第四十四話:二人を繋いでいた証
お日様が天辺を通り過ぎた頃、私はベッドから抜け出しブラックに勧められるままお湯を借りた。
ぽちゃん……っと天井から雫が落ちてきて乳白色のお湯を弾く。
寮にはシャワーしかないから、ちゃんとしたお風呂に入ったのは凄く久しぶりで、凄く気持ち良い。日本人だもん。お風呂は好きだよね。ゆったりと足を伸ばし長く息を吐く。
「……あったかい」
何だか頭がぼんやりとする。
甘かった。
私の考えは甘かった。
確かに優しくするとはいわれなかったけど、傷付けるって最初から明言されていたけど。
悪い思い出にはなりようがないけれど、確かに忘れられない夜にはなったと思い、ます。はい。
脳裏に蘇った記憶に勝手に赤面して私が大きく頭を振ったところで「マシロ、入りますよ」ともう手の届く距離でブラックが告げる。
私は、入ってからいわないでよ。と、眉を寄せたけれど、何の意味もないだろう。
口ではすみません、と、微笑むが悪いなんて微塵も思ってはいないだろう。ブラックのこういうところは最初からだ。
傍で、すっと膝を折って私の濡れた髪を掬って口付けるとにっこりと微笑む。
なんだろうこの甘い感じ。
私は凄く恥ずかしくなってぶくぶくと身体を沈める。
「そういえば、聞き忘れていたのですが、どなたがここに行くようにマシロに勧めたのですか?」
私のくるりとまとめてあげていた髪をといて、湯船に潜らせていたブラックは、不意にそう口を開く。私は沈めていた顔を上げて首を傾げる。
「マシロのことですから、分かりますよ。恐らく自分の意思でここまで来て頂けるとは、幾ら常春な私の頭でも考えません。誰かが行くように勧めたのでしょう?」
「……む……そう、いわれれば、確かに……エミルだけど」
図星を付かれて何だか面白くない。
面白くなく思った私の気持ちを知ってか知らずかブラックは、やっぱりという顔で苦笑した。
「マシロは、人を疑ったり利用したりということを考えない人だから、分からないかもしれませんけど、明らかに私はダシに使われていますよね。この場合責められたものではありませんけど……」
きょとんっとした顔をしていたのだろう。ブラックは困ったように微笑んで話を続ける。
「無駄に終わったと思いますが、可能性はゼロではなかった」
「え?」
「王子は、私が貴方を引き止められるのではないか。と、思ったのだと思いますよ。貴方がこの世界に残りさえしてくれれば、時間は幾らでもあるし機会は幾らでもある」
人の心は移ろうものですからね。と、締めくくったブラックの言葉に私は急に別れ際のエミルを思い出し顔が熱くなった。
顔が赤いですよ? と、指摘したブラックに、それはお風呂のせいにして口先だけで誤魔化した。そんなものが通用しない相手だということくらい分かっていたけれど。
ブラックは案の定、訳知り顔で苦笑して「なるほど」と頷く。
「のぼせてはあとが辛いですよね、上がったほうが良いですよ」
と、続けて濡れるのも気にせずに湯船に両腕を突っ込む。そして、有無をいわさずに私を引き上げ抱き締める。
「ちょっ! 何やってんの! 濡れちゃうよ?」
「本当は私も一緒に入りたいくらいですけど、自制心がもちませんからね。服くらい濡れても何の問題もありませんよ」
それに貴方が何も着ていないのは都合良いです。と微笑まれ、心臓がどくりと波打ち、顔が益々赤くなりくらくらする。
「害はありませんが一応約束ですので」
そっと囁き私の首筋にキスをして、頬を摺り寄せてくる。くすぐったくも気持ち良くて瞼を落とせば、ブラックの右手の指がするすると肩から滑り降り契約の証で止まった。
「これは種屋の徽章なんですよ。終わりのない蔦だなんて安直だと思いませんか?」
顔を上げて空いた手で私の頬を包むと、穏やかにそう紡いで……私の答えなど必要ないように唇を塞いでしまう。
僅かに開いた唇からするりと舌を滑り込ませ、遠慮なく口内を犯していく。
蕩けるような口付けに、私の頭は直ぐに何も考えられなくなる。背伸びをしてふらつく身体を彼で支えて必死に応える。同じように軽く吸って、軽く食む。互いを味わうように繰り返される口付けは、それだけで身体中に熱を孕ませ、やっと落ち着いたはずのお腹の奥あたりを疼かせる。
暫らく、やわやわと口付けにあわせて私の身体を愛撫していた手のひらは、するすると私のわき腹を撫で元の徽章の位置に戻ると、こちんっと弾く。それに微かに、ちくり……と、刺すような痛みを受け、私は反射的に身体を強張らせた。
「大丈夫です。契約途中なので、多少、異物感はあるかもしれませんが、もう痛くないですから……」
唇が触れる距離で囁かれ、私は了承するように再び瞼を落とすとブラックに口付ける。
「少し、少しだけ嫌な感じがすると思いますが、我慢してくださいね」
大丈夫、痛くはないです。と続けられ、身構えた。すると、その衝撃は直ぐにやってきて
「……ふ、ぁ…あぁっ!」
ブラックは、ずるっと私の身体から徽章を軽く摘み引き出すと、四肢の先まで行き渡っていた根を一息に引き抜かれるような感覚が全身を貫いて……私は悲鳴のような、それとはもっと違うような声を上げ、ブラックにしがみ付いた。
はたはたとする心臓を押さえるように、大きく呼吸をして瞳を開くと、彼の右手には緑色の種が乗っていた。
そして、次の瞬間一枚の紙に戻ると、今度はぼっと青い炎を上げて塵になった。
「これでおしまい」
私たちを形で繋ぐものは何一つなくなりました。と、微笑むブラックはとても切なそうな顔をしていた。
また泣いてしまうのではないかと頬を撫でると、困ったように微笑んで、心配しなくてもいつも通りですよ。と、告げる。そして、頬に触れていた私の手に手を重ねて、引き下ろしてくると、ぺろり……と、私の手のひらを舐める。
「支度を整えましょうか」
ふわり、と、どこから出したのか、柔らかなタオルを肩から羽織らせて私を包み込んだ。
まだよたよたしている私をそっと抱き上げると、ブラックは私が初めてここで泊まった客室へと運んでくれる。