第四十三話、風のことばと呼ばれるもの
――風の祭殿、深奥。夜の静寂の中、石造りの広間の空気は水のように澄んでいた。
奏の足元に、淡く発光する環状の紋が浮かび上がる。石床に刻まれたその文様は、風の民が古来より継いできた“名を結ぶ儀式”の場であることを示していた。
リアガンは壁際に立ち、肩にかけた水色のストールを軽くなぞるように整えながら、あいかわらずの軽い調子で言った。
「……それにしても、風に真名を問われるなんてな。まるで童話の中のようじゃないか」
「童話じゃありません。これは本当の儀式です」
と静かに言葉を挟んだのは、シフだった。長い髪を後ろで束ねた師匠は、褪せた紺の外衣を風に揺らしながら歩み寄り、奏の肩へとそっと手を置く。
「君がこの地で“風と交わす名”を見つけられるかどうか。それが、この場所に導かれた本当の理由だ」
奏は黙ってうなずいた。風は、ただ風として吹きすさぶものではない。この土地の風は、古き精霊と同じく、意志を持ち、ことばを交わす存在だという。
彼――奏――が選ばれし者としてここに立つには、風に“自分の真なる名”を開示し、受け入れられねばならなかった。
広間の中心。奏が立つその場に、四方から微かな風が集まり始める。
壁のない高天井から注ぐ月光が儀式の場を照らす中、地に描かれた風の輪が静かに光を増し、彼の足元に風の精霊たちのささやきが重なり合って届いた。
――「名は、何か?」
――「何者として在るかを、語れ」
――「風と共にあれ」
ひとつ、またひとつと、異なる声が重なっていく。それは耳で聞くものではない。肌で、心で感じる問いだった。
奏は、目を閉じ、深く息を吐いた。
(わたしの、名。わたしという存在が、風に示せる“真実”……)
それは単なる音ではなく、記憶や願い、歩んできた道そのものだった。
村を出たあの日。
風を読む力に気づいた幼き日々。
シフとの出会い、魔法との対話。
仲間と重ねた試練の数々。
そして、恐れや迷いを越えて、いまこの地に立っている自分――
「わたしは、奏。風とともに歩む者。
……風のことばに耳を澄まし、世界の理を知りたいと願った者。
迷い、傷つき、それでも歩き続けてきた。
……これが、わたしの名。わたしのことば。これが、わたしだ」
彼の声に応えるように、周囲の風が一斉に旋回し始める。青白い光が舞い、広間の空気が震える。
――受け入れられた。
――名は交わされた。
――この者は、風と歩む者なり。
広間に、柔らかな風が満ちた。
だが――それは、終わりではなかった。
真名を語った直後、奏の前にもうひとつの円環が浮かび上がった。それは、彼の語った“真なる名”の影とも言える闇の輪――
そこから立ちのぼったのは、“否定”の風だった。
――本当に、その名は真か?
――お前のことばは、試される。
風の影が具現化し、奏の眼前に立ちはだかる。それは彼自身の姿を模した影。だが、その目は冷たく、何も信じてはいなかった。
「……おまえは、風と語れるつもりでいるのか。おまえはただ、風に守られているだけだったのではないか」
「そんなこと……!」
「“名”とは重い。“名”とは責を伴う。風と結んだその名を、果たしておまえは、全うできるのか――!」
影は手をかざし、風の刃を生み出す。その刃は、奏が語った“決意”そのものを斬り裂こうとする。
「――やらせておけるかよ」
リアガンが動いた。足元に気配を立てず踏み込み、影の斜め後方から軽やかに入り込むと、外套の内から何かを取り出してそれを地に放つ。
パチン、と小さな破裂音。霧のような微粒子が拡散し、影の視界を遮った。
「少し冷やしてやれ、奏。おまえの名が偽りでないなら、あんな影風に怯むな」
「リアガン……!」
その声に応じて、奏は再び風を手に集める。
「わたしの名は……“風と歩む者”だ!」
両手を広げ、風の魔法陣を再び展開。舞い上がる風が、影の吹き出す闇風と正面からぶつかり合い、広間は一瞬、嵐の中心となった。
その風の激流の中、奏の声が響く。
「わたしは、風のことばを信じる! たとえその影が、わたしの弱さを映すとしても、わたしの名はもう――“選んだ者”のものだ!」
風が渦巻き、影の姿がゆっくりと霧のように薄れていく。
最後に影が残したのは、かすかな囁き。
――ならば、その名を生きよ。真に、歩め。
影が消えると同時に、広間の光が満ちた。
風が穏やかに吹き、そして――精霊のような微細な存在たちが、奏の周囲に浮かび上がる。
その中心に、かすかに輝く“風の真名”の記号が現れ、彼の胸元へとすうっと吸い込まれるように刻まれていった。




