見下ろした月
※ エミル視点。未読でも本編に大して影響ありません ※
***
「あいつすっかり懐いてるな」
何に不貞腐れているのか、カナイが余りにも苦々しく口にするから、僕は笑ってしまった。
中庭が見下ろせるポーチを陣取って、マシロとアルファの様子を盗み見るなんてお行儀の良いことじゃないのは分かってる。
分かっているけれど、人懐っこく見せてアルファは難しい。その口から発せられる棘で、マシロが傷つけられては可哀想だ。
それに……アルファ自身、今回のことにとても落ち込んでいた。あんな様子のアルファは久しぶりに見た。それだけ、マシロがアルファにとって、心動かされる存在なのだろう。
「アルファは難しい子なんだけどね」
珍しく月のない夜だ。
ここ数日月ばかり見上げてきた。
手が届くとは到底思えない。
思えないけれど、カナイの案には賛成だ。
それに、やってみるだけの価値があると思った。でも、王宮は簡単に聖域を開放しないし、僕の話を受け入れもしない。こいうとき立場が弱いと苛々する。
僕はその感情を押し殺すように、別の話を振った。
「依頼薬の内容いわないでいてくれて、ありがとう」
「別に、あいつらが無知なだけだ。アルファは全く薬学に興味がないし、マシロはそこまで追いついていないというか……頭は良いと思うんだけどな。種のお陰で」
あんなものを、一般常識と思えるのは、カナイくらいなものだ。
カナイは世の全てを知りたいと思ってでも居るように、あらゆる知識を欲している節がある。それが、到底自身の素養だけでは追いつかないと知っていても、やらずには居られない。
何かに急き立てられているようだ。そんな様子のカナイに、興味対象の問題じゃないかな? と僕は笑った。
階下のアルファは、マシロと仲睦まじく談笑している。それをぼんやりと眺めていると、暫らく黙り込んでいたカナイが「でさ」と話を続ける。
「俺、前から一度聞いてみたかったんだ」
「んー? 何」
改めて口にするカナイに僕は視線を投げた。戸惑い気味に僕を見て、小さく溜息。何がいいたいんだろう? 暫し口を閉ざしてしまうカナイに首を傾げれば話を始めた。
「お前、さ、あいつのこと本気で異世界人なんて、信じてるのか?」
「さあ、どうかな? 分からない。そうだと良いなと思うよ。だって、マシロは僕らを知らない。信じられる? この世界にあって、僕らのことを知らないんだ。そんなに、有名になったつもりはないけれど……僕らの何も知らないでいる人間が、シル・メシアに居るとは思えない」
そう、思えない。
良くも悪くも僕らは有名人だ。
あえて正面から揶揄してくるようなものはいないが、裏のない好意もない。
でも、マシロは他の生徒にするのと同じように、話しかけ微笑んでくれる。身分を知ってもその意味を知らない。
僕らであることしか、知らないんだ。
それはとても貴重だ。
カナイは僕を珍しいものでも見るように見てから、あー……と、ほんの少しいい渋り、それでもやっぱり切り出した。
「試薬を何で自分で飲んだりしたんだ?」
そんな、カナイに、悪戯心が湧いて、もしかして、飲みたかった? とくすくす笑ったら、そんなわけあるか! と頬を染めた。知られたくない本心は誰にでもあるはずだ。
それは僕だって同じはずで、それが自分でも気がつかないようなものだったなら、尚更だ。それでも僕は試薬に手を出した。本当に…… ――
「どうしてかな? 君やアルファに飲ませるのは戸惑われたんだ。マシロに何をいうかちょっと怖かった。どうしてそう思ったのか、よく分からないけど。あの薬を飲むと嘘を吐けなくなるから」
人は嘘をつくし、僕も嘘を吐く。
仕方がないといってしまうのはどうだろう? 嘘が吐けない自分は何を紡ぎ出すか、正直興味もあった。
「お前さ、もしかしなくてもあいつのこと好きだったり?」
「ん? 好きだよ。もちろん」
不意に問い掛けてきたカナイに、あっさり答える。あっさり答えたあと、ふと、カナイの指す『好き』……好意の意味に気がついて「……あ、ああ、そういう好き?」と重ねる。
僕は、もうその場所には居なくなった――恐らく部屋に戻ったのだろう――マシロの姿を思い浮かべるように、眼下を見下ろした。
「どうだろう?」
明確な答えが分からない。
もちろん好きだけど、その種類を問われると少し戸惑う。
間近に迫ったマシロの瞳はとても綺麗で、そこに映る自分はとてもちっぽけだった。自信もなく余裕もない自分を見透かされているようで、心を捕らえられてしまった。
それがとても恐くて、気がついたら口付けていた。
「どうだろう? 程度でお前何かしたんだ? あいつに」
したことを思い出させるように繰り返され、そのときのことが脳裏に鮮明に蘇ってくる。そう、口付けてしまっていた。
マシロの唇は、とても、柔らかくて、暖かくて、甘くて……美味しい。
あんな風に誰かに口付けをしたのははじめてだ。
どきどきと胸が高鳴り、かぁっと熱が上がってくる。僕、もしかしなくても、女性に、物凄い失礼なことを……薬を使ってって、相当手口が汚い。
へなへなと、その場に座り込み頭を抱えた。頭の天辺から湯気でも出そうなほど熱い。
ううっ。
カナイからの白い視線も痛い。
「どど、どうしようっ。カナイ。やっぱり、謝らないと駄目? 駄目だよね、うわっ。そうだ、マシロ初めてだっていってた。見上げてくるマシロがあんまり可愛いから、正直いうともうちょっと良いカナと思っちゃった。駄目だよね」
「うわー、王子様サイテー、ケダモノー……」
よっこいせ、と僕の傍にしゃがみ込んでわざわざ耳元で囁く。
カナイにしては珍しい嫌がらせだ。
恨みがましくカナイを睨み付けると、カナイは「泣くなよ」と笑った。泣いてないよ。
「……ってアルファならいうな。と、思っただけだ。まあ、本人もあんまり気にしてないみたいだし、そんな気にしなくても良いんじゃね?」
「なんかそれも嫌かも」
「どうしろっていうんだよ」
呆れて肩を竦めたカナイに僕は力なく、そうだよね。と呟いた。
矛盾している。
気にされすぎてこのままギクシャクするのは嫌だ。
でも、スルーされてしまうのも嫌だと思う。
この気持ちと、このどきどき、とても変だ……。
膝に額を擦り付けて大きく深呼吸をしたあと、顎を乗せる。隣に立っていたカナイは月のない空をぼんやりと仰いでいた。
「マシロはさ、やっぱり白い月の少女なのかな?」
自然と口を吐いて出た。異世界人イコール白いもしくは青い月の住人だと考えるのは、この世界では当然ともいえる図式だと思う。
思うけど、目の前に居る自称異世界人は、どう見ても温室育ちの一般人にしか見えない。僕には素養を見る目はないし、星を詠む素養もない。だから、彼女が持っているものは分からない。
でも、この世界のように淀んでいない思考は、彼女が生きていた世界が美しいものであったことを現しているようで、確かにマシロの世界は美しいときを刻んでいたように思う。
「美しいときって、なんだろな?」
そんな僕の心中を察したのか偶然同じことを考えていたのか、ぽつりと溢したカナイの言葉に僕は答えることなく、押し黙った。
長い年月の中で誰もはじき出すことの出来なかった答えを導き出すことは容易じゃない。
何か定義でもあればと、理系脳しか持ち合わせていないカナイは思うだろう。
僕は、どうだろう。
マシロに関しては、疑うよりも、信じたほうが得心が行く。それに何より、彼女自身、隙がありすぎる。そして、マシロに触れるときの僅かな緊張はとても心地良くて癖になりそうだ。自分から、触れてみたいと思うのは彼女が初めてだ……。
白い月、青い月、二つ月
世界に伝わる、二つ月の童話に関しては、全容以外は曖昧で不確かなものでしかない。今、自分たちとめぐり合っただけの少女に重ねるには、時期尚早、かも、しれない。
でも、僕はもう、彼女に対してのこの気持ちに名前を与えてしまうかもしれない。
それだけでも、僕が行動する理由には十分すぎるから。