第一話:コスプレ好きな美青年?(1)
白い月 青い月 二つ月
自分にとって有り得ないものが、本当に有り得ないのかどうかなんて
きっと誰にも分からない。
私の目にしている世界なんて箱庭のようなものだ。
―― ズザザザザ……ッ
飲まれたと思ったら次は変な浮遊感に襲われて私は落ちた。
突然クリアになった視界は、目が痛くなるほどの青空を映し、次の瞬間には闇に変わる。
実際『闇』というのは間違いで、自分が木の上に落ちて、そのまま根元まで落下しているということに行き着くまでに、そう時間は掛からなかったが止まらない。
私は次々と迫ってくる葉っぱと枝の攻撃から身を護るために、きゅっと目を閉じた。
―― ……地面に直撃したら痛いよね。
と、どこか冷静に覚悟を決めていたが一向にその痛みは襲ってこない。
ぐんっ! と、何かに引っかかったような衝撃はあったのに……あれ? 痛くない。それどころか何だか暖かくて、柔らかい? 恐る恐る目を開けると、目の前に人の顔があって
「ひっ!」
と、息を呑む。
私は慌ててその人物を突き放したが、相手はそれを許さず、がっちりと私の肩を抱いたままだ。
「ちょ、ちょ、はな、離してくれると、たす、かる」
私の言葉に対峙した人物は、笑顔を崩さないまま首を傾げた。ややして何かに行き着いたのか、私に下を見るようにと空いた手を下へ向ける。
「っ!!」
私の両足は、所在なさげにぶらぶらと空をかいていた。
まだ地面に到着していなかったようだ。
途中の枝に腰掛けていたこの人に捕まえてもらったらしい――正確には抱きかかえられているが――自分の足場のなさに、私はさっきまで突き放そうとしていた人物に慌ててしがみ付く。
私が暴れるのをやめたのを確認してか、枝の上に腰を下ろしていたのに、その人は私を抱きかかえたまま、ひょいと枝の上に立つと猫のように身軽に地面へと飛び降りた。
くっ! と息を詰め再び身構えた私の予想に反して、ストっと軽やかな足音と共に地面に降りるとそっと私も地面へと降ろしてくれる。
つつ……っと、慌てて距離を取ると、近過ぎて良く分からなかったが目の前の人物は黒尽くめ。
若干、見たことのないような服の感じもするけど基本的なつくりは変わらないのか、違いは良くわからない。中世的な時代感のするスーツだ。
すらりと高い長身に、しなやかな長い手足。
モデル体形な上に、顔も芸能人並みに美しく整って見える彼には、その格好も良く似合って見えるけど、私にはどうしても見逃せないものがあった。
ゆるりと胸の前で腕を組み、私と同じように、相手を品定めするように見詰めているその人物――多分、雄だと思うけど――長めの黒髪の間に見えるのは同色の耳だ。
猫耳だ。
その背後でゆらりゆらりと揺れているのは、尻尾だ……!
見た目は凄くカッコいいのに惜しい。
明らかに変質者だ。
私は、じりっと後退して逃げ出そうとしたら掴まった。しっかりと手首を掴まれて逃げられない。
「すみませんっ! 落ちてきたことは謝りますから、後生ですーっ離してぇぇ……っ!!」
ぶんぶんっ! と手を振って抵抗するものの、猫だけど雄だ。男性というべきか迷った末、か弱い女の子の腕を平気で掴んだので動物決定。雄だ。
ジタバタする私に猫耳男は何かいっているがさっぱり分からない。
まあ、にゃーにゃーいっているのではないのは分かるのだけど。
何語だろう? 普通の外国語なら、意味は分からなくても何語かくらいは分かりそうなものの、私の浅学ではさっぱり理解出来ない。というか、単に猫語は分からないということに他ならないと思う。
彼は私に全く言葉が通じていないことを、暫らく掛けて悟ったのか、ふぅと嘆息して私の腕を掴んだまま歩き始めた。
「ちょ、誘拐っ?! 私はどこにもいかないわよっ! 離しなさいよ! はーなーせー! 猫耳男」
暴れたが猫耳男は気にするでもなく、すたすたと足を進める。
「ちょっと顔が良いからって、なんでも思い通りになると思わないでよーっ! 私は、家に帰りたいだけなの!」
聞いてるのかと怒鳴っても、私の言葉ももしかして通じていないのか。猫男は無反応だ。
さっきから見える景色は私の全く知らないところだ。
のどかな田舎町というか……田舎だ。
途中まで舗装されていなかったけど、急に足元がしっかりしたと思ったらレンガ道だ。
メルヘンだ。ここはメルヘン街道か?
暫らく歩みを進めていると、町や村というよりも、もっと小さな集落と呼ばれるに相応しい場所に辿り着いた。
建物がやけに童話とかに出てくる家っぽい、丸太造りのファンシーな物が多い。軒先にはガーデニングとかしてある家が多く可愛らしい場所だ。
猫男は目的の家に着いたのか、一番奥のさっきまでのメルヘンタッチとは程遠い、石造りの豪奢な屋敷に足を踏み入れる。
ぎぃっと物々しく扉が開き、猫男が足を踏み入れると家の中がぽっと明るくなった。
電気とは違うような不思議な明かりだ。
もう既に、抵抗するのは無駄だと思った私は、どうせ夢だからと彼の歩みに続いていた。
中央の階段を上がり一番奥の部屋の扉を開くとそこは書斎だった。一見普通の書斎に見えるけど? 違うのかな。
部屋に入ると、彼はやっと私の腕を解放した。
そして、窓際にあった机の引き出しを漁って一つの鍵を取り出すと、本棚に向かいその一箇所に鍵を差し込みがちゃりと回す。
「わ、隠し棚?」
鍵の開放と共に、天井まで届くような本棚は静かにスライドし、新たな棚を出現させる。掛かっていたカーテンを取り除くと、そこには沢山の瓶が並んでいた。
男は鼻歌交じりに指でたくさんの瓶をなぞっていくと、その途中で目的のものを見つけたのか一つ取り出す。瓶の中を軽く振って小豆くらいの大きさの粒を手にして瓶は棚に戻した。
そしてそれを持って、私の元まで戻ってくると、手の中のものを突き出してくる。軽く自分の口元を押さえて「あーん」としているところを見ると
―― ……もしかしなくても
「飲めと?」
私に飲めといっているのか。
この得体の知れないものを。
いくら夢でも私はそこまで無防備にはなれない。
盛大に首を左右に振って拒否した私に、男はぽんっと手を打った。ジェスチャーは万能だ。言葉は通じなくても、意思疎通は出来たようだ。ほっとしたのも束の間、納得した彼は、おもむろに水差しを取り出して空いたグラスに水を注いだ。
―― ……意思疎通出来てなかった。
「いや、水がないと薬が飲めないとかそういうのじゃなくて、いや、それよかどっからだしたの? それ」
ああもう、突っ込むところが多すぎて……。
はあ、と溜息を落として俯いた顔を上げ、もう一度文句をいおうと口を開いたら放り込まれた。
その何かを。
笑顔で。
直ぐに吐き出そうとすると、ぐいっと引き寄せられ口を塞がれ無理矢理押し込まれる。
「……っ、は、……んぅ……んっ!」
―― ……ゴクン
飲んでしまった。
小さな頃から知らない人から貰ったものは、食べたり、飲んだり、してはいけないと言われてきたのに……飲まされた。
飲まされて……
殴った。
「こんのっ馬鹿猫っ!」
「あ……痛い」
私の右ストレートは、綺麗に決まったと思ったのに大したダメージはなかったようだ。
「あまり暴力に訴えるのは良くないと思いますよ、危険ですね。特に私に手を上げるなんて、稀有な人材です」
にこにこにこにこ……胡散臭さ炸裂。
「それに私は馬鹿ではないですよ、猫ですけど」
「馬鹿に決まってるでしょ! 大馬鹿よ! なんてことするのよ!」
「一人で種も飲めないようでしたので、親切に手伝って差し上げたんですよ」
にっこりそういって微笑んだ猫に、私の頬は引きつった。
飲めないって、だからって、親切に手伝うって……口で塞がなくても良いじゃない。
私はその瞬間がフラッシュバックしてきて、背筋がぞくぞくと寒くなった。無理に割り入ってきた舌はざらりとしていてまさに猫の舌。
嫌悪するべきなのに、妙に官能的だった。
考えれば考えるほど、私の顔はきっと青くなったり赤くなったりしているだろう。
初めてだったのにっ!
「私は認めないわ」
あれがファーストキスだなんて。
くぅっと拳を握り締めて断言した私に、対峙していた猫は小首を愛らしく傾げたあと「落ち着きました?」と的外れな対応をしてくれた。
「……落ち着いてないけど、ちょっと聞いても良い?」
いって大仰に手招きした。