第五十三話、第九層《風の源泉》
扉が開いたその先は、これまでのどの層とも異なる、広大で果てのない空間だった。
風が吹いている——というより、風そのものが空間を構成しているかのようだった。地も壁もなく、ただ風が渦巻き、光がそのなかを漂っていた。どこから吹いているのか、風には方向がなく、上も下も曖昧だ。無重力に近い浮遊感の中、奏は足元の実感を失いそうになった。
「……ここが、風の塔の最深層……」
リアガンが声を漏らす。彼の水色のストールがゆるやかに宙を舞うように揺れ、金の髪が光の粒子をはね返していた。傍らでは、リウが無言で周囲を見渡している。その目に宿る光は、今までの試練以上の緊張を語っていた。
シフは一歩前に出る。風の中でも彼の長い髪は静かに揺れるだけだった。
「風の根源。その気配は……懐かしいな」
「懐かしい?」
奏が問いかけると、シフは微笑む。
「かつて、風のことばを聞いたときの感覚に似ている。あれは——ここから来たのかもしれない」
その瞬間、風が動きを変えた。
渦を描くように集まり、奏たちの前に一つの姿を結ぶ。
それは人の形をしていたが、人ではなかった。風の粒子が集まり、衣をまとい、目を持ち、口をひらく。だが、そこに明確な輪郭はなかった。揺れ、ほどけ、また形を成し……。
そして声が響く。
「風の徒よ。ここは始まりであり、終わりでもある。汝がた、名を帯びし者たちよ、答えを示せ」
風の名を持つ者。風のことばに触れ、名乗った者への問い。
奏は一歩進み出る。風が彼の身体を包み、共鳴するように流れた。
「わたしは、風の名を得ました。“ナル=カザド”。それは、“風に名乗る者”という意味の……」
「では、汝は名を持つ責を知る者か?」
「はい。名を持つことは、名に応えること。そして、風と共に在るということ」
言葉を終えた瞬間、風の空間に共鳴が走った。
粒子が振動し、まるで風そのものが奏の心を覗いているかのような感覚が広がる。
だが、次の瞬間——試練は始まった。
奏の前に広がったのは、彼の内面を映す“風の庭”だった。
村を旅立つ前の風の丘、師匠と初めて出会った山の麓、魔法学舎の講義室、そして、風の塔の門の前——奏がこれまで歩んできた「風との出会い」が次々に浮かび上がる。
その中に、一つ、異物が紛れていた。
風が荒れ狂う場所。名を持たないものが、怒りと混乱の中で吹き荒れている。
「これは……」
「風に拒まれし場所だ。名が与えられず、忘れられた風の一つ。汝が名乗りを得たというなら、そこに歩み寄り、名を与えられるか」
風の存在に名を与える——つまり、共に在ると認めること。
奏は足を踏み出す。風が鋭く切りつける。思考を乱し、感情を掻き乱す。
だが、奏は目を閉じて、ゆっくりと語った。
「……君も、風なんだよね」
風は咆哮した。否定するように、拒むように。
「名前がなくても、ことばにならなくても、君は、ずっとここにいて——感じていた」
風が一瞬、動きを止めた。
奏は両手を広げて言う。
「わたしは君に、名前を贈る。“カザル”。“呼びかけに応える風”って意味だ」
その名が空間に響いた瞬間、荒れた風は静まり、優しく渦を巻き、奏の周囲を包んだ。
——認められた。
そして、声が再び響いた。
「風は名を得た。汝もまた、“風を呼ぶ者”としての道を進むに値する」
光が降る。柔らかな風が奏の身体を包み込み、彼の背へと流れ込む。
新たな風の魔法の核が、彼の中に灯った。
視界が戻ると、仲間たちが待つ場所へ戻っていた。
リアガンは目を細め、笑みを浮かべて言った。
「おかえり、“風を呼ぶ者”。今の風、綺麗だったな。お前らしい」
リウは無言で頷き、シフは一歩近づいて、静かに言った。
「これで、君は“風に名乗る者”から、“風と語らう者”になった」
奏は小さく笑い、仲間たちを見渡す。
「ありがとう。……さあ、次の扉へ行こう」
風の塔、その果てへ向けて——新たな扉が、音もなく開いた。




