第九話:医務室にはやっぱり白衣の天使(1)
それからの私は、夢だよね? 夢なのに、大忙しだった。
リアルでも、こんな生活は送っていない。
基本的に、両親は共働きだけど、五月蝿い弟と優しい兄に構われて、のほほんと毎日平穏に生活していたのだ。
なのにここに来てからというもの、一生働いても、普通返せないという借金を背負い、午前中は慣れない解剖作業。時折行われる、薬草採取。午後は、ギルドでバイトのようなことをやり――基本的に店番とか皿洗いとかお届け物配達とか――本当に雑用ばかりだけど、夜は夜でエミルに付き合ってもらって文字の書き取りを習う。
これはほぼマスターした。
その上に、早く生もの解体作業から逃れたくて進級試験への対策も行っていた。
そんな生活が二週間くらい続いたある日。私は力尽き掛けていた。
「ありがとねー、マシロちゃん。これ余ったから持って帰りな」
「助かる! もうこの時間じゃ食堂閉まってるし、どうしようかと思ってたの、ありがとう」
今日は、表通りの『クリムラ』というお菓子屋さんで店番だった。
閉店まで居たから、その日の残り物のマフィンを幾つか紙袋に入れてくれた。そして私に気前よく渡してくれる。
私はそれを受け取って、もう暗くなってしまった表通りを急ぎ足で進む。
私には良く分からないが、ファンタジー世界だ。
電気はない。
でも街灯はあって、前にカナイに質問したら、あれは『魔法石』というもので明るくなっているらしい。
何故、魔法石で明るくなるのかまで説明してくれたが良く分からなかった。だから表通りは、空は闇が支配していても足元が覚束ないほど暗闇にはならない。でも、薄暗いことには変わりなくて、自然と足早になるのに、今日は……
―― ……何だか、身体が重たい。
もうあと十分もすれば図書館に着くと思うのに、物凄くその距離が遠い。
私は、途中にある広場の一角で腰を降ろした。
お腹が空き過ぎて眩暈がするというわけでもないだろう。
ベンチに深く腰掛けて一休み。でも座っているのも気持ちが悪いような気がする。船に揺られているように、ゆらーり、ゆらーりしている。
ぼんやりしていると足元に何か小動物の気配を感じた。
―― ……猫だ。
そういえば、最近ブラックの顔を見ていないような気がする。
「お腹空いてるの? 私、猫飼ったことないから分からないけど……マフィン食べるかな?」
ガサガサと膝に置いた紙袋から、可愛らしいカップに納まったケーキを少し千切って差し出してみた。
猫はいぶかしげに臭いを嗅いだあと、ぱくりと頬張って、まだ足りないのかぺろり……と、私の指先を舐めた……猫、だよねぇ?
「美味しいです」
「ああ……ブラック」
暗いから全部黒猫に見えるんだと思ったら、本当に黒猫で本当にブラックだった。
前回同様。何の予兆もなく人型に戻ったブラックは、肩触れ合う距離に腰を降ろしていた。
人の指を口に含んだまま舌を動かされると、物凄くくすぐったいというか厭らしい感じがする。
でもそれを跳ね除けるだけの力がない。
「調子悪そうですね?」
「ん、平気。少し休憩してただけだから」
「私がいうのも違うような気がしますが、まだEランクの貴方がギルドで頑張ったところで、返済金額には遠く及ばないと思いますよ? 少し休んだ方が」
本当に、お前がいうことじゃないな。と、思いつつも口にする元気はない。
確かに、私もうすうす感じているけど……でも、何もしないということが出来ない貧乏性なのだ。
ふるふると頭を振ると立ち上がった。
ブラックとその話をしていても埒が明かない。しっかりと地面を踏んだつもりなのに揺れている。
「大丈夫ですか? 足元が怪しい、過労ですよ。少し熱もあるみたいですし……」
「帰るだけだから平気だよ。私、カーティスさんに閉館時間見逃してもらってるし、寮監さんにも門限に目を瞑ってもらってるの。だから、ちゃんと帰らなきゃ」
エミルも、きっと今日の分の資料とか準備して待ってくれているはずだ。
大丈夫だと念を押して、ブラックと別れ歩き出す。
大丈夫、もう直ぐ図書館だ。
背後でブラックの溜息が聞こえたような気がするが、私は無視した。そのせいか追い掛けては来ない。ほっとしたような残念なような複雑な気分だ。
「あれ? 君、うちの学校の子じゃない。今日はお目付け役が一緒じゃないんだ。ああ、仕事の帰り? だったらオレに付き合わない? 遊びに行こう」
誰だろう? あと百メートルくらいで到着するというのに、目指す先から出て来たのだろう生徒に掴った。
私に、一生懸命話し掛けてくれるけど、私の頭の中までしっかり届かない。
声が反響して五月蝿い。
無視していると癪に障ったのだろう、ぐぃっと乱暴に腕を掴れ、殆ど持ち上げられるように引っ張り上げられる。
「いた、い」
痛みに眉を寄せ唸るように声を出すと、目の前がチカチカする。
眩暈と痛みに、ぎゅっと目を閉じると鈍い音と共に腕が解放され肩を支えられる。
うっすら瞳を持ち上げると、視界の隅にブラックの綺麗な横顔が映る。
「って何しやがるんだよ!」
「私は、乱暴は嫌いです。ですが、私のものに手を出すようでしたら、貴方……命が惜しくはないのですね?」
底冷えするような冷たい声。
いつものブラックの声じゃない。
私は、現状を確認したくて目を開けたいのに、それはならず……短い悲鳴が数回耳に届いたところで意識が途絶えた。
***
次に目を覚ますと、知らないところだった。
天井が似ているから図書館だと思うけど、どこだろう? ぱちぱちと瞬きをしていると視界の隅に入った人影が木々が葉を揺らすように、穏やかで耳に心地良い声を掛けてくる。
「医務室ですよー。マシロさん」
「初めまして、こんばんは」
「はい、初めまして。私は校医のエルリオンといいますよ。大丈夫ですか?」
何か会話が変だ。この世界には変人しか居ないのかな。私の夢らしいよ。本当。
「って、何で私ここに居るんですか?」
がばりっと慌てて起き上がったら眩暈がした。
気をつけてください。と、背中を支えてくれているのがエルリオン先生、校医さんか……これまた綺麗な人だなぁ。
何というか、今更だけどこの世界の人は色鮮やかな方が多い。
エルリオン先生は、サラサラキラキラのプラチナブロンドが部屋の明かりに反射して輝いて見える。白衣のせいもあって白い印象の人だ。
「どうしてかと問われれば、そうですねぇ、アルファくんが運んできてくれたからですね。行き倒れていたらしいですよ? 過労ですねぇ。若い子が倒れる原因じゃない。無理しすぎ」
こつんと綺麗な指先でこめかみを弾かれた。
「色々事情もあると思いますが、とりあえず、コレを飲んで休むこと」
水の入ったコップと粉薬を手渡された。
「何が入ってるか聞いても良いですか?」
「知らない方が良い事もたくさんあります」
聞くのはやめた。
はあ、と溜息を吐いて薬を水で流し込み一息吐くと、私のほかに患者が居るのに気が付いた。
包帯でぐるぐるで人相すら分からない。
「あの、あの人は」
「ああ、あちらは広場で倒れていたのを、親切な街の方が拾ってきてくださったんです。誰かと喧嘩でもしたんでしょう。時々あるんですよね。マシロさんが気にされるようなことではないですよ。生きてますから大丈夫。手加減してもらったんでしょう」
ちょっとした喧嘩くらいで、あの姿になるなんて……派手な喧嘩になったら死人が出てもおかしくないということだろうか? 本当に何かと物騒な世界だ。
私は、直ぐに倒れる前に声を掛けてきた生徒と、ブラックの言葉を思い出したが、ちらともう一度だけ包帯人間を見て首を振ると、あれは違うと思い込むことにした。
そんな私を心配そうに覗き込んでくるエルリオン先生に、大丈夫だと苦笑すると、足元の重さに気が付いた。
「―― ……猫」
ぽつりと漏らした私の言葉に、エルリオン先生は「ああ」と頷いて私の足元を見た。
ブラックが身体を丸くして眠っている。着いてきたんだ。
「あ、もしかしてここ動物駄目ですか?」
「別にちゃんとお世話出来るなら、構いませんよ。多分、飼ってる子も居ると思います」
エルリオン先生の言葉に胸を撫で下ろし、私は彼の静止も聞かずに部屋に帰ることにした。
ここで寝ていても、部屋で寝ていても、結局は一緒だと思う。
エルリオン先生の話では、エミルがかなり責任を感じてしまっているらしい。
私の自己管理能力のなさから来たことなのに申し訳ない。
私は、丸くなっていたブラックを抱き上げて腕に抱えるとお礼をいって医務室を出た。がらがらと引き違い戸をぴたりと閉めたところで首を捻る。
―― ……どこだ、ここ?
そんな私の心の声を聞いたのか、腕の中に居たブラックは、ひょいと廊下に降りて先導するように前を歩いてくれた。
自室に戻る途中、ふと足を止めたものの、今日はもう遅い。話は明日にしよう、と、エミルの部屋の前を素通りし、お向かいの二人へも声を掛けるのは遠慮した。