第九話、風の耳、風の心
※前回、風の力を制御できず、はじめて「魔法の怖さ」と向き合った奏。
今回はその心の揺らぎと向き合い、あらためて“風とつながる”回となります。
見えないものに耳を澄ませること、そして自分の気持ちに嘘をつかないこと。
奏にとって、それは小さな一歩かもしれませんが——確かな前進でもありました。
名も知らぬ男が去ったあと、奏はしばらくその場に立ち尽くしていた。
空には雲ひとつなく、陽の光が草の先に静かに降り注いでいた。
風は、まるでささやくように通り過ぎていく。
——さっきまで自分を呑み込んだ力とは思えないほどに、やさしく。
さっきまでの暴れ狂った力が嘘のように、今は草を撫でるような、ほとんど囁きに近い風が通り過ぎていく。
(……風は、怒っていたんだろうか。私に……)
思い出すのは、暴走の直前のあの感覚。
胸の奥がざわめき、何かが逸れていった気がしていたのに、それを見過ごした。
(私……ちゃんと、風の声、聞いてたかな)
「風に聞いてごらん。気が向いたら、教えてくれるかもよ」
あの男の最後の言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。
風に聞く。風と共鳴する。
言葉ではない言葉で、感じ合うように。
「……やってみよう」
奏は小さく息を吐いて、目を閉じた。
地面に静かに腰を下ろし、風の通り道を感じるように意識を澄ませる。
葉のこすれる音。草が揺れる気配。
頬をかすめる風の感触。それらすべてに耳を澄ます。
心を、空っぽにする。
ただ、風の中に自分を委ねていく。
(私は、あなたを操ろうとした……)
(でも、あなたはずっと、私のそばにいてくれた……)
(怖がっていたのは、私のほうだった)
思いが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
言葉にはならないが、風はそれを受け取ってくれている気がした。
それはまるで、長くすれ違っていた親しい友人と、やっと本音を交わせたような、そんな不思議な安心だった。
そのときだった。
「……聞こえる?」
誰かの声がした。けれど、誰もいない。
奏は目を開けた。
目の前の空間に、風がゆるやかに渦を巻いている。
その中心に、ふわりとした何かが浮かんでいた。
(……!)
それは、見覚えのある小さな影。
夢で出会った、“風の民の子”。
淡い水色の髪、七色の光を宿した硝子のような瞳。
まるで子どものような姿で、しかし時間の深みを湛えるその存在が、風の上に立っていた。
『会えて、うれしいよ。あなたが、耳を澄ませてくれたから』
奏は、言葉も出せずにその姿を見つめる。
『さっきの風は、あなたの願いが届かなかったんじゃない。届いたから、あんなに暴れた。あなたが大切なものを守りたかったって、ちゃんと伝わったから……風も全力で応えようとしたんだよ』
「でも……私は、制御できなかった。怖かった……」
『うん。それも、大切な気持ち』
風の子は、やさしくうなずいた。
『怖がることも、間違うことも、恥じゃないよ。
風はね、誰かの“ありのまま”に、いちばん近いところにいるんだ』
奏は、自分の胸に手をあてる。
風はどこか遠くのものではなく、ずっと近くにいた。
喜びも、悲しみも、恐れも……すべてに寄り添ってくれていた。
「……ありがとう」
そう呟いたとき、不意に風がふわりと舞い上がった。
風の子の姿が、少しずつ霞んでいく。
『また会えるよ。あなたが風と話したいと願うなら、何度でも』
風が奏の頬を撫でる。やさしい、透明な指先のように。
そして、風の子の姿は、光の粒となって風に溶けていった。
しばらくして、奏は立ち上がった。
さっきまで感じていた怖れは、すっかり消えていた。
まだ、自分の力がどれほどのものかは分からない。
けれど——
「きっと、もっとちゃんと、話せるようになりたい」
風に。精霊に。世界に。
そして、自分自身に。
木々の間を抜ける風が、応えるように頬を撫でた。
奏は小さく笑って、歩き出した。
旅は、まだ始まったばかりだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
今回は、奏が風との絆を結び直す物語でした。
精霊との対話や、自分の不安を認める勇気は、魔法の力そのものよりも大切な“何か”を感じさせてくれる気がします。
次回は、にぎやかな町での出会いと、新たな試練のはじまり。
どうぞお楽しみに!
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