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「では、本日の目玉コーナーに移りましょう。新人作家・小沢さんによる……」
その切り替えの台詞を耳にした瞬間、脳がまるでフリーズしたようだった。体が本能的に拒絶し、心があの地獄のような文字の世界へ戻るのを拒んでいた。誰にも分からない、あの文章の中で自分が何を経験したのか。誰にも言えるはずがない。
思い出すだけで、背筋が凍る。
前の部分まではちゃんと台本通りにやってきた。なのにここまで来て、まだどう対応すべきかも決められていない。
台本には、きっとこの場面のセリフも書いてある。あとはそこに書かれている通りに読み上げればいい。それだけで、すべては丸く収まる。難しいことなんて何もない。小学生でもできるような、簡単なことだ。
でも、できない。どうしても、できない。
あの本の文章だけは、どうしても読めなかった。
なぜか、自分でも説明がつかない。
結局、逃げられない瞬間が来た。何かを話さなければならない。司会者のセリフが終わり、今は自分の番だった。
喉が痛い。声帯を震わせる力が、もう残っていない。
頭を空っぽにして、ただ意識だけで、何を言ったのか自分でも分からない。
「……え?もう一度、言ってもらえますか?」
司会者の目には、信じられないといった色が浮かんでいた。さっき自分は何を言った?
彼が焦った様子で台本を振り上げるのを見ながら、もう頭は限界だった。
「……あれは、地獄だよ。」
ああ、今度は耳でちゃんと聞こえた。
そうだ。そんなことを口にしたら、終わりだ。
頭が痛い。目もよく見えない。
だから言いたくなかったんだ、あの文章と向き合いたくなかったんだ。
この先に何が起きたかは覚えていない。どうやらスタジオで倒れたらしい。気がついた時には、もう家のベッドの上だった。
「……やっちまったな。」
つぶやいただけで、急に咳き込んだ。水を飲もうとベッドから起き上がろうとしたが、全身の力が抜けていて、動くことすら苦痛だった。
布団に潜り込み、頭まで隠して、何もしたくなかった。まるで赤ん坊のように。
暑い。
汗が止まらない。でも、動けない。
お腹が空いた。寒い。眩暈がする。眠い。
感覚が混乱していた。どうして暑くて寒いんだ?
誰か、助けて。
ラジオの仕事は終わった。たった二ヶ月で。
番組内で人気作にあんなことを言えば、どうなるかは誰にでも分かる。
あの作家には才能がある。バカでも分かることだ。
でも、誰かが逆張りしてもいいじゃないか。そう思った瞬間、自分でも笑ってしまった。そんな愚かな言い訳では何も変わらない。
言葉は一度放たれたら戻らない。水を逆流させるより、堤防を築く方がまだ現実的だ。
彼女は新人作家にすぎない。本当に、そんなに完璧な作品だったのか?少しでも批判を許さないほどに?
もう一度読んで、冷静に欠点を挙げれば、世間にも伝わるだろう。
大衆は騙されやすく、風向き次第で流される。自分が主流側に立てば、まだ間に合うかもしれない。
でも。
それをするには、もう一度あの文章と向き合わなければならない。それが、どうしてもできなかった。仕事を失っても、あれだけは無理だった。
他人には分からなくても、あの文章は自分にとってそのくらいの存在だった。
恐怖が心を包み込み、あの文字から遠ざけた。
目覚めてから、電話が鳴り止まなかった。イライラして、ついにスマホを手に取り、電源を切った。画面が真っ暗になり、久々の静寂が訪れた。
イヤホンを耳に差し込んだ。音楽は好きなはずだったが、時には音すら煩わしくなる。
イヤホンはパソコンにもスマホにもつながっていない。耳を塞ぐためだけの、ただの壁だった。
何も考えず、ただ過ごす。それでいいじゃないか。
そのおかげか、少しだけ頭痛や眩暈がマシになった気がして、また眠りに落ちた。
目を閉じても、本当に眠ったかどうか分からなかった。意識は水のように静かで、どれだけ体が辛くても反応しなかった。
あるいは、脳が体の信号を受け取れなくなっていたのか。
分からない。もう、何も分からない。
空腹……なのかもしれない。でも本当に?それとも、ただ食事の時間だから?
体が汚れている気がする。でも、それは本当に衛生の問題?それとも、心の苛立ちを浄化したいだけ?
まるで地獄から蘇ったシーシュポスが、鎖をつけたまま地上で踊っているようだった。彼は幸せなのか?それとも、ゼウスの不条理に抗う唯一の手段だったのか?
どれほど時間が経ったのか分からない。突然の激しいノックで目が覚めた。
動きたくなくて無視したが、相手はしつこく叩き続け、ついに体を引きずって玄関へ向かった。
ベッドから玄関まで歩くのに体力の半分以上を使い、ドアノブをひねる力もほとんど残っていなかった。扉の外の人物に倒れかけた。
誰だろう。
「……水野?」
ぼんやりとした意識の中、その姿を判別できた。
「池上先生!」
よく分からないまま、また意識を失った。ただ、その瞬間に感じた安心感が、どこか心を満たし、ぐっすりと眠らせてくれたのかもしれない。
目が覚めると、水野が作ったお粥をスプーンで口元に運んでくれていた。
少し言葉を交わし、彼女はこう教えてくれた。
部屋の明かりがつかず、電話も繋がらない。心配になって駆けつけたという。
もし開けなかったら、ベランダから入るつもりだったそうだ。
「ちょっと熱あるみたいですね。池上先生、体調には気をつけてくださいよ。」
力のない笑みを浮かべる。今さら、自分の体なんてどうでもよかった。
ただ、水野の心配そうな顔を見ると、胸が少し痛んだ。
「全部、知ってましたよ?」
彼女は不意にそう言った。意味を理解する前に、彼女は説明を始めた。
「あなたの本を読んでから、ネットで池上先生のラジオを知って、ずっと聴いてたんです。」
「そうだったんだ。」
二人とも黙り込んだ。
やっぱり失望したのかな。あんなこと言うんじゃなかった。
「もう、終わったことだよ。」
「終わったこと?でも、昨日の話じゃ……」
彼女は途中で口をつぐんだ。気づいたようだ。
そう、それが現実だ。
「私への印象、変わった?」
「いえいえ、そんなことないですよ!」
水野は慌てて首を振った。
「私、文学とか難しいこと分かりませんけど、池上先生がああ言うなら、きっと理由があるんだと思います。世間に理解されなかったのは残念ですけど、仕事失うなんて、ひどいです。」
あまりにも優しすぎた。その姿を見て、最初に出会った時の刺々しさと重ね合わせることができなかった。
口をついて出そうとした辛辣な言葉も、飲み込んでしまった。まるで自分じゃないみたいだ。
「はい、口開けてください。」
まるで子供に接するように、水野は丁寧にお粥を口へと運んでくれた。
「……ごめん。今は食欲ないんだ。」
「今日、何か食べましたか?」
不思議そうな顔をすると、彼女が言った。
「さっきの一口が、最初の食事ですよね?どうして分かったかって?顔色見たら分かりますよ。こんなに具合悪そうな顔、見たことないです。」
確かに、会社に行く前から、力が入らない感じがあった。てっきり、あの本のせいだと思ってたけど……もしかすると読む前から体調が悪かったのかもしれない。
「……まさか、私の料理がまずいとか……?」
黙っていたせいで、彼女は不安げに呟いた。
「そんなことないよ。」
お粥なんて、基本的に不味くなる要素がない。これをまずく作るなんて、よほどの人じゃないと無理だ。たとえば、俺とか。
「じゃあ、食べてください。お願いします。しっかり食べないと、体力が戻らないし、薬も飲めません。」
「分かった。ちゃんと食べるよ。」
水野の優しさを前に、胸の中に罪悪感が生まれていた。助けに来てくれたのに、迷惑ばかりかけて。
お粥と薬を終え、体温を測ったあと、再び深い眠りに落ちた。