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失敗作  作者: ykk
第2章:声に触れる
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 中古ショップから帰った後の日々は、これまでと変わらなかった。ラジオ番組の収録に行き、食事をして、寝る。それだけの生活。意識していなければ気づかなかったが、いつの間にか睡眠が一日の大部分を占めるようになっていた。


 眠いわけでも、怠けているわけでもない。ただ、起きていたくなかっただけだ。とはいえ、眠ることが好きなわけでもない。ただ「起きている」と「眠っている」の間で、まだマシな方を選んでいるだけ。


 人間という生き物は、日々の中で無数の苦しみを無理やり受け止めながら生きている。苦しみは常に苦しみであり、それを美化する人たちは大抵、幸せな場所から安全圏で語っているに過ぎない。


 逃げることを選んだ自分には、苦しみについて語る資格などないかもしれないが、少なくとも何も感じていない人たちよりは、同じ側に立っている気がする。


 五百円で買った本は、数ページめくっただけで放置してしまった。机の上でほこりをかぶっている。やはり、学生時代とは心の持ちようが違いすぎて、本から現実の苦しみを逃がすことができない。


 気づけば、食生活も以前と同じようなものに戻っていた。金銭的には余裕があるはずなのに、なぜかレストランにはまったく行かなくなった。毎日、インスタント食品やコンビニの弁当で栄養を取っている。消費カロリーも大したことないし、生命を維持できればそれで十分だと思っていた。


 こんな生活をしていると、自分の人生について考え込んでしまう。


 自分は一体何を求めてきたのか? あるいは、筆を取る理由は何だったのか?


 ラジオの仕事を紹介された時の心情を思い出す。「ようやく退屈な文章から解放された」と思っていた。でも、本当は自分でも気づいていた。退屈なのは文章ではなく、そんな文章しか書けなかった自分自身だった。


 沙耶との最後の会話で、彼女はこう言った。「いつでも書きたくなったら、私のところに来て」。そう言われたけれど、今のところ彼女に連絡を取る気にはなれなかった。なぜなのか、自分でもよく分からない。筆が重すぎるのか、それともせっかく手に入れた自由を手放したくないのか。少なくとも今は、あの世界に戻る気にはなれなかった。


 今の生活は、間違いなく最も自由だ。日々の支出は少なく、微々たる収入でも生活には困らない。空き時間もあり余るほどだ。「こんなふうに青春を無駄にするのは贅沢すぎる」と言いたくなるほどで、他の人から見れば、夢のような生活かもしれない。それなのに、この状況に不満を感じている自分は、なんとも贅沢なやつだと思う。


 芸術的な感性というものは、時に不要なものだ。必要なときに現れないなら、いっそ出てこないでくれ。創作をやめると、インスピレーションに対する感度が鈍くなる。脳が「不要なもの」として処理し始めるからだろう。インスピレーションが体から抜け落ちていく感覚は、まるで寿命が削られているようだった。芸術家の血にはインスピレーションが流れている、とはよく言ったものだ。つまり、それを垂れ流している今の自分は、もはや芸術家と呼べない。


 今さらになって後悔の念が湧き上がる自分が、なんとも滑稽に思える。……いや、本当に後悔なのだろうか。現状には特に不満はない。生活も成り立っているし、もう無理にひねり出したような文章を書く必要もない。喜ぶべきことじゃないか。


 そんなことを考えていると、しばらく沈黙していたチャイムが突然鳴った。私はソファから眠たげに体を起こし、玄関へ向かった。


 昼寝を邪魔されたと思っていたが、ポケットからスマホを取り出して時間を確認してみると――


 もう午後6時を過ぎていた。どうやら軽く寝るつもりが、がっつり夕方まで寝てしまったようだ。


 ようやく黄昏の空に気づき、私は扉を開けた。誰が来たんだろう? 沙耶以外、家に訪ねてくる人なんていないはずだった。沙耶に関しても、スマホで連絡をせずに直接来る理由が思い当たらない。


 扉を開くと、そこには水野が立っていた。


「こんばんは、どうしたんですか?」


「えっと……こんばんは……」と彼女は少し困った様子で言った。「買い物の途中で鍵を落としちゃって……家に入れなくなっちゃったんです」


 お互いこういった経験がなかったため、どうしていいか分からず、とりあえず大家さんのところへ相談に行くことにした。しかし、大家さんも合鍵を持っておらず、鍵業者に連絡してくれたものの、「清川区には今いないので戻るまで3時間以上かかる」と言われてしまった。


 仕方なく、私は彼女を自宅に招き入れ、そのまま待つことになった。二人ともお腹が空いていたので、私はカップ麺を二つ作った。


 湯気とともに立ちのぼるカップ麺の香りに、水野はとても嬉しそうに食べ始めた。私にとっては日常の味で、もう慣れてしまったものだ。


「そんなに美味しい?」


「お腹空いてたから、仕方ないでしょ」


 ずるずると麺をすすりながら、幸せそうに見えた。


「でも、こんなのばっかり食べてたら、栄養失調になるよ? たまにはちゃんと自炊しなきゃ」


「料理が嫌いで作ってないわけじゃないよ」


「じゃあ、なんで? 火を使うと死ぬ病気?」


「ただ料理できないだけだよ」


 そんな病気あるわけない。


「なるほどね……」


 彼女はスープまで飲み干し、満足げに唇をぬぐった。


 翌日、同じ時間に彼女は再び現れた。今度は鍋を手にしていた。


「……まさか、また鍵を?」


「違うよ」彼女は首を振った。「今日はご飯を作りに来たの。池上さん、料理できないでしょ? だから私が来たの」


「え……?」


 確かに昨日はそう言ったけれど、まさか本当に来るとは思っていなかった。


 彼女はまるで慣れた様子でキッチンに入り、自分の家から持ってきた鍋をコンロに置き、食材の準備を始めた。


 ああ、そうか。これでもう二度目の来訪か。


 こうなってしまえば、止める気も起きなかった。キッチンから聞こえる包丁の音は、私にとって魔法のようだった。私は手伝えることもなく、リビングで本を読んでいた。


 先日中古ショップで買った本がもう一冊残っていた。私の部屋にはカーテンの片側が壊れていて、午後になると採光が悪くなるため、ダイニングテーブルに本を移動させて読んでいた。そばの棚には普段使っていない花瓶が置かれていて、そこに本も並べていた。


 しばらくすると、水野は鍋ごとテーブルに持ってきた。カセットコンロの上に鍋を置く。


「すき焼き……っぽい?」


「まあ、そんな感じ。でもちょっと違うよ」


 火をつけると、炎が上がった。


 食材は確かにすき焼きとは少し違っていた。見慣れない材料も入っていて、鍋に入れるとすぐに煮えていった。


「料理ができなくても、こうやって一緒に楽しめたら悪くないでしょ?」


 彼女の言葉を聞きながら、私は箸を動かす手加減に気をつけていた。どこに「楽しさ」があるのか、正直わからなかった。


 けれど、久しぶりの新鮮な食材が思いのほか美味しくて、素直に感動してしまった。


 特に、酸味のあるタレに大根おろしが合わさった味は、外食では味わえないものだった。


「このタレ、何か特別なもの入ってる?」


 私は酢のタレの小皿を持ち上げて聞いた。


「うーん……たぶんね」


 そんな会話をしながら、私たちは食卓を囲んで、日常的な話を交わした。ふと、水野が棚に置かれた一冊の本に目を留めた。


「これ、何の本?」


 彼女の視線がその本に向いた瞬間、私はその様子を見逃さなかった。全身に冷や汗が浮かぶのが分かった。


 咄嗟に言葉を濁すしかなかった。


「……そうなんだ」


 幸いにも彼女は気に留める様子もなく、軽く頷いて話題を終えた。私の動揺に気づかなかったようだ。


 そりゃそうだ。あの本は、私のデビュー作であり――そして、最も触れたくない絶筆だったのだから。


『深海の小さなため息』。


 それは呪いのような存在であり、自分の文章が自分を拒絶した証でもある。その本を書き終えてから、人生が大きく狂い、私の筆は二度と心の旋律を刻むことができなくなった。


 そんなもの、どうして認められるだろうか。


 それからというもの、水野はほぼ毎日のように私の家に夕食を作りに来るようになった。学校がある昼間は来られないが、もしなかったら昼も来ていたかもしれない。


 何度も断ろうとしたが、結局折れてしまった。ただし、食材は私が買うという条件で。彼女が料理を担当する。


 計算してみると、意外にも食費はインスタント食品や栄養バーだけで過ごしていた頃と大して変わらなかった。むしろ二人分でも、栄養価や満足感を考えるとむしろ安上がりだ。


 ――これでいいのかもしれない。栄養をちゃんと摂れて、彼女の気持ちも無駄にしない。

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