事実を上塗りできるほど少年も自分本位ではいられないでしょう」
それこそ、長く永遠に感じる苦痛だったでしょうね。と、締めくくったブラックの表情は鏡でも確認出来なくて分からなかったが、以前のブラックからは絶対に聞くことの出来ない思いだと思う。
他人の不幸を思い、自分が苦しくなることがあるだなんて、考えることもなかったはずだ。
ブラックはとても柔らかくなったと思う。だから褒めてあげたいような、嬉しい気持ちになったというのに
「これ、壊しても良いですか」
「やめて」
カナイから貰った魔法石の髪留めを片手にそういったブラックを即座に止める。
前言撤回。
相変わらずだ。
「では、やめます。面白くないですが、貴方にとても良く似合うと思いますから」
少々不貞腐れた顔をしているものの、梳かしつけてくれていた髪にそっと戻して鏡越しの私にそういって頭に口付ける。くすぐったくて肩を竦めた私をブラックは後ろからぎゅっと抱き締めた。
「もう、一度だけ、聞かせてください」
少し声が震えている。
ブラックにそうさせているのは私だ。
それだけで私の心は重く沈み冷たく凍りそうになる。
「マシロ……白い月へ帰ってしまうのですか?」
前で組まれたブラックの腕に手を掛けてそっと撫でる。
―― ……綺麗な手。
人を傷付けたり平気でしているようにも武や術、智、その全てに秀でているとは正直想像出来ないくらい……私にとって愛らしい存在だ。
「私が帰るのは、月じゃないよ」
苦笑する私にブラックは首を振る。
「私を青い月の者だと語るものが居る以上、貴方は白い月の少女です。私に美しいときを見せ、そして去っていく……貴方に何の咎もなければ良い。そう、思いますが……ここに残っていただければもっと良いと思います。ここでなら、私は貴方の望みの全て叶えて差し上げられます」
なんとかブラックの顔を見ようと身体を捩ると、ブラックは顔を上げて腕をほんの少し緩めると私と目を合わせてくれる。
また、泣きそうな顔をしている。
だから、きっと私はこんなに落ち着いているのだろう。そっと手を伸ばして頭を撫でると心地良さそうに耳が垂れる。
「ごめんね……ブラック」
「……謝るくらいならここに居てください」
そういったブラックに私は言葉が続かない。
もう私に残されたブラックが喜ぶ台詞は一つだけだけど、私はそれをいうことは出来ない。
私は帰らないと……。
困り果ててじわりと目頭が熱くなってくると、ブラックは、すっと身体を引いて顔を上げ「すみません」と短く詫びて私の手を引くと立ち上がらせる。
「私は王都の入り口までしか送りませんが、構いませんよね?」
「え……うん」
瞳を瞬かせて頷いた私にブラックはにこやかに「良かった」と続ける。ズキンっと胸が痛む。
「ギリギリまで貴方を見送るなんて拷問、私には耐えられませんから」
行きましょう。と、手を引く。
引かれた腕が痛む。
胸がズキンっとまた軋む。
痛い。苦しい。
別れが苦しくなるのくらい分かってた。
でも、コレは想像以上に凄く、苦しい。
強がる彼の背が愛しい。
直ぐにでも抱きついてここに残るといってあげたい。
そうすればきっと彼は、また嬉しくて、泣いてくれるかもしれない。
顔を伏せぎゅぎゅぎゅっと目を固く瞑る。
駄目だ。駄目だ、駄目だ
……私は帰る……帰らなくちゃいけない。
私の世界はここじゃない……ここではない、全く違う別の世界
分かってる、分かってるのに、
……苦し、い。
足を進められない私にブラックが振り返る。
「苦しい、よ」
ぎゅううぅっと胸元を握り締めて口にする私の顔を覗き込み、大丈夫ですか? と、心配そうに眉を寄せる。
落ち着いているつもりだった、泣かないつもりだった、だって置いていくのは私で置いていかれるのはブラックで、そして、そう決めたのは私だから、私が泣くことは許されないと思っていたから。
「身体、まだ辛いですか? 何か薬を用意しましょうか?」
私の痛みの理由なんて、私の勝手だから分かるはずもない。
―― ……でも、涙が止まらない。
「好きだよ。大好きだよ。でも、私、これからの方が長いことくらい分かるのに、どうしてもこれまでが捨てられない。私が馬鹿なのは分かってる。でも、捨てられない。貴方のことも、みんなのことも、とてもとても大切なのに……どうして、残るといえないんだろう。残ると決められないんだろう」
息を詰めながら紡ぐ私の言葉をブラックは黙って聞いてくれていた。
そして、そっと私を抱き寄せると片手で涙を拭い目じりに口付ける。
「以前の私なら……こんなに苦しむ貴方を見るくらいなら消して差し上げたと思います。もう、苦しむことのないように。思い悩むことのないように……ですが」
すみません。と、続けて、鼻の頭に頬に唇に順番に口付けて優しく瞳を細める。
「私は弱くなったのか、貴方だけはやはり消せないと思うんです。そして、無理に貴方をこちらに閉じ込めておくことも出来ない……不甲斐なくて申し訳ありません」
ブラックは何も悪くない。
悪くないのに、優しく私を宥めるように謝罪する。
私が悪いのは明らかなのに、それを考えなくて良いように悪役を務めてくれる。
「マシロ……私の本当の名はルインシル=ミアといいます。青い月の玉という意味で私には過ぎた名だと思い使ったことはありません」
「―― ……」
ふと話を始めたブラックに、何をいうのだろうと、きょとんと不思議そうな目を向けた。涙がまだ瞳には掛かっていて、ゆらりとブラックの輪郭が揺れる。
そんな私の頬を撫で「ねぇ、マシロ」と甘く呼びかける。
「使われない名もあってないようなもの。この世界も貴方にとって唯の夢幻。貴方が何度も重ねたようにこれは夢、とても長い夢を貴方は見ていて今それから覚めようとしているんです。明日、目を覚ました先が現実」
「でも」
「貴方が苦しむことはない。大丈夫……ちゃんと、目が覚めます」
ちゅっと目元に寄せられた唇が、目尻に溜まった涙を吸い取っていく。
そして、私にとって有り得ない塊でしかなかった猫は私に囁く。
―― ……そう、これは夢。とてもとても長い夢です……