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失敗作  作者: ykk
第1章:空白の書頁
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 カーソルが画面の上で何分も点滅していた。

 それに気づいていたかどうか、自分でもはっきりとは分からない。空腹のせいで視界がぼやけ、ドキュメントの空白行に焦点が合わない。


 腹が「ぐう」と鳴った。最後に何かを口にしてから、もう一日か、それとも一日半は経っているだろうか。記憶が曖昧だった。


 薄暗い部屋の中、モニターのかすかな光を頼りに、コンビニのビニール袋を漁って最後の一本のエナジーバーを取り出した。包装を破り、半分を一気にかじって、荒っぽく咀嚼する。


 二口でなくなった。もちろん、空腹は収まらない。だが、それもいつものことだ。


 書けなければ、金は入らない。


 多少の貯金はあるが、この生活が続けば長くはもたない。そのうち、タダで食料を手に入れる方法を本気で考えなければならなくなるだろう。


 体がまだ動くうちに、アパートの下に行って何か食べ物を買ってこよう。


 その前に──外に出るなら風呂ぐらい入っておくか。何日も身体を洗っていない。大人の男特有の強烈な体臭を自覚するたびに、自分で吐き気がするほどだ。


 部屋の机から立ち上がる。食べ終わったカップ麺の容器は適当に机の隅に積まれ、洗濯物は汚れているのかそうでないのか判別がつかず、ベッドの上にも床にも、ありとあらゆるゴミと一緒に散らばっていた。それらには目を向けず、ドアを開けて浴室へと向かう。


 風呂に湯を張る余裕はない。というか、そもそも湯を出すお金がない。仕方なく水シャワー。夏だからまだいいものの、冬になればこれは地獄だ。氷のような水が体を打ち、熱湯と同じように刺すような痛みを伴う。


 湯船に浸かる気力もない。シャワーを捻って、髪と体を一気に濡らす。シャワーヘッドは鏡に向かって設置されていて、そのおかげで自分の姿を確認することができた。


 髪は肩まで伸び、ヒゲはたぶん二週間は剃っていない。二十七歳の男とは思えないほど、体は痩せ細っていた。


 鏡の中の自分をぼんやりと見つめながら、水を無駄に流していた。ハッと我に返り、動作を早めてざっと体を洗い終えた。


 着替えたのは、たぶん清潔な服だと思う。少なくとも、鼻につく臭いはしなかった。


 スマホはずっと充電されていた。ネットに接続すると、さまざまなアプリの通知が一気に画面に飛び込んできた。


 ……うるさい。


 どうしてだろう、胸の奥から得体の知れない怒りが湧き上がってきた。スマホを操作し、通知を飛ばしてくるアプリを次々と削除していく。


 どうでもいいニュースを押し付けてくるSNS。削除。


 欲しいとも言ってない商品のセールを知らせる通販アプリ。削除。


 読者コメントの通知が頻繁に来る、自分の書いた文章を掲載していたサイトのアプリ。削除。


 外との唯一の接点だったLINE。少し迷って、それだけは残した。


 最後に銀行アプリを開いて、口座の残高を確認する。このまま収入がなければ、あと二週間分の生活費しか残っていない。自分の表情が笑っているのかどうか分からず、複雑な気持ちでソファに腰を下ろし、スマホの画面を閉じた。


 アパートの下に降りて、いつものようにコンビニ横の自販機で、よく食べるインスタント食品をいくつか買った。


 ビニール袋の中身が、今の自分にとっての命綱だった。それだけが、死なずに生き延びるためのエネルギー源なのだ。


 アパートに戻ると、エレベーターの前にロングスカートの女の子が立っていた。何度もボタンを押していたが、反応がないようだった。


 ──動くはずがない。


「カード、持ってないの?」


 彼女の背中に向かって声をかけた。


「カード……?」


 このアパートのエレベーターは、カードキーがないと動かない。部外者の侵入を防ぐための仕様だ。


 彼女は眉をひそめ、まるでエレベーターカードの存在すら知らないようだった。隣にはキャリーケースといくつかの大きな荷物。どうやら今日から引っ越してくる新しい住人らしい。


 オーナーは同じ人物──このアパート全体を所有している「織田さん」と呼ばれる女性。年の頃は五十代くらい、穏やかな人柄で知られている。もしかすると、新しい住人にカードを渡し忘れたのかもしれない。


「俺、持ってるから。入っていいよ」


「……結構です」


 なぜか彼女は強い警戒心を見せ、荷物を体の前に構えて、まるでこちらを拒絶するような構えをとった。完全に「防御」の姿勢だった。


 ──俺、そんなに怪しいか?


 苛立ち気味だったし、関わる気にもなれなかった。そのまま無言でエレベーターに乗り込む。


 中から彼女に階数を聞いたが、無視された。


「このまま階段で上がるつもり?」


 返事はない。


 開ボタンを押したままの俺は、小さくため息をついた。


「好きにすればいいけど、もう一度だけ聞くよ。乗る? 乗らないなら行くけど」


 しばらくの間をおいて、彼女はようやくキャリーケースと荷物を引きずってエレベーターに入ってきた。


「何階?」


 荷物を俺との間に挟み込んできて、思わず苦笑いしてしまう。


「四階です」


 ボタンを押そうとして──気づいた。同じ階だった。


 四階はずっと俺だけの住処だった。こんな形で初めての隣人が現れるとは思ってもみなかった。


 まあ、どうでもいいことだ。どうせ俺は外に出ないし、これからも接点などないだろう。

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