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失敗作  作者: ykk
第3章:春日病、落下の音
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「では、本日の目玉コーナーに移りましょう。新人作家・小沢さんによる……」


 その切り替えの台詞を耳にした瞬間、脳がまるでフリーズしたようだった。体が本能的に拒絶し、心があの地獄のような文字の世界へ戻るのを拒んでいた。誰にも分からない、あの文章の中で自分が何を経験したのか。誰にも言えるはずがない。


 思い出すだけで、背筋が凍る。


 前の部分まではちゃんと台本通りにやってきた。なのにここまで来て、まだどう対応すべきかも決められていない。


 台本には、きっとこの場面のセリフも書いてある。あとはそこに書かれている通りに読み上げればいい。それだけで、すべては丸く収まる。難しいことなんて何もない。小学生でもできるような、簡単なことだ。


 でも、できない。どうしても、できない。


 あの本の文章だけは、どうしても読めなかった。


 なぜか、自分でも説明がつかない。


 結局、逃げられない瞬間が来た。何かを話さなければならない。司会者のセリフが終わり、今は自分の番だった。


 喉が痛い。声帯を震わせる力が、もう残っていない。


 頭を空っぽにして、ただ意識だけで、何を言ったのか自分でも分からない。


「……え?もう一度、言ってもらえますか?」


 司会者の目には、信じられないといった色が浮かんでいた。さっき自分は何を言った?


 彼が焦った様子で台本を振り上げるのを見ながら、もう頭は限界だった。


「……あれは、地獄だよ。」


 ああ、今度は耳でちゃんと聞こえた。


 そうだ。そんなことを口にしたら、終わりだ。


 頭が痛い。目もよく見えない。


 だから言いたくなかったんだ、あの文章と向き合いたくなかったんだ。


 この先に何が起きたかは覚えていない。どうやらスタジオで倒れたらしい。気がついた時には、もう家のベッドの上だった。


「……やっちまったな。」


 つぶやいただけで、急に咳き込んだ。水を飲もうとベッドから起き上がろうとしたが、全身の力が抜けていて、動くことすら苦痛だった。


 布団に潜り込み、頭まで隠して、何もしたくなかった。まるで赤ん坊のように。


 暑い。


 汗が止まらない。でも、動けない。


 お腹が空いた。寒い。眩暈がする。眠い。


 感覚が混乱していた。どうして暑くて寒いんだ?


 誰か、助けて。


 ラジオの仕事は終わった。たった二ヶ月で。


 番組内で人気作にあんなことを言えば、どうなるかは誰にでも分かる。


 あの作家には才能がある。バカでも分かることだ。


 でも、誰かが逆張りしてもいいじゃないか。そう思った瞬間、自分でも笑ってしまった。そんな愚かな言い訳では何も変わらない。


 言葉は一度放たれたら戻らない。水を逆流させるより、堤防を築く方がまだ現実的だ。


 彼女は新人作家にすぎない。本当に、そんなに完璧な作品だったのか?少しでも批判を許さないほどに?


 もう一度読んで、冷静に欠点を挙げれば、世間にも伝わるだろう。


 大衆は騙されやすく、風向き次第で流される。自分が主流側に立てば、まだ間に合うかもしれない。


 でも。


 それをするには、もう一度あの文章と向き合わなければならない。それが、どうしてもできなかった。仕事を失っても、あれだけは無理だった。


 他人には分からなくても、あの文章は自分にとってそのくらいの存在だった。


 恐怖が心を包み込み、あの文字から遠ざけた。


 目覚めてから、電話が鳴り止まなかった。イライラして、ついにスマホを手に取り、電源を切った。画面が真っ暗になり、久々の静寂が訪れた。


 イヤホンを耳に差し込んだ。音楽は好きなはずだったが、時には音すら煩わしくなる。


 イヤホンはパソコンにもスマホにもつながっていない。耳を塞ぐためだけの、ただの壁だった。


 何も考えず、ただ過ごす。それでいいじゃないか。


 そのおかげか、少しだけ頭痛や眩暈がマシになった気がして、また眠りに落ちた。


 目を閉じても、本当に眠ったかどうか分からなかった。意識は水のように静かで、どれだけ体が辛くても反応しなかった。


 あるいは、脳が体の信号を受け取れなくなっていたのか。


 分からない。もう、何も分からない。


 空腹……なのかもしれない。でも本当に?それとも、ただ食事の時間だから?


 体が汚れている気がする。でも、それは本当に衛生の問題?それとも、心の苛立ちを浄化したいだけ?


 まるで地獄から蘇ったシーシュポスが、鎖をつけたまま地上で踊っているようだった。彼は幸せなのか?それとも、ゼウスの不条理に抗う唯一の手段だったのか?


 どれほど時間が経ったのか分からない。突然の激しいノックで目が覚めた。


 動きたくなくて無視したが、相手はしつこく叩き続け、ついに体を引きずって玄関へ向かった。


 ベッドから玄関まで歩くのに体力の半分以上を使い、ドアノブをひねる力もほとんど残っていなかった。扉の外の人物に倒れかけた。


 誰だろう。


「……水野?」


 ぼんやりとした意識の中、その姿を判別できた。


「池上先生!」


 よく分からないまま、また意識を失った。ただ、その瞬間に感じた安心感が、どこか心を満たし、ぐっすりと眠らせてくれたのかもしれない。


 目が覚めると、水野が作ったお粥をスプーンで口元に運んでくれていた。


 少し言葉を交わし、彼女はこう教えてくれた。


 部屋の明かりがつかず、電話も繋がらない。心配になって駆けつけたという。


 もし開けなかったら、ベランダから入るつもりだったそうだ。


「ちょっと熱あるみたいですね。池上先生、体調には気をつけてくださいよ。」


 力のない笑みを浮かべる。今さら、自分の体なんてどうでもよかった。


 ただ、水野の心配そうな顔を見ると、胸が少し痛んだ。


「全部、知ってましたよ?」


 彼女は不意にそう言った。意味を理解する前に、彼女は説明を始めた。


「あなたの本を読んでから、ネットで池上先生のラジオを知って、ずっと聴いてたんです。」


「そうだったんだ。」


 二人とも黙り込んだ。


 やっぱり失望したのかな。あんなこと言うんじゃなかった。


「もう、終わったことだよ。」


「終わったこと?でも、昨日の話じゃ……」


 彼女は途中で口をつぐんだ。気づいたようだ。


 そう、それが現実だ。


「私への印象、変わった?」


「いえいえ、そんなことないですよ!」


水野は慌てて首を振った。


「私、文学とか難しいこと分かりませんけど、池上先生がああ言うなら、きっと理由があるんだと思います。世間に理解されなかったのは残念ですけど、仕事失うなんて、ひどいです。」


 あまりにも優しすぎた。その姿を見て、最初に出会った時の刺々しさと重ね合わせることができなかった。


 口をついて出そうとした辛辣な言葉も、飲み込んでしまった。まるで自分じゃないみたいだ。


「はい、口開けてください。」


 まるで子供に接するように、水野は丁寧にお粥を口へと運んでくれた。


「……ごめん。今は食欲ないんだ。」


「今日、何か食べましたか?」


 不思議そうな顔をすると、彼女が言った。


「さっきの一口が、最初の食事ですよね?どうして分かったかって?顔色見たら分かりますよ。こんなに具合悪そうな顔、見たことないです。」


 確かに、会社に行く前から、力が入らない感じがあった。てっきり、あの本のせいだと思ってたけど……もしかすると読む前から体調が悪かったのかもしれない。


「……まさか、私の料理がまずいとか……?」


 黙っていたせいで、彼女は不安げに呟いた。


「そんなことないよ。」


 お粥なんて、基本的に不味くなる要素がない。これをまずく作るなんて、よほどの人じゃないと無理だ。たとえば、俺とか。


「じゃあ、食べてください。お願いします。しっかり食べないと、体力が戻らないし、薬も飲めません。」


「分かった。ちゃんと食べるよ。」


 水野の優しさを前に、胸の中に罪悪感が生まれていた。助けに来てくれたのに、迷惑ばかりかけて。


 お粥と薬を終え、体温を測ったあと、再び深い眠りに落ちた。

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