第三十八話:もう貴方しか見えない
仕方ないのでひとしきりカナイの様子を堪能したあと、私もカナイの隣に腰掛けた。カナイはまだぶつぶついってたけど気にしない。
「あのとき、カナイ何考えてたの? アルファもいつも通りならカナイが出遅れることは無いっていってたよ」
まだ、ワザとらしく腕を擦っていたカナイにそう問い掛けると、カナイはバツが悪そうに「あー……」と唸ってぽつぽつと話してくれる。
「別に大したことじゃない。ちょっと考え事をしていたんだ」
「ふーん」
「魔法石も無事に手に入ったし、あれだけ良質の物なら期待通りか、それ以上の物をエミルなら生成する。計画も無事に成功するだろう。そうすればお前は元の世界に帰り、お前の居ないいつも通りの生活が戻る」
はー、と長く息を吐きながら顔に当てていた眼鏡を外し机の上に置くと、カナイは、ぎっと椅子を傾けて天井を仰ぐ。
「俺、何やってたかなー? と思ってさ。お前が来てからは、こうやって今まで特に興味もなかった神話とか逸話の裏付けとか情報収集とかやってた。別にそんなに長い時間じゃないはずなのに、その前はどうだったかと思うとぴんっと来ないんだ」
そんな詰まんねーことで出遅れたんだよ。だから、これは俺の責任。と、笑うカナイに私は複雑な気分になった。
まだここに来て私は数週間だ。
だから知らないことも山ほどあるけど、知ってしまったこともある。
だけど私には、それらをどうしてあげることも出来ない。分かってるけど、それももどかしく感じるのに私はこの世界をあとにして私の世界に戻ろうとしている。
最近ふと思う。
私は、どうして戻らないといけないと思うんだろう。
家族には愛されていると思うし、居なくなったら心配するだろう。
でも、ブラックがいうように、いつかは離れてしまう関係だ。遠くに行ってしまえば会うことも少なくなってくるだろう。
居た、居るという事実だけが私の中にあればそれでしっくりと落ち着いてくれる。学校だって友達だって、私が居なくては駄目だと縋る人は居ないだろう。
でもここには……
―― ……ぼすっ
「痛い」
思考に埋もれていたらカナイに頭を抑えられた。
「何難しい顔してるんだ? 貧相な顔がより一層貧しく見えるぞ」
「貧相な顔で悪かったわね」
どうせ私はエリスさんやアリシア、モリスンみたいに美人で花のあるタイプじゃないわよ。
エミルやアルファ、シゼにだって敵う気はしないわ。
仕方ないじゃないっ。一般人レベルなのよ! 私の顔は!
カナイの暴言に不機嫌面全開で顔をしかめた私に、カナイは「変な顔」と重ねる。
何だと! と噛み付きそうな私にカナイは、ふっと表情を緩めて「でも」と繋ぐ。
「そんな顔でも見なくなると寂しいな」
***
あんな顔するなんてズルイ。
今夜は月が見えない。
私の部屋からは、木々が邪魔をしてあまり綺麗に月は見えないのだけど、僅かでも覗く月は美しかったのに……。
ふぅと息を吐いて肩を落とす。そして改めて
「あんた何してるの?」
「マシロを抱きしめています。ぎゅっとしてます。隙を見てキスしようと思っています」
「今すぐ離れろ。変質者」
人が窓辺で干渉に浸っているところに現れて、背後からくっ付いて離れないブラックに呆れる。
こいつはこいつで、何で私にこんなに執着してくれるんだろう。ああ、借金回収の目的かな? だったら、もう直ぐそれだって解決する。
詳しい金額は聞いていないけど、ここにある分と今回の報酬で全額返済しても多少残るといっていた。
そんなことを考えていると、ぱくりと耳を噛まれて身体を強張らせる。
「ちょ、やめてよ」
「突き放してくれて構いませんよ。殴っていただいても結構です。もう、こんな夜でないと貴方を独り占め出来ないんです。彼らも貴方に残って欲しくて堪らない。だから貴方を決して一人にしないでしょう?」
ブラックのやきもちとも取れる台詞に私は苦笑しながら答える。
「そういうのじゃないよ。みんな、私のために忙しいから、だから私がみんなにくっ付いて邪魔かも知れないけど手伝っているつもりで居るだけ」
「それを許しているんですから同じことです」
時折、耳に掛かる吐息が暖かくてくすぐったくて、身体がほんわりと熱を帯びてくる。
何か嫌だな……私までこいつのことが好きみたいな気になってくる。
恋愛なんて暫らくは御免だと思ってる。友達以上なんて思ってしまったら、またきっと些細なことで傷ついて、些細なことで怒って、泣いて……私は嫌な奴になって、最終的には裏切られる。
―― ……もう、そういうのは嫌だ。
でも、マシロ。マシロ……と何度も名を囁かれると心地良い。名前って不思議だな。
結局ブラックに大した抵抗もしないまま、物思いに耽っていた私をブラックがきつく抱き締めるから現実に無理矢理引き戻される。
どうしたの? と声を掛けると、帰らないで下さい。と、掠れた音が紡ぐ。
このところいつもいつも「どうして帰るのか?」「帰さない」そんなことばかり口にしているブラックだけど、お願いされたことはなかった気がする。
どうしたの? と、重ねて身体を捻り背後のブラックを仰ぎ見る。
僅かな月明かりに映るブラックの顔はとても綺麗で、女の私が見ても見惚れてしまう。ブラックは伏せていた瞳を私に向けると、刹那迷うように逡巡したあと
「好きです」
と口にした。
「貴方が居なくなると思うと胸が苦しくなります。どこかを痛めているわけでもないのに、身体が悲鳴を上げているような気になります。こんな気持ちは初めてで、この感情の名前すら分かりません」
本当に苦しそうに紡がれる言葉に胸が締め付けられる。
私はその感情を知っている。
その思いの名を知っている。
恋だ。
ブラックは恋をしているんだと思う。
その思いが自分に向けられているのは信じられないけれど。
「マシロが好きです」
「え?」
「マシロが好きです。そう口にすると荒立った心が凪ぎいてきます。木漏れ日の下で転寝をしているときのように、穏やかな気持ちになります。空っぽな私に意味があるような気になります。だから離れるのは嫌です。帰らないで、下さい」
重ねられる言葉に心臓が……どくん、どくん……っと、五月蝿く高鳴る。
全身が熱くなりわけも分からず瞳が潤む。一瞬息が詰まって言葉が出なかった。
嫌だ! 嫌。私は分からない。認めない。受け入れない。私は振り回されているだけだ。この瞳に、この言葉に、この……きっと、耳とか、尻尾とか……そう、有り得ないに惑わされているだけ。
「ば、馬鹿なこと、いわないで。私は帰るんだよ。私は私の世界に戻るの。普通に学校に行って友達と遊んで……きっとそこでまたいつかは恋をする。ここじゃない……私の居場所はここじゃない」
「ここでの生活とどう違うんですか?」
「違うよっ! 全然違うっ!」
どん……っと、ブラックを突き放すと、ブラックは簡単に私から数歩離れた。
「では貴方の幸せはそこにあるんですね?」
そうだ、と、直ぐに私は答えられなかった。
だって、そういって笑ったブラックは泣きそうな顔をしていた。
泣いたことなんてない。
涙がどうすれば出るのか分からない。
そんなことをいっていたのに、ブラックは今私の目の前で酷く辛そうな笑みで、もう一押ししてしまえば泣いてしまいそうだ。
「このまま……、このまま。連れ去ってしまえば良いのだと思うんですけど、やめておきます。無理に押し留めることを、私自身も望んでいないようですし」
「ブラック?」
「帰ります。そして、どうか元気で……」
「ブラック、どうして帰るの?」
当たり前のことをブラックはいっているのに、私は酔狂な問いを投げている。そんな私に歩み寄りブラックはそっと手を伸ばして頬に触れ腰を折る。
「いつか離れるのなら、ここで終わりにします。貴方を消すことは私には出来ない。だから私がここから消えます」
―― ……さようなら。
そう、締めくくってブラックは消えた。
刹那、微かに触れ合った唇が酷く熱く感じる。
私はまだドキドキしていた。
いつも心の篭っていない、感情が伴っていない、ブラックの言葉は今日に限って心があった。それが私を苦しくさせた。
―― ……どうして私は苦しいんだろう?
「……もう、どうして良いか、分からないよ……」
瞬きも忘れてしまっていた私の瞳から、はらり……と涙が溢れた。