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沙耶の情報は誤っていた。現地に行って初めて気づいたのは、新しく始まるのはテレビ番組ではなく、ラジオ番組だったということだ。とはいえ、彼女の言う通り、顔合わせだけで話はすんなりと進んだ。資格の確認すらなかった。これが、現代の人脈ネットワークというものか。
ラジオ番組の企画にはまだ時間がかかるそうで、正式に仕事が始まるまでの間、無駄遣いは控えなければならない。実際、あの日の電話の後の衝動買いが、金銭的な苦境に拍車をかけた。
そのため、節約できるところは節約しようと、普段ならまず参加しないような活動に顔を出すことになった。
週末になると、このアパートの大家・織田さんは、一階の自室で入居者を招いて食事会を開いている。誰でも歓迎とのことだが、正直言って奇妙な風習に思えて、しかも顔を出しているのは年配の方々ばかり。人付き合いが苦手なこともあり、今まで一度しか参加したことがなかった。その一度も、引っ越したばかりで右も左も分からなかった週に、強引に連れて行かれたものだった。
部屋に入ると、織田さんと彼女の友人たちが楽しそうにテーブルを囲んで笑っていた。私の姿を認めると、一瞬沈黙が流れたが、すぐにいつもの賑やかさが戻った。
まぁ、滅多に顔を出さない住人が急に現れれば、当然の反応だろう。
「まあまあ、池上さんじゃないの。お久しぶりねぇ」
「はい、織田さん。ちょっと久しぶりに来てみようかなと思いまして」
この食事会は、清川に来たばかりの若者たちがまともにご飯を食べられないことを知った織田さんが、誰でも気兼ねなく食事できる場として始めたものらしい。近所付き合いの場でもある。
私は適当な言い訳をでっち上げて皿に少し料理を取ると、席を探して部屋を見渡した。
まだ時間が早いのか、若者組の姿は少なく、しかも彼らは既にできあがったグループで固まっていた。無理にその中へ入っていくのも気が引けるし、だからといって中年組に混じる勇気もない。
さてどうしたものかと隅の方を見やると、そこには前にエレベーター前で出会った女性が一人で座っていた。少し地味な三つ編みをして、静かに佇んでいた。
私は彼女に近づいた。
「隣、いいですか?」
「どうぞ」
私はその隣に座り、黙って食事を始めた。
織田さんの手料理は特別美味しいわけではないが、無料で栄養バランスのとれた食事を提供してくれるのだから、文句を言う筋合いはない。むしろありがたいくらいだ。
「なるほどね……どうりで……」
食べている間、彼女はなにやらブツブツと独り言をつぶやいていた。気になって、私は尋ねた。
「何か?」
「今まで……ずっと来てなかったよね?毎週、人混みの中であなたを探してたのに」
「俺を?」私は自分を指差した。
彼女はこくりとうなずいた。
「……あなたの見た目が一番分かりやすいから。でもずっといなかった」
言われてみればそうかもしれない。手入れもしていない長髪と無精ひげ。そんな見た目の男はこのアパートには私くらいしかいないだろう。
私はまた箸を動かした。
「それで、どうして今まで来なかったの?」
「なんとなく……来る気がしなかっただけ」
「来なくてもいいんだ……?」
その言葉に私は思わず詰まった。ようやく飲み込んでから、彼女の顔を見直した。
冗談を言ってるようには見えなかった。
「当然来なくても大丈夫だよ。誰も強制なんてしてないし」
そう返したものの、彼女の反応はやはりどこかちぐはぐで、不思議な感じだった。
しばらくして、彼女がぽつりと呟いた。
「あなた……変な人じゃなかったんだね」
「じゃあ、どんな人だと思ってたの?」
軽く返すと、彼女は少し考えてから答えた。
「部屋に閉じこもって、夜通し『本物の美』を追い求めてる芸術家、みたいな人」
思わず吹き出しそうになり、水を飲んで落ち着いた。
「それで、君は何をしてるの?」
「芸術家……みたいなものだよ」
私はそう答えた。芸術家と呼ぶには程遠いが、根っこは似たようなものだ。
「そうなんだ……」
彼女の声は少しだけ柔らかくなった。
「君は?」
彼女は20代前半くらいに見える。大学を卒業したばかりかもしれない。
「近くの中学校で教育実習をしていて、最近正式に採用されました」
「へぇ、若いね、頑張って」
「若いねって……あなたもそんなに年上じゃないでしょ?」
私は笑ってごまかした。
「さあね。……面白いな、君。名前は?」
「水野優華です」
「俺は池上芳樹」
「池上芳樹……」
彼女は意味ありげにその名を繰り返した。
私は特に気にせず、そのまま食事を終えて帰宅した。
それからの週末、水野は「来なくてもいい」と知って以降、もう織田さんの食事会に顔を出すことはなくなった。金銭的に少し余裕ができた私も同じだった。
ただ、同じアパートの住人ということもあって、リアルでの接点は少ないものの、LINEを交換してからはたまにメッセージのやり取りをするようになった。
そうして少しずつ、私たちの交流は増えていった。