15
アパートに戻ると、ひと時も無駄にしたくなくて、すぐに部屋の机に向かい作業を始めた。ほんの数ヶ月前までは、これが日常だった。あの頃は、筆を置く日が来るなんて思ってもみなかったのに、状況はあまりにも早く変わってしまった。
でも今、もう一度筆を取った。同じ考えのままで生き続けられる人なんていない。変わらない人間なんて、存在しないのだ。
読書に関しては紙の媒体を好むが、執筆となると、やはり電子媒体に頼ることが多い。ノートパソコン上で文章を打つ方がずっと効率的だ。手書きよりも速いし、修正もしやすい。浮かんだアイデアをそれぞれ保存しておけるので、あとで別の場面に活かすこともできる。
まずは、大まかな構成を考える必要がある。どんな物語を書くのか、その方向性を決めなければ。
水沢さんの心を動かすには、どれほどの物語でなければならないのか。彼女の目標は「四華賞」なのだから、僕が書くべき作品も、それと同等か、それ以上のレベルでなければならないのだろう。
今の自分に、そんな文章が書けるのか――正直、自信はなかった。情熱だけではどうにもならない。それは、長年にわたってネット小説を連載していた時に、身に染みて学んだことだった。
結局、夕食の時間になっても何も決められず、沙耶に電話をかけて、小説を書き始めたことを伝えると、彼女は驚き、そしてとても喜んでくれた。けれど、それ以上に踏み込んでくることはなかった。
次に報告すべきは水野さんだろう。彼女は、僕の新作をずっと楽しみにしていると言ってくれていたから。このことを伝えようと思った。
ただ、今夜は少し空気が違った。初めて会った時と同じように、水野さんは沈んだ様子だった。
「ゴホ、ゴホッ」
「大丈夫ですか?」
口元をハンカチで押さえながら、彼女は小さく首を振った。その仕草でようやく沈黙が破れ、このタイミングを逃したら、また黙り込んでしまいそうな気がして、僕は口を開いた。
「その、また書き始めたんです」
「え?」
「小説のことです」
「……えっ、本当に?」
予想どおり、この話題に水野さんは目を輝かせ、熱心に応援の言葉をかけてくれた。僕はうわべだけで頷きながら、内心ではずっと落ち着かなかった。
本当に、あの頃のような作品が、今の自分に書けるのか。文芸部で水沢さんと対峙したとき、怒りに任せて「書く」と口にしたけれど、冷静になった今は、その言葉の重みに怖気づいていた。
気がつけば、自然とあの本を手に取っていた。水沢さんの『空名の書』。今なら、前とは違う読み方ができるかもしれない――そんな思いがふと頭をよぎり、そのまま読み進めた。
驚いたのは、彼女の文章を読んでも、以前のような圧迫感を感じなかったことだ。あの現実感すら覚える描写が、なぜあの時あれほど強烈に胸を抉ったのか、今でもわからない。
『深海の小さなだめ息』を書いた当時の自分は、いったい何を想って筆をとっていたのだろう。
深く息を吸い込み、当時の心境を思い出そうとする。でも、時というのはそう簡単に遡れるものではない。年齢とともに老いていくのは、肉体だけではなく、魂もまた同じなのだ。
それでも、ようやく日常が軌道に乗り始めた。水野さんの授業に付き添って、半学期が過ぎた頃、学校側から週に一度の特別授業を持たせてもらえることになった。教室の最後列では、かつての僕のように、水野さんが授業を観察し、記録し、アドバイスをくれる。
一方、文芸部では、水沢さんと向かい合いながら、それぞれ作品を執筆していた。
再び書き始めたことで、彼女の僕に対する態度も、少しだけ軟化したようだった。もっとも、それだけだったが。
ある日の午後。いつものように狭い部室で静かに書き進めていた時、彼女がぽつりと口を開いた。
「池上先生、知っていますか? この机、昔の文芸部からずっと受け継がれてきたものなんですよ」
水沢さんは、その木製の机をそっと撫でた。彼女の指先の動きにつられて目を向けると、すっかり磨かれて滑らかになった天板が、年月の重みを物語っていた。
材質は濃い色の木材のようで、年月を重ねても汚れた印象はなく、むしろ特有の風合いがあり、人の心を引き寄せるような魅力をたたえていた。
水沢さんは、最初からこの机に魅了されていたのだろう。きっと、僕もそうだったのだと思う。
「そうなんですか」
僕が独り言のように答えると、彼女は珍しく文芸部の歴史を語り始めた。
「一番輝いていた頃には、在学中に四華賞の金賞を取った先輩もいました。……つまり、四華賞の最優秀賞です」
それは、校長が面接の時に話していた内容と一致していた。調べてみると、僕自身もその賞を受賞していた。『深海』で得たのは最優秀賞ではなかったけれど、それでもあの作品で取れる程度の賞だ。正直、あまり大したことはないと思っていた。
「他には、誰も受賞していないの?」
「池上先生、本当に『四華賞』がどんな賞か、知らないんですね?」
文学賞と言えば、一般の人でも知っているのはノーベル文学賞くらいだ。国内では年に二度、純文学と大衆文学に分かれる芥川賞と直木賞、それに三島由紀夫賞や川端康成賞など、多少なじみのあるものもあるが、それ以外はあまり知られていない。
当時はすべて沙耶が手続きをしてくれて、「出してみない?」という軽い提案にうなずいただけで、詳しい流れは一切知らなかった。受賞の通知が来た時には、すっかり忘れていたくらいだ。
僕の困惑した表情を見て、水沢さんはため息まじりに説明してくれた。
「四華賞は、国際的に非常に有名な文学賞です。国内であまり知られていないのは、近年この国の作家が最優秀賞まで進めていないからに過ぎません」
彼女は両手を使って、高低さまざまなジェスチャーを交えながら続けた。
「まず、地区優秀賞に当たるのが三賞で、七名しか選ばれません。その上にあるのが、各大陸ごとの二賞。さらに各大陸から二作ずつ選出され、最終的に最優秀賞を争うのです。……これで、この賞がどれほどのものか、分かりましたか?」
「それなら、この学校から最優秀賞を出した文芸部って、全国的に話題になったはずですよね?」
「当時は確かに話題になりました。でも、それももう昔の話です。今とは時代が違うんですよ」
「いつのことだったんですか?」
「……13年前です」
13年前。僕が執筆を始める5年前のことだった。
「でも、その5年後に、また地区賞を出したじゃないか」
「先生のその作品の後も、国内で受賞したのはわずか一人だけです。『日本文学が衰退した』とか、『四華賞の基準が厳しくなった』とか、色んなことが言われています。でも一つだけ言えるのは――誰もがこの賞を目指しているということです。文学の世界では」
「ってことは……君も狙ってるってこと?」
「分かりません」と水沢さんは首を振った。「でも、池上先生は、自分が取った賞について無知なだけじゃなく、興味すら持っていない。なのに、どうして応募したんですか? 巨額の賞金と、本の印税だけでも、一生暮らせるはずでしょう?……それをすべて使い果たして、どうやってそんな状況に陥ったんです?」
彼女は「チッ、チッ」と舌打ちのように言いながら、手を動かし続けていた。
「大人の世界にも、色々あるんだ。君が思ってるほど単純じゃない」
「それでも納得できません。競馬か、パチンコか、麻雀か、そういった理由でもなければ」
「馬鹿なこと言うなよ」
不機嫌さが露骨に滲んだのが伝わったのか、彼女もそれ以上は言わなかった。……といっても、それは僕への配慮ではなく、単に無駄だと判断しただけだろう。彼女と接して半期が過ぎた今なら、それくらいは簡単に分かる。
こんなふうに、くだらない雑談を交わすことすら珍しい。やっぱり、何も言わずに並んで執筆しているのが、この文芸部の「普通」なのだ。