第二十四話:ルールはどこにあるんだろ?
どこからか、甘い匂いがする。
ラ・フランスみたいな芳醇で甘い良い香り……。
―― ……コンコン
私は、一人で退屈だったのと遠出をした疲れで、眠ってしまっていたようだ。軽いノックの音で目を覚まし、ぼんやりとしているともう一度ノックが聞こえる。額の上に腕を押し付けて、眠気を飛ばそうと努力する。
こんなの、今も、一生懸命頑張ってくれているみんなに申し訳ない。
「マシロ?」
と、掛かる声に訪問者がエミルであることが分かる。私は、額に乗せた腕で、ごしごしと目を擦りつつ、はーい、と、情けない声を上げた。
「開いてるよ」
そう続ければ「鍵を掛けておかないと無用心だよ」と、注意してくれつつ部屋へと入ってくる。
「ごめん、すぐ起きるから」
窓の外へ視線を泳がせると日が傾いていた。エミルの入室と共に目覚め際、鼻についた香りが、すぅっと部屋の中に流れ込んでくる。
あれ? この匂いエミルからだったんだ。
そう思って身体を起こすと、既に、めちゃめちゃ近いところにエミルが居て、私は慌ててベッドの奥に下がった。
ずきりと痛みが走り。足の怪我を思い出した。
苦痛の色を浮かべるとエミルが「大丈夫?」と、ぎしりとベッドに手を付いて身を乗り出し、私の顔を覗き込んでくる。
「ちょ、近い。エミル近いから、離れて」
睫毛の本数まで数えられそうなくらい傍に寄られて、私はそれ以上下がれないほど後退する。背中が壁に触れて、これ以上は逃げ場がない。
それなのに、そんな私のお願いは無視なのか、エミルは凄く近い距離で「聞いて欲しいことがあるんだ」と囁く。
「聞く! 聞きますから! 離れてください」
エミルは綺麗だ。
普通では有り得ない、空と同じ色をした髪は、赤い日の光を浴びて不思議な色を作り出している。
優しげな瞳を縁取る睫毛も長く、ふわりと薄い色をしている。その奥にある湖面を思わせる瞳には、情けなく顔を真っ赤にした私が写っている。
あまりの近距離に息を詰め、ごくりと唾を飲み込んだ私にエミルは尚も詰め寄って紡いだ。
「帰らないで欲しいんだ」
私は、益々困惑する。
驚きに言葉をなくし、目を見開いた私に映るエミルの表情は、いつもより少し艶めいているような気がしなくもない。
そして、鼻につくこの甘い香り。
やはりエミルが纏っているものだ。
嫌なものではない、それどころかもっと傍で嗅いで居たくなる魅惑的な香りだ。エミルとの距離の近さと、この眩暈のしそうな甘い香りに頭の中が、ぼんやりとしてくる。そんな私に、エミルは話を続けた。
「きっと、もう直ぐ戻る方法も分かると思う。僕は、最初に君と約束したから、君が帰ると望むならそれに従うよ。でも、僕は帰って欲しくないと思ってる」
「エ、エミル?」
「帰って欲しくないんだ。どうしても帰らなくてはいけない理由は何? マシロ……帰らないで、傍を離れないで……」
私の勝手な勘違いだと思うけど、何だか告白されているような気がする。
鼻先が触れ合う距離で、互いの吐息が交わる距離で、甘く紡がれる言の葉。私の心臓はそんなに図太くなくて、どきどきと激しく脈打ち、体温を一気に上昇させる。
そんな私にエミルは、蠱惑的な笑みを浮かべてそっと囁く。
「―― ……大丈夫、今はキスしかしないから」
今はって何!
身体の両側にエミルが腕を突っ張っていて逃げ場はない。
ふぅっと唇にエミルの吐息がかかり、私はきゅっと瞳を閉じた。顔を逸らすとか、大きな声を出すとか、必死になれば逃げる術はあったと思う。
でも、私は逃げなかった。
早鐘のような心音は益々高鳴って五月蝿くて、どこか気遣わしげに触れた唇が、それを刹那抑えてくれる。
啄ばむような愛らしい口付けを繰り返し、エミルの大きな手が私の頬を包むと、今度は長く重ねられる。
「逃げないの?」
「……逃げたい、かも……」
自分が逃げられない状況にしておきながら、そんなことを聞くのは酷いと思い、私も何とか頑張って突っ張ってみた。
そんな私の台詞に、エミルは微かに、でも、いたく傷ついたような顔をして、長い睫毛を頬の上で震わせる。
そんな顔するなんてズルイ。
私が悪いみたいだ。
彼を傷付けてしまったような気がして高鳴った心臓がきゅっと痛む。
罪悪感で揺れた私の瞳に、エミルは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、もう一度だけ、そ……っと唇に触れて……どさりと乗っかった。
「いったーい!!」
痛めた足にエミルの体重が、ずん……っ、と係り、その痛みに迷わず悲鳴を上げた。その悲鳴にエミルは、がばりっ! と、身体を起こし、部屋に居たのだろう、アルファが「どうしたの?」と、驚くべき速さで乗り込んできた。
遅れて「薬出来たのかー?」とカナイも入ってくる。
「エ・ミ・ルさん。これはどういう状況ですか?」
どこをどう取っても、私は襲われていたようにしか見えないだろう。
まあ、実際そうなのだから、私もなんと説明すれば良いか分からない。
こつこつと床を苛立たしげに踏んでいたアルファに、エミルは「ええーっとね」と申し訳なさそうに髪をかき上げる。
「とりあえず、マシロちゃんの上から退いて下さい」
「あ、ああ、そうだね」
ずりずりとベッドから降りたエミルに続いて、私もベッドからにじり出て隅っこに腰掛ける。
「要するに薬が出来たんだろ? ああ、俺が被験者にならなくて良かった」
ぴりぴりとしているアルファとは対照的に、極自然にそう口にしたカナイは、勝手に人の部屋の窓を開けて風を通す。
私には全く話が見えない。
苛々とするアルファに、赤い顔を隠すことも忘れて、きょとん……と、する私を順番に見てカナイは溜息を落とす。
「お前らアルク草についての知識ゼロか?」
私は前日に図鑑で下調べしたし、ゼロじゃない。
ゼロじゃないといいたいけど、私が知っているのは、どんなところに生えていて、どんな見た目か、程度だ。
きっとそれでは、カナイのいう知識とは程遠いだろう。
眉を寄せた私とは対照的に、アルファは、知ってますよ。と、ぶーたれる。
「マシロ、ごめんね。一応完成したから、誰かに試飲をと思ったんだけど、あればっかりは無闇に飲ませるわけに行かなくて」
「だからって自分で飲むことないだろ。しかもマシロが居るときに」
しょぼん……っ、と、してしまっているエミルに、カナイが多少困惑した声で突っ込み肩を落とす。
「アルク草の殆どは、精神に直接作用する媚薬系の薬に使われるんです。だから、今回の依頼もその類だった、のは分かりますけど! それがどうして、マシロちゃんの上に乗ってることになるんですか!」
アルファ。もっと歯に衣着せて話しよう。
物凄い卑猥なことをされていたような響きに聞こえるよ。
アルファの叫び声に、私を含めた三人が大きな溜息を吐いた。
扉を開けっ放しにしていたため、普段はなるべく係わらないようにしてくれているのだろう、他の生徒まで廊下でざわついていた。
カナイはアルファに、声がデカイ! と、怒ってから廊下へ顔を出し何でもないと取り成して人払いをしてくれた。その後、あまり部屋に篭っているのは良策ではないと判断したのか、カナイは、飯でも食いに行こう。と、全員を私の部屋から追い出した。
もちろん私も。
***
さっきまでとは違い食堂は生徒で賑わっていた。
あまりみんなと同じ時間に食事を取ることをしなかったから、初めてではないが久しぶりな感じだ。
授業でもなんでも、ここは基本少人数制だから、クラスメイトといっても殆ど居ない。
その数少ないクラスメイトが、私の足を見て気に掛けてくれた。
あまり気に掛けてもらうとアルファがまた気にしてもいけないからと、普通に歩こうと思ったが、まだ普通に動かせるほどには回復していなかった。
ふらついて一番手近なものに縋ると、エミルの腕だった。「大丈夫?」と聞いてくれたエミルに、私は反射的に身体を弾いてしまい、余計にバランスを崩し、危ないと支えられる。
うう。私、何やってるんだろう。
普段は遠巻きにしか見ない生徒の冷やかしも聞こえる。
これではエミルに申し訳ない。
「ほら、マシロちゃんはここに座って」
おろおろしていた私の両脇に手を突っ込んで、ひょいと持ち上げたアルファは、さっさと私を椅子に座らせる。
流石、騎士様だ。見た目に反して力がある。
四人とも到底食事をする雰囲気ではなかったが、ここに来てそれをしないのは邪道だし邪魔だろう。
仕方ないのでチビチビと手をつける。
媚薬。
媚薬っていうのは、よく漫画とかでも出てくるよね。
確か、相手に恋慕の情を起こされるとか、そーいう気分にさせてしまう薬。
それを飲んだということは、あのエミルの奇行はその作用ということで、気持ちはそこにないんだよね。そうだとしたら、私の初めてのキス――ブラックのは断じてカウントしない!――は、またしても流されただけだ。
私、男運ないのかもしれない。
「……初めてだったのに……」
ぶすっとキャロットソテーをフォークで刺した私は、無言で口を動かしていた三人の時間を止めてしまったようだ。
そして、次の瞬間には、ごほごほ……っとエミルが咽て派手に咳き込んだ。
隣に座っていたアルファは、私の両肩を掴みゆさゆさと揺する。
「な・に・を、されたんですか!」
「あわわ、されてない、されてないよっ! 何も」
それ以外この状況でなんと答えろと?
―― ……私、やっぱり男運ない。