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「大丈夫? ごめんなさいね? この子、今日が初めてでお酒に本当に慣れてないんですよ」
予想していた痛みは柔らかかった。心地良い弾力。良い香り、この香りはさっき嗅いだばかりだ。
そう、受け止めてくれたのはルージュさんだった。
「そうかい? 悪かったな」
ルージュさんの言葉は、すんなり入るのか素直に謝罪してくれるお客に私は「すみません」と謝って、ルージュさんと一緒に席を離れ、裏口から外の空気を吸いに出た。
「悪かったわね。大丈夫?」
頷くことしか出来なくて、こくこくと頷いた。
胃の辺りが、かっかして身体中が脈打っているようで痛い感じがする。はぁと吐いた息が熱い。
「少し休んだら、また、入ってくれると助かるけど、無理なようなら帰っても構わないわ。報酬は明日にでも事務所に取りに行ってね」
それだけ告げると、ルージュさんは忙しそうに店の中へと入っていった。
向いてない。
確実に私には、こういう仕事は向いていないと思う。
建物の壁に背を預けてずるずるとしゃがみ込む。頭の中が掻き雑ぜられているように、ぐるぐるとする。もう全てが回っている。
ぐるぐるぐるぐる……。
帰って良いといわれたけれど、正直自力で寮まで戻る自信がない。誰か迎えに来てくれないかな。胸の奥が、ずきずきどくどく……迎えが欲しいとか、頭に浮かんでしまったら、今一人で居ることが凄く寂しく、悲しいことのように思えてきた。
泣きそう、だ。なんでだろう。そんなつもり、ない、のに。
わじわじと視界がゆがみ、私は膝に顔を埋める。
―― ……ぴと。
すんっと、鼻をすすり何度目かの溜息とあと頬に冷たいものが押し付けられる。
「水です。飲んで」
そう掛かった声に納得して、私はそれを受け取ると喉の奥へと流し込んだ。
すぅっと身体に染み込み、熱を奪っていく。凄く冷たい。
―― ……美味しい……。
「ありがとう」
ほう、と一息吐いて、やっと頭の中のぐるぐるが落ち着いてきた。
ひと心地つくのに一役も二役もかってくれたお水に感謝しつつ、グラスを返そうと顔を上げて、私は地面にグラスを落とした。
「何をやっているのか聞いても良いですか?」
私は、よろりと立ち上がると、まだ足に力が入らなくて再びしゃがみ込みそうになる。それを捕まえたブラックに支えられて私は壁に背を預けたまま、ようやく立った。
「もう、寮は閉まってしまう時間ではありませんか?」
「ブラックこそ……」
「私が夜、酒を飲みに出るのは不思議ですか?」
確かに私がこんなところでバイトしているよりは、不思議ないだろう。
「まぁ、尤も仕事でもない限り、こんなところに来ることはありませんけどね」
いい訳のようにそう続けたブラックは、再び話題を戻して「それで?」と問い返してくる。居心地悪くて顔を逸らすと、まだ揺れる。
答え損ねている私の唇をブラックは乱暴に指で拭った。
「あまり派手な化粧は似合うとは思えません。この香りも誘っているようにしか思えませんね」
「ち、違っ」
「違いません。酒を扱うこういう店が、健全なわけないでしょう。無知にも程がある」
普段、ブラックからは、あまり感情の起伏を感じられないのに、今ははっきりと怒りを感じることが出来る。
明らかにブラックは今怒っている。
「どうして、怒るの?」
我ながら間の抜けた問い掛けだ。ブラックは眉一つ動かさず、真っ直ぐに私を見据えたまま、はっきりと答える。
「貴方は私のものだからです」
そんな、勝手な……と、口にしようとしたら、ぐいっと顎を持ち上げられ簡単に唇を奪われる。
突然口付けられてなのか、アルコールが身体中に巡っているせいなのか、私は強く拒絶が出来ない。
それよりも、よく分からない熱に浮かされ、きゅっと瞳を閉じると目尻に涙が溜まってしまっているのが分かる。
離して欲しいのに、胸に当てた手のひらで押し返えせば良いのに。頭の中が真っ白で私は何も抵抗出来ない。
「っん。んぅ」
呼吸の仕方が分からなくなり、くらくらする。膝に力が入らない。でも、それで崩れ落ちそうになるのも許されず、腰に回された腕が私の身体を簡単に抱き寄せる。
熱くて、苦しくて、何がなんだか分からなくなり、息だけが上がってくる。
「ふ……ぅ、んっ…!」
かちんっ! と、歯列がぶつかって痛みに眉を寄せると、やっと少しだけ解放される。あんなに深く貪っておきながら、私を見る目はどこか冷たい。そして、酷薄な瞳の色を変えることなく、辛辣な台詞を吐いた。
「貴方は誰にこのくらいのことされても平気なんですか?」
「っ」
呆けている頭でも分かる。
酷いっ! そんなわけないっ。私だって……私、だって……。
そんなことない、と、違う、と否定したい。
でも、じゃあ、どうして私は今、ブラックを突き放さなかったのだろう? 浮かんだ自身の疑問の答えがどうしても見付からなくて私は押し黙る。
そんな私を抱き締めたブラックは、肩口に顔を埋めて「すみません」と謝罪する。
「大体の見当は付きます。店主の強引さにでも負けて、一晩だけとかいわれて引っ張り込まれたくらいのことでしょう……。マシロは押しに弱いですよね」
ふふっと笑われたはずなのに、私はどういうわけか胸が苦しくて目尻に溜まっていた涙が、つぅと流れ落ちた。
「ブラック……」
何か言葉をと思ったのにあとが続かない。
私は、きゅっと目を閉じてゆっくりと深呼吸を一つしたあと「ごめんなさい」と謝罪していた。
何に対しての謝罪なのか私にも分からないし、いわれたブラックも、分からないというように私を解放して、首を傾げたが他の言葉が思いつかなかった。
沈黙していた、私たちの間を、ふわりと抜けた風が吹いてきたほうへ顔を向けると「遅すぎですね」とブラックは眉をひそめた。
そして、確信を持ったように告げる。
「迎えが来ますから、ちゃんと帰ってくださいね?」
え……と、自分でも驚くくらい不安そうな声を零してしまった。そんな私に、ブラックは先ほどまでの冷たい怒りを含んだ雰囲気を解き、いつものように微笑んだ。
―― ……良かった。
思わずその笑みに安堵した自分が居る。
どうして、ブラックに許されて安堵するのか。こんなやつにどう思われようと構わない。もともと働かなくてはいけない原因を作ったのは、この猫で……だから、だから私はっ! 私は……嫌いなはずだ。
困惑する私の心うちを知ることなく、ブラックは私の頬を包むと軽く一度だけ口付けた。
「大丈夫。もうアルコールも抜けています。歩けますよ」
不安そうな原因はそこだと、勝手に判断したのか、そう告げたあと「仕事があるので」と、その場を立ち去った。その姿が闇の中へ溶けるように消えてなくなるのを見送ると、私は自分の格好を改めて見て嘆息し着替えに戻った。




