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三時間が過ぎた。それでも、何も書けなかった。
立ち上がって伸びをし、グラスを持ってキッチンへ向かい、水道水を一杯飲み干す。
インスピレーションというものは、仕事モードに入っていないときにしか、嫌々ながら姿を現さない。しかもほんの短時間で、十五分も経てばもう消えてしまう。思考がようやく温まりかけた頃には、もうどこかへ行ってしまうのだ。
創作に没頭する前に特に好きだった作家が、インタビューで「どうやってそんな作品を生み出したのか」と聞かれたとき、こう答えた。「たまたまインスピレーションを掴めただけです」と。
インスピレーションは誰もが持っている天賦の才だ。しかし、それを詩の一節として形にできるのが天才であり、筆先で花開かせることができる。だからこそ、そのインスピレーションを掴むだけでも、天才と凡人の境界になるのだ。
この業界で情熱を注げば注ぐほど、自分と本当に才能のある人間との差を思い知らされる。
だが、そんな自分でも、最初は「天才」としてメディアに取り上げられた。彼らは美を見抜く目を持たないくせに、一時的な作品のきらめきと金の匂いを嗅ぎつけて作者を持ち上げ、甘い泡のような幻想を編み上げる。そして、何の罪もない凡人たちは、自分を特別な「天才」だと錯覚し、実力もないまま世間の作品を批評し出す。本人はもう、一滴のインクすら絞れないというのに。
真実に気づき、そこから抜け出そうとしたときには、もう遅い。メディアに――いや、自ら編み出した幻想に縛られて、夢から目覚めることができない。「今さら諦められるか」、そう叫びながら市場のヒット作を見下し、役立たずの駄作を書き続ける。
……いや、これはきっと、何も書けない今の自分の愚痴にすぎない。
スマホを手に取り、時間を確認し、カップ麺を作ろうとキッチンへ向かう。
画面をロック解除すると、未着信がいくつも表示された。担当編集者からだった。
折り返し電話をかけた。
「もしもし、池上です」
「芳樹、何してたのよ?」
開口一番、容赦ない声が飛んできた。不意を突かれて、しばし言葉が出ない。
「もしかして、書けてないの?」
確かに、提出した原稿は自分でも直視できない出来だった。言い訳するより、正直に認めたほうが楽だろう。
「……認めたくないけど、正直、そうだよ」
そう言いながら、なぜか恥ずかしそうに顎を掻いた。相手には見えないのに、反射的に。
「やっぱりね。そんな気がしてた」
その一言に、逆に安心してしまう。作家としては最悪の反応だ。
沙耶――彼女は自分以上に自分を理解している編集者だ。彼女がいなければ、デビュー作すら世に出なかっただろう。
「今まであなたの作品をネットで追ってた読者は、名前目当てだった。でも満足のいく作品を出せなければ、この世界には優秀な作家が他にもいるから、読者は残らないわ」
誰が言っても変わらない、当たり前の理屈だ。だからこそ、何度も原稿を修正した。
沙耶は、まるで心を見透かすような口調で言う。「そんなふうに何度も書き直して、何日経っても満足な原稿を出せないのは、この業界では通用しない」
「分かってるよ。じゃあ……辞めろってこと?」
――今さら? と口に出しかけたが、編集を責めるように聞こえる気がして飲み込んだ。
「うん」
あっさりとした肯定に、逆に驚いた。
普通なら、こういうときには励ましの言葉を言って、もう少しだけ働かせるんじゃないのか。どうしてこうなる?
「だって、向いてないもの。最初にネットで書いてみろって勧めたのは私だけど、それが間違いだった」
彼女の誠実な謝罪に、かえって申し訳なさがこみ上げる。
自分の無能さのせいで、編集者にも迷惑をかけてしまった。
たぶん、LINEやメールも未読メッセージで埋まっているだろう。電話すら無視していたら、そのうち家にまで来たかもしれない。彼女は住所を知っている。
「それで、電話してきたのは……?」
「だからさ、もう書けないなら、無理に続けなくてもいいってこと」
「ずいぶんとあっさりだね」
「一度休んだっていいじゃない。頭がスッキリしたら、また書けばいいの。収入がないんでしょ? お金が必要なら、貸すよ」
「いや、それは遠慮しとく。借りを作りたくない」
「そう言うと思った。でもどうせバイトもしないんでしょ? プライドが邪魔して」
「いや、一応頑張って書いてたんだけど……」
飲食店やコンビニでバイトするのは正直しんどい。人と接するのが苦手だし、笑顔で接客なんて無理だ。面接すら乗り越えられる気がしない。
「ま、言い訳はともかく。あなたに合ってそうな仕事があるんだけど、紹介してもいい?」
「何それ?」
「あなたの名前を使う仕事よ。地方のテレビ局で、新しい番組にレギュラー出演者が必要なの。あなたの名前があれば、それなりに注目されるから」
あの名前、か……。
心のどこかで、自分の名前に対して拒否反応があった。
でも、使わなければ餓死するだけ。死ぬよりはマシだ。
テレビ出演なんて初めてで、不安もあるけど、人前に出なければいいなら何とかなるかもしれない。
やるしかない。
「お願いするよ」
沙耶の声が、少し嬉しそうに響いた。なぜ自分が助けを受け入れただけで嬉しそうなのか不思議だったが……もしかすると、テレビ局側に頼まれていたのかもしれない。どちらにせよ、自分にとっては貴重なチャンスだ。
「テレビ局の担当者は私の知り合いだから、紹介すれば問題ないと思う。あとはあなたが直接やり取りして」
「了解」
スマホを置いて、窓の外を眺めた。沙耶のおかげで、ひとまず飢え死にせずに済みそうだ。
夕暮れだった空は、すでに闇に包まれていた。
夜が更けてきた。財布を手にして、下のコンビニへ向かう。
収入の見込みが立ったのなら、今夜は久々に少し贅沢してもいいだろう。
弁当を一つ選び、久しぶりに会う店員のお姉さんが、驚いたように笑顔で温めてくれた。