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今週の仕事は少し特別だった。
僕がゲストを務めるあの番組、今週の内容はある新人作家のデビュー作の書評だ。雑誌社と契約したその新人の処女作が刊行されるということで、僕にコメントを求められた。
……つまり沙耶の出版社は、やっぱりテレビ局と何らかの繋がりがあるってことだろうか?
SNSをやっていない僕は、自分についてネットでどんなことが言われているのか、沙耶やディレクターの口から断片的に聞く程度だった。
『池上芳樹』 という名前の影響力はまだ十分にあるらしい。少なくとも、表に出せば人目を引く肩書きにはなるようだ。
実際、僕がネットに書いたあのゴミのような文章を読んでまで崇拝している人がいるとは思えない。
雑誌社から送られてきたのは電子版の原稿だった。作業の効率を考えてなのか、まだ印刷が間に合っていないのかはわからない。紙の本が好きな僕は、それを自分で印刷してから読んだ。
物語は、ある少女が見知らぬ世界を旅しながら、自分を探していくという話だった。最初は何もわからなかった少女が、旅の中で徐々に自分の姿や声、名前を見出していく。
そう説明すると陳腐に聞こえるかもしれないが、その文章は非常に繊細で、まったく素人の手によるとは思えなかった。細部に甘さはあるものの、間違いなく優れた作品だった。こういう才能こそ、賞賛されるべきだ。
――そのはずだった。僕もそう理解しているはずだった。
けれど、読み終えたとき、僕は動けなくなっていた。
まるでその新人作家が作り上げた世界に閉じ込められてしまったかのように。
登場した文字たちが有形の牢獄となって、僕をがんじがらめにしていた。
上を見ても果てがない。下は底知れぬ深淵。前は暗闇、後ろは言葉の壁に塞がれている。
周囲には文字しかない。言葉にも、意味にもなっていない、無秩序な文字の列。なのに、その一文字一文字に情念のようなものを感じた。まるで灼けつくような業火だった。
逃げ出したい。でも逃げ場がない。
恐怖や不安は、やがて憎しみに変わった。
こんな文字を直視できない。触れてはいけない。下手に手を伸ばせば、焼け爛れる。
ようやく視界が戻ったとき、僕はその紙束を放り出し、空気を求めて大きく息を吸った。
――これは何なんだ。悪魔の文字か?どうして、こんなことに……。
汗でシャツが肌に張り付き、動悸が収まらない。
これほど「逃げたい」と強く感じたのは初めてだった。
あの文字には、視るだけで人を破壊しかねない何かがあった。
目が熱く、体中の力が抜けたまま、呼吸が苦しい。まるで磔刑に処されたキリストのような気分だった。
後で水野が家に来たとき、顔色を訊かれても、僕は答えに詰まった。
「きっとお腹空いてるんですよ。すぐご飯作りますから」
子供をあやすような口調で軽く流してくれたのが、逆にありがたかった。
この感覚を説明できる自信なんてない。文字だけで人を破壊するなんて、誰が信じるだろう。
魚を焼く匂いが、僕を現実へと引き戻した。あの深淵から救い上げてくれた。
五感が戻ってくるのがわかる。まるでこの世に生まれ落ちたばかりの赤ん坊のように、手でこの世界の形を確かめたくなった。
「お待たせしました」
水野が鯵のソテーを運んできた。
魚の旬なんて詳しくないけど、夏が一番おいしいとされるらしい。そして彼女のさばき方は見事で、どれだけ長く続けてきたかが一目で分かる。
「水野、包丁の腕前すごいですね。ずっと料理してたんですか?」
「うん。中学生の頃から少しずつ覚えて、今まで続けてるから、さすがにね」
「でも、ずっと続けていても、結局何も掴めない人っているよね」
口にした瞬間、自分の胸が痛んだ。そんなつもりはなかったのに、気づけば自分のことを言っていた。
「うーん……いるかもね」
そのあと、いろんな話をした。僕が家族のことを訊いたとき、彼女はふっと沈黙した。
――しまった、聞いちゃいけないことだったか?
「ゴホッ、ゴホッ」
水野が軽く咳き込み、鞄から薬の瓶を取り出して、水で薬を飲んだ。
「ごめん、話題変えようか」
そう言って、あっさりと話を終わらせた。彼女のことは、今もよく分かっていない。
「この前、池上さんの家で見かけた《深海の小さな溜息》って本、私も買って読んだんですよ」
――え?
今度は僕が沈黙する番だった。なぜ急にそんなことを?
「……言ってくれれば、そのままあげたのに」
「でも、あの本は池上さんにとって大切なものなんでしょ?」
僕の顔がこわばった。
「だって、すごくきれいに保存されてたから。大事にしてる本だって思ったの」
「はは……まあ、そうですね」
内心ホッとした。ばれなくてよかった。
あの本の作者が僕だなんて、絶対に知られたくなかった。
あれは、幼かった僕が、あまりに無垢な気持ちで書いた稚拙な作品。今の僕がそんなものを書けるはずもないし、書こうとも思わない。
「生の意志」とか、「世界を変える宿命」とか、「世界のために自らを捧げる少女」とか、今の僕なら全力で否定する価値観だ。
名前を見なければ、きっと気づかれない――そんな思いで、あえて作者名を消して部屋に置いていた。
でも、水野は――いたずらが成功した子供のような、悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「私、この本、すごく好きです。池上さんも、そう思いませんか?」
「……僕?」
彼女は僕の反応を待たずに、続けた。
「この本がすごく気になって、誰が書いたのか調べちゃいました」
彼女は僕の目を見ては逸らし、何度も繰り返した。僕は一言も返せず、ただ黙っていた。
「池上さんも知ってるでしょ?今って、ちょっとでも名前が知られてたら、検索すればだいたい何でも出てくる時代だよ」
そう言って、彼女はスマホの検索結果を僕の前に見せた。
そこには、中学生の頃の僕の写真が表示されていた。
さらに、関連するニュース記事のリンクには「既読」の印がついていた。つまり、彼女は全部読んだということだ。
――あの『天才』 だとか、無責任に持ち上げられた虚像たち。
「信じちゃダメだよ、そんなの……天才だなんて」
自分の声の震えが、はっきりと耳に届いた。
「なにそれ?照れてるの?」
「違う」
「でも、そういう評判とか抜きにしても、私はあの本好きですよ」
どうしてそんなことを言えるのか、分からなかった。
きっと、僕を励ましたくて言ってるんだろう。だけど、今の僕には、到底許せない作品だ。
「たぶん……がっかりすると思いますよ」
「もう書かないの?」
「今は、書いてない」
「じゃあ、これからは?」
「……分かりません」
自分の不甲斐なさに腹が立った。確信を持って言えない。前向きな口調すら出てこない。声もだんだん小さくなっていった。
まだ心のどこかで、あんな自分を期待しているのか。――情けない。
水野はそれ以上深追いせず、すき焼き鍋から牛肉を一切れ、自分の器に移した。
「でももし、池上さんがまた書いたら――私は、すごく楽しみにしてますよ」
「そんな期待は、しない方がいいです」
僕の声は冷たかった。でも、水野は慣れているのか、気にした様子はなかった。
僕の不機嫌は顔に出ていたと思うし、隠すつもりもなかった。
彼女は空気を読み、話題を学校の文芸部のことに変えた。
水野が国語教師なのは知っていたけれど、文芸部の顧問をしているのは意外だった。
そのまま会話は穏やかに終わった。夕食の後半は、まあまあ楽しい時間だった。
ただ、僕の幼稚な態度が、その雰囲気に影を落としたのは間違いない。
わかっている。こんな自分、最低だ。だけど、人間って簡単には変われない。
水野のさりげない気遣いは、僕にとってとてもありがたかった。
少なくとも、彼女の前では、僕は少しだけ『自分』 でいられる気がする。
僕は心の中で、彼女のそんな優しさにそっと感謝していた。