第二十八話:黒猫様S発言
「出来るよ、普通に」
「え」
エミルとアルファの声が重なった。
どういう意味だ。失礼すぎる。
確かに家では殆どお兄ちゃんが家事をやってくれていたけど、調理実習レベルだけど、食べられるものを作れるハズなのに。じっとりと二人を順番に睨み付けると、二人は顔を見合わせて乾いた笑いを浮かべた。
「いや、マシロちゃんって、実習のとき材料刻むのも全部ぶつ切りだから」
「本当、よくあれで調剤して成功するなと感心してたから」
「ふーん……」
この二人は、私のことをそんな風に見ていたんだ。やはり物凄く失礼だ。
「でも、普通に作れるのも本当だからね! 彼に食べさせたときだって、ちゃんと美味しいっていってくれてたし、味見はしなかったけど美味しいんでしょ?」
ぶすっとそれだけいい放って、私はマフィンを口に運ぶ。ほわほわで美味しい。ちょっぴり融けかけのチョコって凄く不思議な食感だと思う。
もぐもぐと味わって紅茶を一口。
やけに外野が静かになった。どうしたんだろう? と、三人を見ると少し固まっていた。
「何?」
私は、まだ、一つ目だしもう幾つ目? というアルファじゃないんだから、手の中にまだ残っているもので彼の時間を止めているわけじゃないと思う。だったら、他に何があるんだろう? ことんと首を傾げれば、アルファが凄く真面目な顔で切り出し、みんなそれに続く。
「もしかして、だから帰りたいんですか?」
「物好きもいたもんだな」
「マシロ恋人居たの?」
―― ……なるほど、こいつらは三人とも失礼なことを考えていたのか。
初めてじゃ……と、小さな声で漏らしたエミルに私は頬が熱持った。
「恋人くらい居ます。というか、居ました……だけどね。そ、それから、別に付き合ってるから何かしてるわけじゃないでしょ!」
なんだ、そっか。と、目で見て明らかに胸を撫で下ろしたエミルに複雑な気分だ。
「えー、なんで別れたんですか? 勿体無い。その男、馬鹿ですよね」
ずずい……っ、と、身を乗り出してきたアルファに私は苦笑する。どっちが馬鹿だったかは分からない。それが恋愛というものだし、お互い初恋なら尚更だ。
「どっちが馬鹿かは分からないけど、確かに馬鹿な男だと思いたいと思う」
あくまで希望だけど、私一人が好きだったみたいな感じになっては悲しすぎる。
「聞いても良かったら、今後の参考にどうして別れたのか教えて欲しいな?」
にこりとそういったエミルに、なんの参考か分からないし、王子様の恋愛と、私のような一般市民の恋愛観は、ちょっと違うのではないだろうか? それに何で二人とも男の子のくせにこんなに恋話に食いついてくるんだろう?
私は少しだけ迷ったが、別にもう昔のことだし、腹は立っても悲しいということは無い。問題ないだろう。
「どうして別れたかといえば、私は相手の浮気を許して上げられるほど、心の広い女じゃなかったってことだと思うけど」
「ええっ! マシロちゃんが居るのに他の子に走ったの? ほんっとーに馬鹿な男ですね」
ちょっと大げさにも思えるくらいに、派手にそういってくれるアルファに苦笑する。
「ありがと、お世辞でも救われる。現場を見ていなかったら、私は信じてたかも知れないけど、いやーもうバッチリ、他の子とのキスシーンとか目にしちゃったら、いい逃れ出来ないよね。私には手も出さなかったくせに練習がどうのこうのといってたけど」
そのときは本当に大好きだったからどうしても許せなかった。
もう一年以上前の話だから、大丈夫。と、思ってはいても、改めて口にすると苦い思いが蘇って眉を寄せる。
大好きだった。指が触れるだけでどきどきした。もっと触れたらどうなってしまうんだろうと、わくわくもしていた。だから、その期待と好奇が私の心に深い傷を造った。
「あー、それは酷いですね」
泣いてはいない。まだ、泣いてはいないけれど、その直前のように鼻の奥がつんっとして目頭が熱くなる。それらをあっさり吹き飛ばすように、その場にあるはずのない声が聞こえた。
「私が貴方の世界に居たら、即消して差し上げますのに、その愚者が、まだその世界のどこかで呼吸しているのかと思うと虫唾が走ります。本当に残念です」
またも、ぬっ! と、私の背後から現れたブラックは、不吉なことをいって私が手に持っていたマフィンを頬張る。
―― ……デジャヴか?
「それに、マシロから特別の権利を貰ってるのに、本当に、勿体無いことをする愚者が居たものです。私なら、キスだけでは物足りないので、あ……」
バキっ!
何となくそれ以上口を開かせたら、出版禁止用語とか羅列しそうだったから黙らせた。
私のグーパンチを避けることもなく、ブラックは頬に受ける。真剣に殴ったけど、いつも通り大したダメージではなさそうだ。少し頬が赤いかな? 程度はあるけど。
しかし、ブラックの登場で熱心に私の話に耳を傾けていた三人から、さっと笑みが消えた。アルファに至っては腰の剣に手を添えている。直ぐにでも抜刀し戦闘になりそうだ。
「マシロの後ろから離れろ、闇猫」
低く唸るような声を出す。普段のアルファと違いすぎて背筋がひんやりと寒くなる。
それなのに、ブラックは微塵も雰囲気を換えることなく軽口をたたく。
「嫌ですよ。私は構いませんけど、マシロは貴方たちの一人でも、私が消したとなると、私を永遠に許してくれそうに在りませんし」
当たり前だ。
だから物騒なことを口にするな。
ブラックはこの間のシゼの件で、少しは学習してくれたようだ。
「それに、優秀な貴方たちでも私を捕らえることは出来ません。そして、若い騎士の貴方がその剣を抜こうと、また昔と同じように私に間合いに入られ屈辱を与えられるだけです」
万が一にも傷を負うのが私であったとしても、マシロは悲しみますよ。と、淡々と話をするブラックの言葉に三人はちらとだけ私の方を見て、最初にカナイが嘆息した。
辺りに張った何かの糸が幾本か切れたような気がする。
もしかしたら、カナイが大技でも仕込もうとしていたのかも知れない。
「アルファ、手を放して。ちょうど良い機会だ、僕は彼に聞きたいことがある」
帯刀から手が離れないアルファの手を、エミルが背後からそっと取って、真っ直ぐにブラックを見据える。普段のエミルからは感じられない鋭い視線で私の方が怯んでしまう。
「マシロが怯えるので、怖い顔しないで下さい王子」
「セルシスの一件は、貴方の独断か、それとも誰かからの依頼か知りたい」
茶化したブラックに緩むことのない鋭い視線と低く腰を据えたエミルの声。ブラックはその真摯な問い質しにもゆるりと答える。
「守秘義務がありますから、私の仕事に関する内容はノーコメントです」
「よくいうぜ。歩く無法地帯のクセに、誰があんたにルールを引くんだよ」
はっと鼻先で笑ったのはカナイだ。
「私のルールは私が決めます。余計な仕事を増やさないためにも必要なことでしょう?」
くすくすと、笑いを零しつつ答えるブラックは、エミルたちの目にはどう映ったのか分からないが、私には必要以上の命を消したくないとも取れると思ったのだけど……それは私が彼をあまり知らないからだろうか?
「それに、王家の話はこうして王家から逃げ出している王子には必要の無い情報ではないですか?」
「ちょ、ブラック?」
明らかに挑発しているブラックの台詞に、私はストップを掛けたかったが、大きな耳をしているくせに聞こえないようだ。
「ですが、貴方は逃げ切れませんよ。王子は嫌でも王家に戻る。術師も、若い騎士も貴方が救ったかも知れません。しかし、貴方をその運命から救うものは誰も居ない。貴方の持つ素養が貴方を縛る」
ブラックの話は私には全く見えない。
でも、エミルはきゅっと唇を噛み締めて瞳を伏せた。アルファもカナイも逡巡してしまう。
「ブラック、もうやめて」
ブラックの上着の裾を引いて小さな声で囁いた。ブラックは私の耳元で「嫌です」と答え、すりっと頬を寄せ私の肩越しから話を続ける。
「ねえ、王子。その素養……不必要だというのなら、私に下さいませんか?」
甘い囁き。
え。と、驚きに顔を上げたエミルの表情から、私は咄嗟にそれは毒だと悟った。
それはカナイやアルファも同じだったらしくぴくんっと肩を跳ねさせた。
「私が貴方のその素養、抜き取り種にして差し上げますよ。もちろん、謝礼も出しましょう」
いって、そうですね。とやや考えるそぶりを見せてちらりと私を見る。
「彼女にお貸ししている金額と、同額で如何ですか?」
「ふざけたこといわないで!」
怒鳴って手を振り上げた私の手首を、ブラックは簡単に掴まえて、にっこりと柔らかく微笑む。私は私で、思わず軸足に力を入れてしまったから眉をひそめると、ブラックはそっと私の身体を支えて座り直させてくれる。
「捻挫は癖になりますから、無理はしないで下さいね。私は、苦痛に耐えるマシロの顔も好きですが、助けてと、私に縋る悲哀に満ちた表情の方が好きです。出来ることなら早く音を上げてください」
―― ……このドSめ!
一瞬にして四人の心が重なったような気がする。
偏頭痛を覚えて、こめかみを押さえた私を案じていたブラックに、エミルはこほんっと一つ咳払いをした。
「それで、君はマシロとの契約を破棄するんだね」
折角、話が逸れたと安堵していたところへ、再びエミル自身が、話題を引き戻してきた。それに慌てた様子でカナイが話に割って入る。
「お、おい。エミル、聞くな。闇猫の囁きは毒だ。一部の素養を抜き出すなんて芸当、出来るわけないだろっ! 素養は魂と連結しているんだ。そのくらい」
「分かってる、分かってるよ。カナイ」
ただ、聞いているだけだ。と、続けるけれど、その瞳は真剣そのもので……ただ聞くだけに留まるようには思えない。
「そうですね。契約に拘束力はなくなるでしょうね? マシロは離れたがらないかも知れませんが」
「直ぐに離れます」
間髪居れずに答えた私に「えー、酷いー」と黄色い声を出す。
「あんなに、濃厚な口付けまでしたのに」
「してませんっ! してませんからね!! あんなの断じてキスじゃないわ!」
ふふふっと含み笑いをしたブラックに一言物申さないと気が済まない! 今度は足元に気をつけて立ち上がり拳に力を込めた。
もしかしなくても、こいつそれをいいたくて、わざわざここまで手の込んだ嫌がらせをしたのか? そんっなに! 私とエミルがキスしたのが気に入らないのか! ふるふると怒りが溢れてくる。
「私への嫌がらせのために、みんなを巻き込まないでよっ! 別に良いでしょ! ほんっと、いつもいつもどこから覗いてるのよっ! この、ストーカーっ! 変態! 変質者!」
私の罵声にブラックは、よよよっと崩れるが私の両肩に腕を乗せるとにーっこりと微笑んだ。
「マシロへの嫌がらせじゃないですよ、彼らへの嫌がらせです」
それじゃ、失礼しますね。と、一人爽やかに口にしたブラックは、ちゅっと私の頬に口付けると一陣の風とともに姿を消した。
恥ずかしいことを公言され、大きなダメージを受けるのは私であって、どう考えてもみんなへの嫌がらせには成りようにないだろうに、なんなのよあいつ。
***
「マシロちゃん、こっち向いて拭いてあげます」
刹那、沈黙が降りたのにアルファは、私の肩を掴んでくるりと自分の方へ向き直らせるとごしごしと頬を擦った。
だから、痛いってば。
眉をひそめた私に、もう少しだけ我慢してと続ける。剣を振り回すのを我慢してくれただけでも良しとしなくちゃね。そう思って、痛みに堪える。
「僕、少しだけ席外すよ。ごめんね」
「あ、おい、待てよエミル」
慌てて呼び止めたカナイに、エミルは困ったように微笑むと「心配しなくて大丈夫だから、少しだけ一人にさせて」とカナイを止めて一人で屋上庭園から降りていってしまった。
「エミル、大丈夫かな?」
「大丈夫ですよ。エミルさんは、そんなに弱くないし、僕も居ますし」
「お前が何の役に立つんだよ」
「えー、カナイさんの方が役に立つんですかー? 今だってあっさり切られたくせにっ!」
「別に切られたわけじゃねぇよ」
いつものようにきゃんきゃんと二人はいい争いを始めてしまった。
私はふぅと溜息を零して、騒がしかったティータイムの片づけをした。残ったマフィンは折角だからまたあとで食べよう。
―― ……私、こんなので本当に帰って良いのかな?
一山トレイに載せてベンチに深く座ると、二人の口喧嘩を聞きながら高く青い空を見上げた。