第十一話:白い月青い月二つ月(1)
***
丸一日部屋に篭って寝ているだけをすると、その翌日には気分爽快だった。
これだったら元の生活に戻れるだろう。
私はいつもと同じ時間に起き出して、制服に袖を通す。
午前中はいつも通りの授業を受けて、午後からはまた出掛けようと思ったらカナイに捕まった。
「もう大丈夫だから!」
「大丈夫かどうかじゃなくて、お前大事なこと忘れてないか?」
ずるずると図書館の中を引きずられ、私は生徒が調べ物をするために設けられた個室のうちの一つに放り込まれた。
中には既にエミルが座っていて、机の上に山と詰まれた本のページを捲っていた。
アルファは机の隅に足を引っ掛けて、ゆらゆらと退屈そうに揺れている。その足をカナイが払い落とすと、抜群の運動神経でバランスを取り直し、足を床に下ろした。
「フィールドワーク?」
「近いかな?」
私の質問に、ぱたんと本を閉じたエミルがにこりと微笑んで答えてくれる。昨日の様子とは変わって、いつも通りのエミルに戻っている。
―― ……良かった。
その様子に、ほっと胸を撫で下ろす。そんな心境を感じ取ってくれたのか、ふわりと笑みを深めて軽く頷いてくれたエミルに身体が火照る。どんな表情をしても、絵になる人だ。
「ついついカナイに任せっきりにしていたんだけどね? そろそろ、僕らも向き合った方が良いと思うんだ」
そして、別の本を手にとって、ぱらぱらと捲りつつそういったエミルに、私は「何を?」と、首を傾げた。
「お前、帰る気ないのか?」
そんな私にカナイの呆れたような声が掛かる。
そういえばそうだった。
私には『元の世界に戻る』ということが一番だったのに、思わず背負った借金に目が回って後回しになってしまっていた。
心のどこかでは、まあ、夢ならそのうち誰かが起こしてくれるだろう。という、密かな期待もあったのだけど。
「僕は、マシロちゃんにはこのまま居てもらえば良いじゃないですかって、二人にいったんです。帰らなくても良いですよね? マシロちゃん、ここでも生活していけますよー」
うん、臓物から解放されたらね。
「そういえば忘れてたけど、私、ここなら何か帰る方法が見つかるんじゃないかと思って、薬師の種を飲んだんだった」
ぶーっと頬を膨らませたアルファの向かいに腰を下ろしつつ、そういった私にカナイは目にも明らかに呆れたようだ。
エミルは、優しく微笑んで「忙しかったからね」と取り成してくれた。そんなエミルに「そうなんだよね」と頷いて私も手近にあった本を手に取る。
ところどころに紙が挟んである。
これは何? と、私が首を傾げるとエミルが説明してくれた。
「君が外で頑張っている間に、カナイがある程度引っ張ってきてくれたんだよ。異世界の話っぽいことが書いてある、本と、記事を、ね?」
「カナイさんはこういう地味な作業が得意ですからね。見た目によらず頭脳派だし」
アルファってカナイのこと嫌いなのかな? 時々言葉がきつい。いや、それともアルファの持ち味だろうか?
「あーあ、帰る方法なんて見つからなきゃいいのにー」
素直に項垂れて、やる気全くなしのアルファなのに特に嫌な気にならないのは、彼の気質のせいだろう。
なんだか基本的に恨みを買わないタイプだ。
なのに、我慢ならなくなったのかカナイの拳骨が落ちた。わざとらしく机につぶれたアルファを見下ろして、カナイは眉間にふっかーい皺を刻む。
「こいつが帰らなかったら、最終的に闇猫に堕ちるのを待つだけだ」
それでも良いのか? と、念を押されアルファは、腕の間からちらりと私を盗み見て「わかってますよー」とぼやいた。
「僕だって、マシロちゃんが闇猫の契約に堕ちるのなんて嫌だから、ちゃんと手を貸しますよ」
「アルファ、ご、ごめんね、なんか……」
あんまり嫌そうに口にするものだから、私までなんだかすまない気持ちになってきた。
しかし、謝罪した私に対してアルファは、にこりとお日様のような笑顔を向けて「僕、闇猫嫌いなんです」ときっぱりいい放つ。
「それに、マシロちゃんは大好きだから帰って欲しくなかっただけ。闇猫との契約が解けないって、カナイさんがサジ投げるなら、頑張って帰れるように協力します」
「俺はさじ投げたわけじゃねぇ! もしもの時のため……というか、こいつは元の世界に元の生活があるんだから、どっちにしたって帰るのが道理ってもんだろう?」
元の世界に元の生活……か、当たり前のことなのに凄く昔の話に聞こえる。
こっちで気がついてから、本当忙しすぎた。
「はー……ブラックは可愛いんだけどね」
―― ……猫の時は。
ぽつりと口に出したところで、ギャーギャー揉めていたカナイとアルファも黙り、真面目に本を開いていたエミルまで顔を上げて私を見ていた。
私は何か問題発言をしただろうか?
「ブラックって、闇猫のことだろ?」
「可愛いんですか? どこが?」
「え、だから、こう、耳の根元辺りをわしわし撫でると耳がふにゃーって垂れるとことか? ま、まあ、可愛いかどうかはおいておいて、別にそんなに悪い感じじゃないけど? 私と話しているときは……ちょっと距離は近いけど」
「闇猫に触れられるほど傍寄れるんですか?」
ぼそぼそと付け加えた私の肩を、いつの間にか傍寄っていたアルファが掴んで激しく揺すった。
「ここに来てからも会ってるんですかっ?! 闇猫とっ! 図書館でっ?!」
「え、あ、うん。時々来るから」
「本当に何もされてないですか? 痛いこととか! 怖いこととか!」
あわわ……。
がくがくがくと揺すられて頭の中がマーブルになりそうだ。「アルファ」と静かにエミルに名前を呼ばれ、アルファは、はっ! と、我に返ると「ご、ごめんなさい」と詫びて掴んでいた肩を離した。
「大丈夫だよ、本当。様子を見に来てくれてるだけだと思うし、心配してくれてるんじゃないかな」
「……お前、馬鹿だな」
馬鹿だろ? と、重ねたカナイに私は素直に不機嫌になる。
再び口を開こうとしたカナイを「カナイ」と静かな声で制し、エミルが穏やかに口を開く。
「あのね、マシロ。ここはね基本的に部外者は進入禁止なんだよ。だから、ここに入るためにはちゃんと許可が要るんだ。まあ、闇猫はいろいろと規格外だから……」
いいつつもエミルは苦い顔をする。
エミルがそんな表情を見せることは珍しいと思う。
基本的に春の暖かさを連想させる感じの人だから。いつでも穏やかなのがエミルで、負の感情を含んだような、要素とは無縁の気がしていた。
私は、あとの言葉が続かないエミルに首を傾げたが、直ぐに冷静さを取り戻したカナイによって当初の作業に戻った。
***
「エミル、これ何の話?」
無言でみんな本のページを捲っていた。
私は、他の分厚い百科事典のようなものたちとは全く違う、一冊の絵本を発見しページを開いた。
この世界の文字は大抵分かるようになっているのに、かなり難読だ。エミルは私の手元を覗き込んで「ああ」と頷いた。
「これはね二つ月の話だよ。童話だね」
「童話が何でこんなところにあるの? それに私読めない」
「この本は原書だね。今は使われていないとても古い時代の文字なんだよ。カナイ、これ持ち出し禁止じゃなかったの?」
「本は読むためにあるんだ、大事に閉まっておいたって意味ねーよ」
尤もらしいことを口にしているが、それはカナイの勝手ないい分だろう。
カナイさんは本の虫ですからねぇ。と、アルファがのんびり纏めた。
それに、この場合。エミルがカナイたちの監督も努めている。だとしたら、彼が厳罰とか受けることになるんじゃないかと思う。
それなのに、当のエミルはそんなことは気にしていないのか、特別声を荒げることもなく「バレないようにやったんだよね?」とだけ念を押しカナイが頷くと、じゃあ良いや。と納得した。
「確かそれって、二つ月が一つに重なり赤い月になると、奇跡が起こるって話でしたよね?」
「物凄いはしょってる」
カナイが、仕方ないなと腰を上げると、私の手の中から本を抜き取り、すっと通った鼻筋に宛がっていた眼鏡を中指でくっと押し上げる。
本を読むときは眼鏡を掛けるらしいけど、あまりに似合うというかツボに入るというか、兎に角、気に入らなかったので、老眼鏡みたいだといったらかなり怒られた。
カナイは、かなりカルシウム足りてない系だ。
直ぐ怒る。
そんな明後日なことを考えていた私の心を読んだのか、ぎろりと睨み付ける。
「聞きます。聞いています。読んでください、カナイさん」
低頭平身の心でお願いしてみる。
別に頭は下げないけどね。
カナイは呆れたようだが、短く咳払いして話し始めてくれた。
「今は昔、白い月、青い月、二つ月の浮かぶシル・メシアの夜――。
白い月には『美しいとき』が永遠に続く世界が広がっていて、白い月から使いとして送られてきた美しい少女がシル・メシアに、その美しいときを分け与えていました」
きょとんと聞いていた私に、カナイは少し頬を赤らめて「童話だ、童話っ」と念を押して話を続けた。
「それを羨む、力のみが溢れ、荒廃した世界が広がる青い月の民は、毎日シル・メシアを見下ろして暮らしています。
そのとき、一人の少年がシル・メシアに降り立ち、白い月からの美しいときを奪おうとしたのです。
横暴な青い月の少年に、シル・メシアの民は苦しみ、美しいときを広めていた白い月の少女は心を痛めました。
そして、シル・メシアの民を救うため、青い月の少年を聖地へと幽閉しました……
そのときに力を使い果たした白い月の少女は、少年を幽閉した地で永い眠りにつき、シル・メシアからは美しいときが奪われてしまいます。
永く続いていた美しいときを失ったシル・メシアの人々は悲しみ、聖地ごと、誰も踏み入ることの出来ないようにしてしまいました。
人一人、動物一匹、やってこない土地で、自分と同じ地で長く眠る少女を見守るように……同じく長いときを過ごしていた少年は、いつしか少女に恋をしていました。
少年は、もう一度だけ、少女の美しい瞳と笑顔が見たくて、毎夜変わらず闇夜に浮かぶ二つの月に祈りました」
「結局どうなるの?」
つい先を急いだ私に、カナイは仕方ないなというように嘆息して、アルファと同じように話をはしょってくれた。
「まあ、結局は二つ月が少年の願いを聞き入れて、二つの月が重なったとき、少年の封印と少女の眠りが解かれるんだ」
「そして二人は幸せに暮らしたの?」
ふーん、と繋いだ私にカナイは「そんなわけないだろ?」と肩を竦めた。
おかしい。童話なんて基本的に最後は何故か結ばれてハッピーエンドだ。
「二人はそれぞれに罰を受けるために、月に帰るんだよ」
くすくすと笑いながら話に入ってきてくれたエミルに、私は素直に、何で罰なの? と問い返した。
「少女は、美しいときを途絶えさせた罪。少年は、不干渉でなくてはならないシル・メシアへ干渉した罪」
「えー、なんか納得いかない。あ、でも二つ月が重なったら奇跡が起きるんじゃないの?」
「うん。再び二つ月が重なったとき、シル・メシアには永く美しいときが戻ってくるっていわれているんだよ」
「月は血のように赤い色をするらしいけどな」
のほほんと口にしたアルファの言葉に、鼻先で笑ったカナイはそう重ねた。
「ふーん……何か良く分からない話だねぇ。まあ、童話とか昔話っていうのはそんな感じかな? で、それが私と関係あるの?」
ここにカナイが持ってきていたということは何かしら関連があるからだろう。
私の問い掛けにカナイは、ほんの少しだけ唸った。
「これは、まあ、童話だ。だけどこの原書には、もう少し別な見解が書かれているんだ。まだ周期ははっきりしていないが、天文学者にいわせれば二つ月は本当に少しずつ近づいているらしい」
「そういえば最近近いよね、月」
本当に今更、というように口にしたエミルに、カナイは苦笑した。しかし、そのくらいこの国の人が月に無関心だということなのだろう。
カナイは、特に指摘はしなかった。
「近づいた月が重なったとき、赤色に変わるのは、別の世界への扉が開くからじゃないかといわれているんだ」
「何だ! じゃあ、マシロちゃんはそのときに帰れば良いんだよ」
ぽんっ! と、手を打ってそう口にしたアルファに、カナイは「どうやって?」と突っ込む。
指摘されたアルファは、空を飛ぶとか、梯子をかけるとか……何とか答えを返そうとしているが無理っぽい。
いつものカナイの溜息が聞こえる。
「術師でも、月まで飛ぶなんて無理だ。本当に月が出入り口になるなら、もっと他に何かそこへアプローチするものがあるはずだ」
「それで、この本の山になるわけか」
積まれた本の上に腕を乗せてそういったエミルに、カナイは頷いた。