第五十四話、第九層《風の源泉》――《風のことば》の奥へ
風がすべての重さと色を失い、透明な光の流れとなって渦巻く場所――《風の源泉》は、物理的な空間の奥にある、意識と精霊のあわいに存在する層だった。
奏が扉をくぐった瞬間、世界は音を失った。ただ、風だけが存在していた。
足元に大地はなく、上も下もない空間。けれど、奏の体は崩れず、風のうねりが支えるように奏を包んでいた。
奏は「風の名」を呼ぶ。名乗るのではなく、風のことばで語りかけるように――。
「わたしは、風の名においてここに在る。
あなたがたの一部でありながら、異なる者として。
わたしは、名を持つ者。風の願いを受けて、この地に至る」
沈黙。だが、やがて微かな震えとともに、無数の“声”が応える。風のことば。それはかつての師匠が語った、言葉ではない言葉。意味と意志の純粋な共鳴。
奏はそこに、「風の民の子」の姿を見た。あの七色の瞳の存在が、彼の前に現れる。
「ようやく、ここまで来たのだね」
かすかな微笑。だがその眼差しは、どこか試すようで、どこか慈しみに満ちていた。
「君は、《風》と向き合う覚悟があるのかい? 知ることは、風を縛ることにもなるよ。名を知る者は、名の力を持つ。ここは《風のことば》が生まれる場所。問おう、君の“ことば”は何だ?」
奏は答えることを急がなかった。思い返す。旅の中で出会った人々、交わした言葉、心を動かされた瞬間たちを。
リウのまなざし。シフの問い。リアガンの静けさ。セレスティナの論理。アルヴの衝動。
そして、風とともにあった自分。
「……ことばとは、風のようだと思う。
誰かの心に触れて、形を変えて、また別の誰かに届く。
だから、わたしは“伝える風”になりたい。
争いを避けるのでも、正しさを押しつけるのでもなく。
ただ、風がそうであるように――届くことを願って、吹く」
その瞬間、空間が震えた。風が奔流となり、奏の身体を通って吹き抜ける。
彼の背に、淡い光が宿る。風の名が、風そのものが、彼に応えたのだ。
《風の源泉》は、風の魔法の原初を知る場所。そして、そこに至った者が「風の守り手」として次なる役割を得る場でもあった。
「……おめでとう、奏。君は、“風の声”の一つとなった」
風の民の子が、そう告げる。
そして、源泉の奥にもう一つの扉が現れる。かつて師匠が通ったという、さらに深き試練へと続く道。
だが奏は、まだ扉をくぐらない。
彼は仲間たちとともにここに至ったことを思い、振り返る。仲間に語りかけるべき、自らの言葉を――風のことばではなく、人の言葉で紡ごうとしていた。




