第八話、名乗らぬ男、名乗らぬ風
※奏の魔法が暴走し、はじめての「恐怖」を味わった前回。
今回は、その後に現れた一人の謎めいた男との会話が描かれます。
名乗らず、ふらりと現れ、軽口を叩きながらもどこか核心を突く。
彼の言葉と気配は、奏の旅に新たな風を吹き込みます。
森に、ようやく静けさが戻った。
木々のざわめきも止み、土の匂いが深く息を吸わせる。
奏は、地面に座り込んだまま呆然と目の前の光景を見ていた。
さっきまで渦を巻いていた風が、嘘のように消えていた。
その中心に立つのは、見たことのない男だった。
色素の薄い髪を軽く束ね、首元に巻かれたストールが風をはらむように揺れている。
長身で洒脱な服装、そしてどこか芝居がかった笑みを浮かべて、彼は言った。
「いやはや、初対面で命の恩人とは……どうにも芝居がかってる気がするね。僕もずいぶん優しくなったものだ」
奏は戸惑いのまま、思わず問いかけた。――彼が助けてくれたの、か? それとも。
「……あなた、誰ですか?」
「ん? 誰かって? ……そうだな、“風の通りすがり”ってとこかな」
「え? 名前は?」
「どうせ通りがかっただけなんだ。名乗ったって、すぐ忘れるさ。だったら好きに呼んでくれて構わない。“妙なやつ”でも、“変なお兄さん”でも」
その軽い調子ではぐらかされて、奏は、なんだか腹が立ってきた。
「助けてくれたんですよね? そのことは感謝します。でも、からかわないでください……!」
「からかってる、って? そんなことはしていないさ。これはいたって真面目な話だよ」
そこまで言うと言葉を区切って、にやりと笑う。
「君みたいな、生真面目で融通の利かない子ってさ、ついからかいたくなるんだよね。不思議なことに」
――ほら、やっぱりからかってるんじゃないか!
奏が反論するために立ち上がろうとしてふらつくと、男は自然な動作で支えた。
「ほらほら、まだ風に遊ばれた余韻が残ってる。無理しないことだ」
「……あれは……私が、失敗したから」
「うん、見事にね。でも、驚いたよ。あれほど派手に暴走させるなんて、大したもんだ」
奏はうつむいた。
ほめ言葉ではないのはわかっていたが、どこか本気で責めているようでもなかった。
「風ってのはね、呼べば来るもんじゃない。近くにいてくれることはあるけど、それは友達みたいなもので。都合のいい時だけ呼び出したって、怒るだけさ」
「……でも、本気で助けたかったんです」
「そう。その気持ちに嘘はないだろうさ。ただどんな立派な思いでも、それだけじゃ風は動かない。君の声がどれだけ真剣でも、それが風に届いてなきゃ意味がないんだ」
「届いていなかった……?」
「風は感じるんだよ。君が何を願って、何を恐れているか。君自身がちゃんと向き合っていないと、風は“何をすればいいか”分からなくなる」
どこか子供に言い含めるような優しさを含んだ言葉だったのが、余計に胸に刺さった。
夢で出会った風の精霊の言葉がよみがえる。
「……あなたは、魔法使いじゃないんですよね?」
直感的にそう感じていた。風を散らしたのは彼だったが、彼は魔法を使う存在じゃない。
「そう。僕は風の使い手じゃない。でも、長く見てきたんだ。魔法を使う者たちが、風と付き合っていく様をね」
「じゃあ、なんで……どうして、そんなに詳しいんですか?」
「旅の副産物、ってとこかな。昔から変な縁ばかり拾う性分でね」
男は、奏を地面に座らせる。そして、自分もその傍らに腰かけ、にやりと笑ってみせた。
「君みたいな子を見てると、思い出すんだ。……ああ、そういえば、君みたいな風の子を放っておけない“変わり者”がいたなって」
「変わり者……?」
唐突な話を始める男の言葉に奏は目を丸くする。目の前の彼は一体、どこまで知っていて、こんな話を始めるんだろう。
「そうそう。風の魔法を扱う魔法使い。少し風変わりで、誰かれ構わず弟子に取るような性分じゃないけど、たまに“どうしようもない風の子”に手を貸すんだ」
奏は息を呑んだ。
「……その人には、どこに行けば会えるんでしょうか?」
「さぁてね。決まったところに住んでるわけじゃないんだ。そもそも旅ってのは出会うためのものだし、別れるためのものでもあったりする。まぁ、君がちゃんと歩き続ければ、会えるかもしれないさ」
「……!」
何とも無責任な話の締めくくりである。怒ってもいいところだったが、胸の奥で、なにかが灯った気がした。
自分はまだ何者でもない。けれど、誰かがこの世界のどこかにいて、自分のような存在を受け入れてくれるかもしれない——
そんな想いが芽生えただけでもなんて心強いことだろう!
「でも、忘れないこと。どんな人に会っても、答えは君の中にしかない。魔法も、風も、感情も、全部自分のものだってこと」
男はそう言い、くるりと背を向けた。
「え……待って!」
奏が叫ぶ。
「せめて……名前だけでも!」
男は振り返らず、肩越しに手をひらひらと振った。そんなものは不要だと言わんばかりに。
「名前が必要だって言うなら、風に頼ってみな。……気まぐれな彼らが、機嫌を損ねていなければね」
そう言い残して、現れた時と同じに風のように去っていった。
奏は、風の残り香の中に立ち尽くしていた。
でも、その胸の奥では、さっきまでとは違う風が、確かに吹いていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
今回登場した「名乗らぬ男」は、奏そうにとって大きな転機となる存在です。
彼の言葉の真意は、すぐにはわからないかもしれません。
けれど、その風のような自由さと、どこか温かい眼差しが、
奏の旅に少しずつ“方向”を与えていくことになるでしょう。
次回は、風と真正面から向き合う場面が描かれる予定です。
どうぞお楽しみに!
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